現在の研究内容


テラヘルツ光照射で物質の構造を操作する

テラヘルツ光照射による高次構造変化を実現 ― 光で高分子の物性や機能を制御する新テクノロジーへ道筋 ―

背景
「テラヘルツ(THz)光」は、電波と光の中間の周波数の電磁波です。近年、世界的に光源開発が進み、高出力THz光を生み出す手法が次々と開発されています。日本でも非線形光学効果による発生法や自由電子レーザーやジャイロトロンなどの高強度THz光源が開発され、それらの装置を活かした応用研究が始まっています。なかでも、高強度THz光と物質の相互作用の解明は、物理、化学、生物分野における新しい現象の発見につながると期待されています。 THz光の周波数は、高次構造と呼ばれる高分子鎖の高次の構造の運動や、高分子鎖間に作用する水素結合の振動運動の周波数に相当します。そのため、高強度THz光の照射は高次構造やその運動状態を変える可能性があります。一方で、プラスチック、ゴム、セルロース、タンパク質などの高分子は、たとえ同じ分子でも高次構造によって物性や機能が異なります。プラスチックでは、結晶化度の違いによって硬さや透明性が変化します。タンパク質では、二次構造や三次構造が変わることによって生体に対する機能が変化します。したがって、高次構造の変化をTHz光によって誘起できれば、高分子の機能や物性を変える新しい手段が生まれると考えられます。 そこで共同研究チームは、高強度テラヘルツ光を高分子に照射して、その変化を確かめることにしました。

研究手法と成果
共同研究グループは、本研究のTHz光源に大阪大学産業科学研究所の磯山悟朗教授らが開発した自由電子レーザーを用いました。生分解性ポリマーの1種であるポリヒドロキシ酪酸(PHB)のクロロホルム溶液に、自由電子レーザーの出力光である周波数3~8THzのパルス光を照射しながら溶媒を蒸発させ、ポリマー膜を作製しました。(下図)


レーザー共焦点顕微鏡[5]によって試料表面の結晶構造を観測した結果、THz光を照射した試料では数マイクロメートル(μm、1μmは1,000分の1mm)サイズの大きな結晶が成長していました。また、試料の赤外吸収スペクトル[6]から高分子中に結晶が占める割合である「結晶化度」を求めたところ、THz光を照射しなかった試料に比べて20%の結晶化度の向上がみられました。


このようなポリマーの構造変化は、熱の影響でも起こる可能性がありますが、今回の実験条件では、THz光照射による温度上昇を1℃以下に抑えており、単なる温度の違いが結晶化をもたらしたとは考えられません。THz光が、ポリマー分子や周囲の溶媒分子の運動状態に対して何らかの影響を与え、それが結晶化へとつながったと考えられます。

今後の期待
本研究では、ポリマーの高次構造変化の詳細なメカニズムの解明に至りませんでしたが、今後、その解明が進めば、機能性材料の開発や光による機能制御など、高分子を対象とした新たなテクノロジーの確立につながると期待できます。

理研プレスリリース
フジサンケイビジネスアイ


テラヘルツ分光による高分子高次構造の解明

テラヘルツ分光で何が見えるのか?

 THz領域で観測されるスペクトルは,気体,液体,固体で異なる運動状態を起源とします.気体ではマイクロ波・ミリ波領域と同様に,分子の回転運動による鋭い吸収線が観測されます.THz領域ではマイクロ波よりも周波数が高いため,水やメタノールなどの回転定数が大きい分子の吸収が観測されることが知られており,それらの分子の高分解能分光はアルマあかりなどによるテラヘルツ天文学の基礎データとしての価値があります.(気相分子のテラヘルツスペクトルはJPLHITRANのデータベースで参照できます.)一方,液体では分子の回転緩和や秤動運動によるブロードな吸収が観測されます.THz領域の液体の吸収は,GHz領域から続く連続的な吸収構造の一部であり,誘電緩和スペクトルと併せて解析される事が多いです.
 一方,固体のTHzスペクトルには,フォノンや分子間振動による吸収ピークが観測されます.特に糖やアミノ酸などの有機物結晶は物質固有の吸収を示すので、THzスペクトルは赤外吸収スペクトルと同様に「指紋スペクトル」と呼ばれる.現在,理化学研究所と情報通信研究機構の共同で,THz指紋スペクトルのデータベースが構築され,Web上で公開しています
 THz領域の分子振動スペクトルには赤外スペクトルとは異なる以下の特徴があります.
以上のように,THz振動スペクトルは赤外吸収スペクトルに比べて複雑ですが,今後さらなる基礎研究の発展が期待されている分野です.

