広報活動

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2012年6月14日

独立行政法人 理化学研究所
住友化学株式会社

ヒトES細胞から立体網膜の形成に世界で初めて成功

-網膜難病の治療や原因解明の研究を飛躍的に加速-

ポイント

  • ヒトES細胞の自己組織化培養で胎児型の眼「眼杯」の形成に成功
  • 視細胞や神経節細胞などを含むヒト立体網膜組織の多層構造の形成に成功
  • ヒトES細胞由来の網膜組織の冷凍保存技術を確立し、実用化へ前進

要旨

理化学研究所(野依良治理事長)と住友化学株式会社(十倉雅和代表取締役社長)は、眼組織のもと(原基※1)である胎児型の網膜組織「眼杯※2」を、ヒトES細胞※3から試験管内で立体形成させることに世界で初めて成功しました。また、網膜組織の多層構造の立体再構築を実現し、これを冷凍保存する技術も開発しました。これは、理研発生・再生科学総合研究センター(竹市雅俊センター長)器官発生研究グループの笹井芳樹グループディレクターと住友化学株式会社生物環境科学研究所(坂田信以所長)を中心とした研究グループの成果で、大阪大学蛋白質研究所の研究者らの協力のもとに進められました。

ヒト網膜は再生力が低い組織であり、障害を受けると自然な治癒は見込めません。網膜色素変性症※4などの網膜変性症※4は失明に至る可能性のある重篤な疾患で、現在も治療法がなく、幹細胞などを利用した画期的な再生医療の開発が期待されています。網膜の主要な部分は、光を感知する神経網膜※5とそれを助ける色素上皮※5です。神経網膜は視細胞、神経節細胞など多種類の細胞を含む複雑な多層構造を持ち、ES細胞やiPS細胞などからこうした複雑な組織を形成することは、これまで不可能でした。

2011年に研究グループは、胚組織の発生を試験管内で再現する「3次元の自己組織化※6技術」を応用して、マウスES細胞から立体的な網膜組織を試験管内で形成することに成功しました(2011年4月7日プレス発表)。

今回、研究グループは、さらに自己組織化による立体培養技術を発展させ、ヒトES細胞からも眼のもととなる「眼杯」と呼ばれる立体網膜組織を試験管内で産生することに成功しました。さらに、このヒト細胞由来の立体網膜組織を数週間~十数週間培養し続けることで、生体の網膜に見られる複雑な多層構造を有する網膜組織の立体形成にも成功しました。この組織は、5mm大のサイズで、神経網膜の主要細胞である視細胞、神経節細胞、介在神経細胞などを含む多層化した組織構造※7を有していました。さらに、ヒト細胞由来の立体網膜組織を液体窒素中に凍結保存する方法も確立し、高い品質管理のもとに長期保存を可能としました。

これらの研究成果は、多能性幹細胞※3からヒトの網膜組織を人工的に大量産生し、保存・供給する技術体系の確立に貢献します。「生体に近い複雑な組織」の人工産生とその移植・使用により、高度な機能再生を目指す「次々世代の再生医療※8」の実現を大きく前進させるとともに、化学物質の安全性評価や創薬への応用も可能にするものとして期待できます。

本研究成果は、文部科学省の「再生医療の実現化プロジェクト」の一環として行い、米国の科学誌『Cell Stem Cell』(Cell Press社)6月14日号に掲載されます。

背景

ES細胞やiPS細胞などの多能性幹細胞は、全ての種類の体細胞に分化する能力(多能性)を有しており、試験管内で医学的・産業的に有用な細胞を産生する提供源として注目を集めています。例えば、ある細胞種が生体内で変性するために起こる病気に対し、多能性幹細胞から分化させた細胞を移植して治療する再生医療は、難病克服の切り札として期待が寄せられています。特に脳や網膜などの中枢神経系組織は、再生能力が低く、障害を受けた組織が自然回復することはほとんどありません。従って、疾病や外傷などで失われた細胞や組織を、幹細胞から作製して移植する画期的な治療法確立を目指し、国際競争のなかで研究開発が進んでいます。また、多能性幹細胞から分化して得られたヒト由来の細胞は、ヒトに対する化学物質の影響を精緻に評価できると考えられ、化学物質の安全性評価や創薬への利用に向けた研究開発も進められています。

2005年に理研を中心とした研究グループは、ES細胞などから神経細胞やその前駆細胞を効率良く分化させる方法として、無血清凝集浮遊培養法(SFEBq法)※9を開発しています(2005年2月7日プレス発表)。この方法は、大脳皮質神経細胞、小脳神経細胞などの医学的に有用性の高い細胞の分化に応用されています。また、SFEBq法はこれらの個々の細胞への分化に加えて、大脳皮質などの立体組織を試験管内で形成させることにも応用可能であることを示唆しました(2008年11月6日プレス発表)。

