特集2009 重イオンビームを用いた変異技術による新品種の開発

阿部 知子

重イオンビームを用いた変異技術による新品種の開発

独立行政法人理化学研究所 仁科加速器研究センター 生物照射チーム チームリーダー 阿部知子

 自然界では、宇宙線、紫外線、化学物質などの影響を受け遺伝子が傷つき、その結果突然変異を起こすことがあります。これを人為(じんい)的に起こすのが重イオンビームを使った育種。塩害などに強い作物や、重金属を集める植物など、有用な性質を持つ品種の開発に役立つだけでなく、遺伝子の機能や意味を解き明かす重要な研究ツールとしても注目されています。

重イオンビームで突然変異を誘発、育種に活用する

―農業では、人々が栽培植物に望む性質が多様化しているため、新品種を作る育種技術がますます重要になっています。例えば、家庭で園芸を楽しむのでも、同じように育てることができ、様々な色や一重や八重など多彩な花があるシリーズの品種に人気があります。こうしたニーズに応える育種技術にはどのような手法があり、理研で開発した重イオンビームをどう利用しているのでしょうか?

阿部 花の色や形などを人為的に変える品種改良では、元となる花と導入したい性質を持った仲間の花の間で、雌しべに雄しべの花粉をかけ、まずは色々な性質を持つ雑種集団を作り、その中から目的とする性質を持った個体を選抜し、固定するという交雑育種が主流です。
 一方、これまで存在しなかった青いカーネーションや青いバラの育成は、本来持っていなかった青い色を作る遺伝子を、他の植物種から遺伝子組換え技術を用いて導入することで成功しました。
 これに対し、突然変異を人為的に誘発し、その中から目的とする性質の変異体を選抜し、新品種を育成することを 突然変異育種法と言います。これまで変異原(変異を誘発するもの)として、化学物質やエックス線やガンマ線などの放射線がありました。私たちは、理研リングサイクロトロン(粒子などを渦巻き状に走らせて加速する機器)から発生する重イオンビームを変異原として利用する新しい突然変異育種法を研究しています。

―突然変異を誘発する際に用いる重イオンビームとは何ですか。

E5 ビームライン

阿部 重イオンとは、原子から電子を取り除いて作られたイオンの中でも、ヘリウムイオンより重いイオンのことです。それをリングサイクロトロンで、光の速さ(約30万km/秒)の50%近くまで高速に加速して、重イオンビームを作ります。このような重イオンビーム照射を育種学分野に活用している施設は世界でも数カ所で、理研はその中でも最も植物育種に適した施設です。

―具体的に、どんな実績があるのでしょう。

阿部 2007年10月に発表した新品種の桜「仁科蔵王」では、緑色の花を咲かせる元品種「御衣黄(ぎょいこう)」の枝に重イオンビームを照射し、青葉桜の台木に接木(つぎき)したところ、接木した枝から次々と黄色っぽいの花が咲きました。次の年もその次の年も、この枝をさらに接木して増やした株で、同じ黄色っぽい花を付けました。こうして、重イオンビームによる突然変異で新たな品種を作出しました。この黄色い花を咲かせる桜は、仁科加速器研究センターの由来となった「日本の現代物理学の父」仁科芳雄博士と共同開発した山形の育種家にちなみ、「仁科蔵王」と名付けました。普通のピンクの桜と一緒に植えると、美しさを相互に引き立て合うなど、鑑賞上の価値を高めることができます。現在、理研ではこのような新品種を、ダリアや、ペチュニア、バーベナ、トレニアなど17種類の草花で実用化し、市場で流通しています。

―突然変異体が新品種として出回ることで、生態系に影響は出ないのでしょうか。

阿部 遺伝子の突然変異は、自然界では低い頻度ですが、当たり前に起こっている現象です。頻度が低いので、そう簡単に新品種が誕生するまでには至りませんが、自然突然変異は進化の1つの要因であると言われています。そしてこの自然突然変異は地球上のすべての生物に対して生じます。例えば雑草にも、虫にも、微生物にも。私たちが育種に利用する突然変異体はそのほんの一部でしかありません。また、人為的に誘発する変異の原理はこの自然突然変異と同じです。待てばいつか同じ変異体が自然突然変異で出てくるかもしれないものを、私たちは人為的に変異の効率を上げて変異が出てくるために必要な時間を短縮しているのです。従って、生態系への影響はありません。