PHBのテラヘルツ分光

 現在私はポリマーのテラヘルツ吸収スペクトルに注目し,テラヘルツ分光によるポリマー高次構造の観測を試みています.ポリマーの物性はその高次構造によって支配されているため,高次構造を明らかにすることは新機能を持った物質の開発に重要です.従来,これらの高次構造は小角X線散乱やDSC,NMRなどによって研究されていますが,分光学的な研究手法が加わることにより高次構造のダイナミクスを直接観測できる可能性があります.
 以下に生分解性ポリマーの一種であるポリヒドロキシ酪酸(PHB)を対象に分光測定を行った例を示します.PHBは生分解性ポリマーの一種でラメラ結晶とアモルファスの異なる構造を取ります.(下図)通常はこの両者が混在しています.
PHBのアモルファス(左)とラメラ(右)構造.実践は分子鎖,点線は水素結合を表している 

 下図に結晶性の高いPHB (a),結晶性の低いPHB(b),アモルファスPHB (c)の吸収スペクトルを示します.結晶性の高いPHBには1.5THz,2.49THz,および2.92THzに吸収構造を持ちますが,結晶性が低くなるにつれ2.49THzの吸収が弱くなり,アモルファスPHBではブロードなスペクトルになる.従って,これらの吸収ピークはラメラ構造と呼ばれるPHBの結晶構造によるものであると考えられます.
 結晶性の異なるPHBのTHz吸収スペクトル
 観測された吸収ピークの起源を探るため,延伸し結晶軸を揃えたPHBのTHz偏光スペクトルを測定しました.PHBのラメラ結晶では分子鎖がヘリックス構造を形成し,そのヘリックス同士がCH...O=C水素結合によって規則正しく並んでいますが,PHBを暖めた状態で延伸すると,結晶のc軸が延伸方向に揃う事が知られています.そこで,テラヘルツ分光器の偏光方向に対してc軸の角度を変え,振動のダイポールモーメントの配向を決定しました.下図はから,2.9THzと2.4THzの吸収はPHBのラメラ構造方向に遷移双極子を持ち,2.5THzの吸収がそれに垂直な方向を向いている事がわかります.2.9THzと2.4THzの遷移はPHBのヘリックス構造の振動であり,2.4THzはヘリックス間の水素結合に関連した振動であることが推測できます.実際,上図では結晶化度が上がるにつれ2.5THzのピークの吸収強度が増加していますが,結晶化度が上がるにつれてヘリックス間の水素結合の数が増加することは知られており,その結果吸収スペクトルの形状が変化したものとして説明できます.
 延伸PHBの偏光スペクトル


 また,PHBの温度を10Kから465Kまで変化させながら測定した結果,吸収ピークの周波数が大きくシフトすることがわかった.下図は吸収のピーク位置を温度の関数としてプロットしたものです.ヘリックス間の水素結合によるものと思われるピークに大きな周波数シフトが観測されましたが,これは振動のポテンシャルに大きな非調和性があることを示唆しています.振動ポテンシャルの非調和性は,熱膨張率と関連しており,実際水素結合方向(a軸)の熱膨張率は他の軸に比べて著しく大きいということがX線散乱による研究で知られていることが,上記のスペクトル解釈の裏付けになっています.
 
 PHBのTHzスペクトルの温度依存性
 以上のように,THzスペクトルには高分子の高次構造を反映した吸収構造が現れることがわかります.スペクトルを詳細に解析することで,高次構造の振動モードの決定し,そこから分子間ポテンシャルの形状や高次構造の温度変化などの情報が得られます.このような情報は従来手法で得ることが難しい場合が多いため,テラヘルツ分光はポリマーに限らず高分子研究の新しいツールになる可能性があるといえます.

テラヘルツ分光の効率化:二次元相関分光法の導入

 常温においてテラヘルツスペクトルは線幅がブロードであり複数の吸収モードが重なり合ってしまうという欠点があります.そこで,統計的スペクトル解析手法である二次元相関分光法を導入することで,より詳細で効率的なスペクトルデータの解析が可能になります.下図は90℃におけるPHBの等温結晶成長過程の二次元相関スペクトルです.(a)Synchronous プロットではラメラ結晶を示す2.4THzと2.9THzのピークがアモルファスの0.5-2.0THzの吸収と反相関にあることがわかり,アモルファスからラメラへと構造が変化していることがわかります.一方,(b)asynchronousプロットでは2.2THzと2.4THz,2.2THzと2.9THzの間に非対角成分が観測され,2.2THzの吸収よりも2.4THzと2.9THzの吸収が遅れて成長していることがわかります.2.2THzの吸収は水素結合によるものであり,2.4THzと2.9THzの吸収はラメラ構造の骨格振動であることから,等温結晶成長過程において水素結合振動が先に形成され,後から骨格振動が増加することが推測できます.
 このように,ポリマーのテラヘルツスペクトルに二次元相関分光法を適用することで,ブロードなテラヘルツスペクトルからでも構造変化に関する詳細な情報が得られることがわかります.
PHBの等温結晶成長(90℃)の二次元相関スペクトル



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