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2010年12月6日

独立行政法人 理化学研究所
国立大学法人 東京大学
国立大学法人 広島大学
学校法人 東京理科大学

反水素原子ビーム生成装置が稼働開始へ

-独自開発のカスプトラップ法により、反水素原子ビームの生成が目前に-

ポイント

  • カスプトラップ法により反水素原子を7%以上の効率で生成
  • 超微細遷移の測定に必要な反水素原子ビームの生成・引き出しに最適な実験系を確立
  • 「CPT対称性の破れ」の検証実験へ大きな一歩

要旨

独立行政法人理化学研究所(野依良治理事長)と国立大学法人東京大学(濱田純一総長)、広島大学(浅原利正学長)、学校法人東京理科大学(藤嶋昭学長)は、欧州原子核研究所(CERN)の反陽子減速器と独自に開発した「カスプトラップ法」により、極低温の反水素原子※1を7%の効率で生成することに成功しました。この結果、反水素原子ビーム生成への道を拓くことができ、電場や磁場の影響を受けることなく反水素原子の精密測定を実現できます。理研基幹研究所(玉尾皓平所長)山崎原子物理研究室の榎本嘉範協力技術員、山崎泰規上席研究員、東京大学大学院総合文化研究科の黒田直史助教、松田恭幸准教授らを中心とする国際共同研究グループ※2の成果です。

ビッグバンから始まったと考えられている私たちの宇宙には、物質と反物質が等量存在するはずです。しかし、広い宇宙のどこを見てもあるのは“物質”ばかりで“反物質”は見当たらず、消えた反物質の謎として知られています。研究グループは、反物質の代表格である反水素原子の性質を精密に観測し、それを水素原子と比較することで(CPT対称性※3テスト)、物質と反物質の間にどのような違いがあるのかないのか、さらに、なぜ私たちの宇宙が物質ばかりからできているのか、という謎を解こうとしています。この目的を達成するためには、「ビームとして取り出した冷たい反水素原子をマイクロ波分光して、超微細遷移を測定する」、あるいは、「極低温にして磁気瓶※4に閉じ込めて、レーザー分光する」などの方法が有力だと考えています。

研究グループは、反水素原子ビームを取り出すため、特殊な電場と磁場を持つ「カスプトラップ法」を独自に考案・開発しました。この方法では、反水素原子の原材料である陽電子※5(電子の反粒子)を装置内に蓄積・冷却し、次いで、陽電子付近に反陽子※6(陽子の反粒子)を打ち込みます。反陽子は陽電子と衝突して冷たくなり、ついには両者が結合して冷たい反水素原子になります。この反水素原子は電気的に中性なため、電場の影響を受けずに四方八方に拡がり、20cmほど離れた再電離トラップに到達します。この到達した反水素原子の一部は、陽電子をはがされ反陽子に戻ってとどまります。この再電離反陽子の数から、打ち込んだ反陽子の少なくとも7%が反水素原子に変換されていることが分かりました。この結果、カスプトラップからの反水素原子ビームを用いて、反水素原子の精密分光を実施する目処が立ち、実質的な反物質科学研究をまもなく開始することができます。

本研究の成果は、米国の科学雑誌『Physical Review Letters』に掲載されるに先立ち、オンライン版に近日掲載予定です。

背景

反水素原子は、陽子の反粒子である反陽子と電子の反粒子である陽電子が結合したもので、反物質世界の代表として知られています。この反水素原子と水素原子の性質を詳しく調べることで、反物質の世界が私たちの住んでいる宇宙とどのように違うか、あるいは同じか(CPT対称性テスト)を、これまでにない精度で明らかにすることができます。CPT対称性は、それ自身で非常に興味深い基礎物理学の重要な研究対象ですが、同時に、私たちの住むこの宇宙がなぜ物質だけでできているのかという謎に関する情報も提供すると期待されます。