―重イオンビーム育種において、画期的な点は何でしょうか。

阿部 これまでの変異原では、目的とする遺伝子を壊すためには、半分が枯れたり、生長を著しく阻害するような他の遺伝子も破壊してしまうほどの処理が必要でした。そのため、目的とする性質を持った変異体を選抜したのち、壊してしまった他の性質を元に戻すために交雑を繰返し新品種とします。重イオンビームでは、ほどんどの植物が元気に生長するような処理で突然変異を誘発することが可能です。それは、植物体を高速で通過するとき重イオンビームの影響は、数ナノメートル幅という局所的な範囲に限定されるからです。そこにDNA鎖があれば、DNA鎖を切断します。植物はDNA鎖を修復しようと試みますが、完全に元通りには直せず一部のDNA鎖が足りなくなり、遺伝子がその機能を失い変異体となります。こうして選んだ変異体では、目的とした遺伝子以外は壊れていない確率が高いと考えられます。重イオンビーム育種では、選抜した変異体そのものが新品種になり得るため、交雑育種では10年と言われる育種年限を3年に短縮することができました。
 さらに、ゲノムサイエンスの発展により、正常株と変異体のDNA配列を比較することにより、新しい遺伝子機能の解明を進めることができます。これらの知見をあわせることで、環境保護や食糧問題の解決などに役立つ品種を作り出すノウハウを効率的に蓄積していきたいと思います。

当アプローチから生まれた品種の具体例

―環境問題への対応という点ではどういう成果が得られているのでしょうか。

阿部 いくつか具体例をあげましょう。

【レアメタルを蓄える植物】 
 シダやコケなどの植物には、カドミウムや鉛などの重金属を溜める性質があります。理研植物科学研究センター、東京理科大学とDOWAグループの企業とともに、コケ植物が持っている機構を効率化することによる、重金属で汚染された水質や土壌の改良に寄与する研究を行っています。また、特定の重金属、たとえばレアメタルを回収する変異体の育成も期待され、貴重な鉱物資源を、植物を使って回収する研究へと発展しています。

【塩害水田でも育つイネ】
 土壌に塩分が集積し、土壌環境や農業に被害をもたらす塩害は、アメリカやアジア諸国で深刻化しています。私たちはモデル実験として、DNAの配列が分かっているイネ「日本晴」品種を用い、塩害に強い変異体の研究を理研オミックス基盤研究領域、東北大学と行っています。野生イネの塩害耐性形質を栽培イネへ交雑育種法で導入する研究は世界中で20年以上試されましたが、農業上有用な系統は育成できませんでした。ところが理研で炭素イオンを照射した173系統(1粒の種子を育てた1個体から採種した子孫種子が1系統)を塩害水田に播いたところ、塩害水田でも健全に育つ2系統の耐塩性変異系統を選抜できました。出現率でいうと1.2%に達します。これをさらに高める照射条件を見つけ、理研に持ち込まれるさまざまな作物に、例えば劣悪な環境に耐性を持たせる品種改良などにお役に立てたら良いなあと思っています。

【都市緑化を推進】
 ビルの壁面緑化や屋上緑化に適した、剪定や除草の頻度が少なくて済むコンパクトなサイズの植物の新品種をFlorsaika、角田ナーセリーと協力して耐寒性マツバギクで、また宮崎大学と協力してチガヤで作りました。これは、景観向上や都市部のヒートアイランド現象の緩和に役立つ技術となりそうです。

【食糧の安定供給実現】
 農家では、ソバやヒエを使って、水稲栽培との二毛作を行ったり、休耕地を有効利用したいというニーズがあります。しかし、ヒエはイネよりも背が高く、収穫時にイネを刈り取るコンバインが使えない、ソバも背が高く強風に倒れてしまうという問題がありました。そこで、背が高くなる遺伝子を破壊して、草丈が短くなるヒエを岩手県農業研究センターとソバを長野県中信農業試験場と共同で開発し、新品種候補が得られています。