研究グループの実験では、反水素原子の重要な構成要素である反陽子は、CERNの加速器を用いて、数百億電子ボルトに加速した陽子ビームを金属ブロックにぶつけることで生成しています。生成した反陽子のエネルギーは数十億電子ボルトに達するので、これをさまざまな方法でなだめすかし、零下270℃付近の極低温(数千分の一電子ボルト)まで冷却した後、やはり極低温の陽電子と混ぜ合わせて反水素原子を生成します。このような冷たい反水素原子の生成は、「ATHENA」と「ATRAP」と呼ぶ欧米を中心とする研究グループが、それぞれ独立に2002年に実現しました。その後、これらのグループは反水素原子を閉じ込める研究に全力を注ぎ、つい3週間前には、山崎泰規が参加している「ALPHA(ATHENAの後継グループ)」が、特殊な磁場分布を持つ磁気瓶内へ極低温の反水素原子を38個閉じ込めることに成功し、反水素のレーザー分光に大きな一歩を踏み出しました(2010年11月18日プレスリリース)。

一方、反水素原子を構成する反陽子と陽電子が持つ磁気モーメント(磁石の強さ)間の相互作用(超微細遷移)は、CPT対称性テストを行う上でより有効な指標であるとも考えられています。しかし、磁気瓶の中のように強い不均一磁場にさらされていると、超微細遷移の精密な観測を行うことができません。研究グループは、この困難を解決するため、特殊な磁場分布を持ち、生成した反水素原子を収束させて、ビームとして外へ引き出すことができる「カスプトラップ法」を独自に考案、開発し、反水素原子の大量生成を目指しました。

研究手法と成果

カスプトラップ法に用いる装置では、超伝導ソレノイドコイル2個を同軸上に置き、このコイルに互いに逆向きの電流を流して、中心がゼロで軸対称な磁場を形成します。この軸対称性のため、反水素原子の“原料”である反陽子と陽電子を、高い密度で安定に蓄積かつ制御することができます。これはカスプトラップが持つユニークで優れた性能となっています(図1左側)。2個のコイルの中央部には、17個の電極からなる直径8cm、長さ約50cmの円筒多重電極(図2a)を配置し、この中で反陽子と陽電子をそっと混合して、反水素原子を生成します。生成した反水素原子は、磁気モーメントを持つ電気的に中性の小さな磁石なので、電場の影響はほとんど受けず、一様な磁場にも反応しませんが、磁場強度に分布があると影響を受けます。磁気瓶では、特殊な磁場分布を形成して反水素原子を捕まえましたが、カスプトラップの磁場分布では、このように生成した反水素原子のうち、一定方向の磁気モーメントを持つ反水素原子だけを選択的に収束し、ビームとして引き出せるように設計しています(図1薄い赤)

実際の生成法を模式的に示すと(図2b)、まずφ1(赤の波線)のような電位分布を形成し、100電子ボルト程度のパルス状の陽電子を上流(左側)から打ち込みます。あらかじめ設定した場所(図2bの“陽電子”)に陽電子が到着したころを見計らって、上流の電圧を上げ(図2bのφ2、陽電子を捕まえて圧縮します。このあたりは2テスラ(T)程度の高磁場になっており(図2c)、陽電子はシンクロトロン放射※7により、数秒の間に極低温まで冷却されます。その後、陽電子を捕まえたまま全体の電圧分布をなめらかに変化させ(図2bのφ3、反陽子を捕まえる場所(図2b“入れ子トラップ”)を作ります。次に、上流の電位を上げて(図2bのφ4数十万個の反陽子を打ち込み、入れ子トラップに反陽子が到着したころを見計らって電位を元に戻すと(図2bのφ3、反陽子も捕まえることができます(図2b“反陽子”)。その結果、反陽子と陽電子は相互作用を繰り返し、一部は互いに結合して、さまざまな励起状態の反水素原子となります。反水素原子は電気的に中性なので、電場の束縛を受けず、入れ子トラップの中心から四方八方に飛び散ります。その一部は、入れ子トラップから20cmほど離れたところに形成した“再電離トラップ”と呼ぶ領域に到着しますが、高い励起状態にある反水素原子は、この再電離トラップの強い電場によって反陽子と陽電子に電離され、反陽子だけが再電離トラップに再び捕捉されます。その後、再電離トラップを急激に変形(図2bのφ3→φ5すると、再電離トラップにたまっていた反陽子が下流(右側)に掃き出され、電極に衝突して消滅信号を出します。この消滅信号の数を数えることで、反陽子が何個捕まっていたかが分かります。実際に、陽電子と反陽子を混合した後、再電離トラップにたまった反陽子の掃き出しを、5秒おきに20回繰り返してその数を数えました(図3)。混合後約30秒経過すると、捕まえた反陽子の個数、つまり反水素原子の生成率が最大になり、その後次第に減少していくことが分かりました。一度に数十万個の反陽子を用いた反水素生成を数分間隔で繰り返すことのできる実験はこれまでになく、また、陽電子のかたまり(雲)を不均一磁場中で圧縮し、高い励起状態にある反水素生成のダイナミクスを直接測定できたのも初めてのことです。また、実験条件を調整すると、打ち込んだ反陽子の少なくとも7%が反水素原子に変換されていたことも分かりました。

この成果は、研究グループが独自開発したカスプトラップ法で実際に反水素原子を生成した世界初の成功例であるとともに、これまでに知られている手法の中で、反水素原子をビームとして引き出し、超微細遷移のマイクロ波精密分光を可能にする唯一の実験手法といえます。反水素原子を用いた実質的な意味での反物質研究が目前になりました。

今後の展望

今回、反水素原子を実際に生成することができたため、超微細遷移のマイクロ波分光に向けて大きな一歩を踏み出しました。カスプトラップ法は、アイデアから技術開発、実際の反水素生成まで、いずれの段階においても主要部分が“国産”という大変ユニークな反水素研究実現の手法となっています。2011年には、まず反水素原子ビームの引き出し効率を最適化し、次に、マイクロ波磁気モーメント反転器と六重極磁気モーメント選別器を下流に接続します(図1右側)。マイクロ波磁気モーメント反転器に加えるマイクロ波の周波数が超微細遷移周波数に一致すると、反水素原子の磁気モーメントが反転し、六重極磁気モーメント選別器を通った際にビームが拡がるため、検出器に入る反水素数が減少します。すなわち、反陽子検出器で検出する反水素数を、マイクロ波周波数を変えながら測定すると、正確な超微細遷移エネルギーを決定することができます。果たしてその結果は水素原子の超微細遷移エネルギーの値と違っているのか、結果が待たれます。またカスプトラップ法は、ALPHAによる磁気瓶を用いた(陽)電子遷移のレーザー分光の結果とあわせることで、CPT対称性テストにとって相補的に重要な役割を果たします。これまでの研究が主に装置開発、技術開発であったことを考えると、反水素原子の精密測定を開始する2011年は基礎物理学の根幹にかかわる冷反物質研究元年となります。

発表者

理化学研究所
基幹研究所 山崎原子物理研究室
上席研究員 山崎 泰規(やまざき やすのり)
Tel: 048-467-9428 / Fax: 048-467-8497

国立大学法人東京大学大学院総合文化研究科
相関基礎化学系 山崎・松田研究室
助教 黒田 直史(くろだ なおふみ)
Tel: 03-5454-6515 / Fax: 03-5454-6515

国立大学法人広島大学大学院
先端物質科学研究科量子物質科学専攻ビーム物理研究室
准教授 檜垣 浩之(ひがき ひろゆき)
Tel: 082-424-7030 / Fax: 082-424-7034