「花が咲くのは、なぜ」という疑問が研究の始まり

―学生時代は農学を専攻されていたそうですが、どのようなことに関心を持っていたのですか。

阿部 農作物では実を食べるものが多いため、「花が咲くこと」を制御することができたら、いつでもどこでも食べれるかも?と「花はなぜ咲くのか」ということに興味を持っていました。大学院ではアスパラガスの雌雄性をテーマに研究していました。その頃、アスパラガスは雌雄の判定を花の形で行っていたため、花が咲かないと雌雄の判定ができませんでした。食用にする若茎を3割程度多く生産する雄株を生産農家としては、畑に植えたいのですが、花が咲くまでに2〜3年かかるため苗での雌雄判定はできませんでした。そこで、私は雌雄を苗で判定できるタンパク質を探していたのですが、ひょんなことから、芽がでてわずか1ヶ月のアスパラガスに花を咲かせる薬剤を発見しました。理化学研究所に入ったのも、それが縁になっています。
 植物の雌雄性研究については、いまも東京大学と共同で行っています。この研究は重イオンビームを利用することで、大きく前進することができました。ヒロハノマンテマという植物には雄株(染色体はXY)と雌株(XX)があり、古くから植物の雌雄性研究のモデル植物でした。Y染色体が傷づけば、照射した種子を育てた花の形で変異したものが探せます。育てている株が雄株か雌株かは今のほんの少しのDNAを使って鑑定することができます。そうしたところ、雄株なのに、雄花ではなく両性花を付け種子を作ってしまう変異体が誕生しました。その種子は発芽し、両性花が咲く性質は遺伝します。こうした研究を通じて、植物のY染色体の持つ機能が判明できると嬉しいです。

―重イオン加速器施設は、元素の起源や原子核構造などを研究する核物理学で主に使われていますが、理研では生物学などにも使われているのがユニークですね。

阿部 そうですね。世界中の巨大な加速器施設は核物理学研究のために建設され、核物理学の研究のみを行っているところがほとんどです。重イオンビームが育種に使われているのは、世界中に6箇所しかありません。どうして私たちが理研のRIビームファクトリーで実験できるかというと、日本の近代物理学の父であり、理研における加速器研究の祖である仁科芳雄博士の教えがあるためです。それは「加速器は常に広く学際的に利用すべし」、すなわち、サイクロトロン実験は核物理学以外、たとえば原子物理学、核化学、生物学や医学などにも2〜3割の時間を配分するというものであり、これは理研の伝統として根付いています。また、現在私たちが使っている生物照射ビームラインは理研リングサイクロトロン建設計画の時代から放射線医学総合研究所と共同で、重イオンビームによるがん治療研究のため開発が進められたもので、私たちはその恩恵に預かっています。

―今後はどのような研究に取り組まれる予定でしょうか。

阿部 まずは、照射条件による変異率の向上です。いま1%のものを3%にしていく、という具合です。植物種によっては、数10%近い変異率も可能になっています。また、モデル植物で変異機構の詳細を解析することによって、変異に有効な照射に反応するようなマーカー遺伝子が発見できたら、よりさまざまな植物の品種改良を短期間に行いたいという市場ニーズにも応えることができると考えています。さらに、もっと重い重イオンを照射した場合のDNA損傷に与える影響に関する研究も始めています。変異が全く生じなかったり、他の10倍以上の線量でやっと変異が生じたりする植物があります。これらの特性を解析したら、宇宙で育つ植物やDNA損傷を正しく直す能力の高い植物を創ることができるかもしれません。

―変異率の向上ということは、突然変異が、「突然」ではなくなり、意図した品種を狙い打ちで作れるようになってくる、ということでしょうか。

阿部 いいえ。まだとても、そこまでできる段階ではありません。例えば、狙い打するためには、目的とする1つの遺伝子に重イオンビームを照射する必要があります。重イオンビームが、狙える領域はまだマイクロメーター(μm)程度ですし、生細胞の核にある染色体上の壊したい遺伝子部分をマークするという技術はありません。今後、物理技術と生物技術がともに発展することにより、狙い打ちが可能となることを願っています。とはいえ、とりあえず1遺伝子破壊は偶然生じているため、重イオンビーム照射技術は、ゲノムサイエンスが進展する上での有力なツールであることを各国の研究者も認識し、基礎科学のユーザーが増えてきています。

―具体的にはどういうことが分かりそうなのですか。

阿部 DNAの配列が分かっていても、遺伝子としての役割がすべて解明されているわけではありません。そうした状況下で、変異体を持っている、または作成する技術を有していることは、ゲノムサイエンスを進展させていく上で、大きな利点になります。正常株と変異体の遺伝子を比較すれば、欠失した遺伝子がどんな機能を持っていたか、推測できるからです。ユーザーの希望にそえるように、照射実績と変異解析データを蓄積し、遺伝子や染色体破壊技術の更なる向上をはかりたいと思っています。