学校法人東京理科大学
理学部第二部物理学科
教授 長嶋 泰之(ながしま やすゆき)
Tel: 03-5228-8724 / Fax: 03-5261-1023

報道担当

独立行政法人理化学研究所 広報室 報道担当
Tel:048-467-9272 / Fax:048-462-4715

国立大学法人東京大学大学院総合文化研究科 広報室
Tel: 03-5454-4920 / Fax: 03-5454-4319

補足説明

  • 1.反水素原子
    反陽子(陽子の反粒子)と陽電子が水素様に結合した原子で、物理学の基本的対称性を高精度で検証するために適した系として注目されている。
  • 2.国際共同研究グループ
    理研基幹研究所山崎原子物理研究室の金井保之先任研究員、東京大学大学院総合文化研究科の鳥居寛之助教、広島大学の桧垣浩之准教授、東京理科大学の長嶋泰之教授、イタリアのブレシア大学、オーストリアのステファンマイヤー研究所が参加している国際研究グループ。
  • 3.CPT対称性
    物理学において最も基本的だと考えられている対称性。荷電共役変換(C)、空間反転(P)、時間反転(T)の3つの変換を同時に行うことを意味する。水素と反水素の振る舞いに違いが見つかれば、CPT対称性が破れていることになる。
  • 4.磁気瓶
    反水素原子を捕捉するためにCERNのALPHAグループが開発した装置。この磁気瓶は八重極磁場を発生するコイル、ミラーコイル、ソレノイドコイルのすべてが超伝導磁石でできており、強い磁場を発生することができる。
  • 5.陽電子
    電子の反粒子。質量、スピンは電子と同じ値を持つが、電荷および磁気モーメントは、電子と逆符号。また、電子と同様、物質を構成する素粒子の1つである。1929年に英国の理論物理学者のポール・ディラックにより理論的に予言され、この3年後、米国の実験物理学者のカール・デイヴィッド・アンダーソンにより、宇宙線の中に発見された。電子と出会うと、光となって消滅(対消滅)してしまう。そのため、物質中では、10-10秒という非常に短い時間しか存在できない。
  • 6.反陽子
    陽子の反粒子。質量、スピンは陽子と同じだが、電荷および磁気モーメントは逆符号になっている。1955年、ベバトロンという加速器からの56億電子ボルトの陽子を用いて、オーウエン・チェンバレンらにより発見された。
  • 7.シンクロトロン放射
    陽電子や電子のような軽い荷電粒子は、強い磁場の下では光を放射しながら運動し、環境温度付近にまで急速に冷却される。この現象をシンクロトロン放射という。
カスプトラップ法の概念図の画像

図1 カスプトラップ法の概念図

ソレノイドコイル2個と円筒多重電極(図には省略)、マイクロ波磁気モーメント反転器、六重極磁気モーメント選別器、反水素検出機はすべて同軸上に設置してある。中央部で放射状に拡がっている細線は磁力線を表す。生成した反水素原子(赤の楕円)は、磁場により下流(右側)に引き出され、マイクロ波磁気モーメント反転器が供給するマイクロ波の影響を受けて六重極磁気モーメント選別器を通り、反水素検出器で検出される(赤線)。ソレノイドコイル2個の中央部には円筒多重電極を配置する。

カスプトラップの中心部にある円筒多重電極の配置、軸上の電位分布、磁場分布の画像

図2 カスプトラップの中心部にある円筒多重電極の配置、軸上の電位分布、磁場分布

(a)円筒多重電極の外観。17個のリング状の電極から構成される。

(b)電位分布。φ1~φ5までの電位分布を形成して、反水素原子の生成からその検出までを行う。

(c)磁場分布。-2T~2Tまでの強磁場を与える。

反陽子と陽電子を混合してからの反水素生成の時間依存の図

図3 反陽子と陽電子を混合してからの反水素生成の時間依存

反陽子と陽電子を混合してから30秒ほど経つと、反水素原子の生成率が最大になることが分かる。この後、次第に生成率は減少し、100秒ほどで生成しなくなる。

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