2011年には、この技術をさらに改良し、マウスES細胞のSFEBq法により、マウス胎児の眼の原基である「眼杯」の立体組織を試験管内で形成しました。この眼杯形成は、自己組織化(細胞の集団が自発的に複雑な構造を生み出すこと)で起こり、高度にマウスの眼の発生を再現するものです。自己組織化で生み出された眼杯組織は、長期培養することで、生後の眼に見られるような複雑な多層構造の形成が可能です。

今回、研究グループは、こうした自己組織化技術の医学応用および産業応用に向けて、ヒトES細胞からの眼杯および立体網膜組織の試験管内産生に挑みました。

研究手法と成果

(1)ヒトES細胞からの眼杯の自己組織化

ヒトES細胞は、マウスES細胞と共通点があるものの、分化培養条件の詳細については異なる点が多いことも知られています。まず、研究グループは、SFEBq法の培養液などを最適化することで、ヒトES細胞から効率良く網膜前駆組織※10を発生させることを可能にしました。その上で、眼杯を構成する神経網膜組織と色素上皮組織のそれぞれが、同程度分化するように、培養液の組成をさらに最適化しました。

最適化した培養条件下で、SFEBq法を用いたところ、ヒトES細胞から眼杯の立体構造が形成できました。まず、培養開始後14~17日に網膜前駆組織は凝集塊の表面から袋状の細胞シート構造として外へ突出しました。この風船を膨らませたような構造は、胎児の網膜発生の初期に見られる「眼胞」という構造によく似ています。培養開始後22日には、眼胞の先端に近い部分が内側に折れ曲がり、眼胞の内部に入る(陥入)ようになりました。さらに培養開始後24~26日には、ブランデーグラスのような杯様の立体構造となり、胎児の眼杯にそっくりな形となりました(図12)。また、ヒトES細胞由来の眼胚の大きさは、ヒト胎児の眼胚と同様のサイズ(直径500~600μm)で、マウスES細胞由来の眼杯(250~300μm;マウス胎児の眼杯も同様)の約2倍の大きさになりました(図3)

さらに、形や大きさだけではなく、生体の網膜と同じように、陥入した部分は神経網膜組織に、陥入しない杯の外側の部分は色素上皮組織に分化しました。以上から、ヒトES細胞由来の眼杯は、ヒト胎児の眼杯と極めて似たものとして形成されることが分かります。また、ヒトES細胞由来の眼杯の形成は、外部からの力や構造物からの作用ではなく、自己組織化によって起こることも明らかになりました。

(2)ヒトES細胞からの多層化した網膜組織の自己組織化

研究グループは、ヒトES細胞由来の神経網膜組織を長期培養することで、成熟した網膜特有の細胞である視細胞や神経節細胞が発生するかを検討しました。ヒトES細胞由来の神経網膜組織を立体培養すると、培養開始後(ヒトES細胞の分化開始から)30日の組織には、まず神経節細胞が発生しました。また、40日目には少数の視細胞の出現を認め、60~126日までに視細胞は徐々に数を増しました。126日後の神経網膜組織は、生体の網膜同様に透明度が高い特徴的な組織でした。さらに、一番外側に視細胞の層が、一番内側には神経節細胞の層が形成され、その間に介在神経細胞の層ができるなど、多層化した構造を示しました(図4)

網膜で光を受ける視細胞には、暗いところでも感度良く物体を見るための棹体(かんたい)細胞※11と、明るいところで解像度良く物体を見たり、色を識別したりできる錐体(すいたい)細胞※11があります。錐体細胞は、ヒトやサルなどでよく発達していますが、夜行性であるネズミなどでは発達が悪く、少数しか存在しません。作製したヒトES細胞由来の神経網膜組織には、棹体細胞とともに多数の錐体細胞が存在していました(棹体細胞と錐体細胞の数の比は約3:1)。一方、マウスES細胞由来の組織には錐体細胞はほとんど存在しませんでした(全体の1%以下)。

このようにヒトES細胞からヒト網膜と同様の性質を有した多層化した構造を自己組織化できることが分かりました。また、こうして作製した自己組織化網膜は、高純度で網膜細胞以外の細胞を含んでいません。そのため、免疫不全マウスに移植してみても、奇形腫※12などの腫瘍の形成は全く認められませんでした。

(3)ヒトES細胞由来の視細胞の高効率分化誘導

視細胞は、網膜難病で変性することが多く、再生医療を考えるうえで重要な細胞です。視細胞は、ヒト胎児の発生の中では200日以上かけてゆっくりその発生が進み、数を増してゆきます。同様に、ヒトES細胞の立体培養でも、十分な数の視細胞を産生するには、100日間以上の長期培養が必要です。しかし、長期培養を維持するには、技術的にも、コスト的にも困難が伴います。

そこで研究グループは、視細胞をより早期に効率よく分化させる技術を開発しました。マウスの発生研究から、視細胞の分化を遅らせる原因の1つとしてNotch※13と呼ばれる細胞表面のタンパク質が知られていました。そこで、このNotchの機能を阻害する薬剤「DAPT」を培養開始後29~43日目まで添加したところ、43日目には、神経網膜組織全体の78%が視細胞に分化しました。一方、「DAPT」を添加しない場合は、同じ段階で2~5%程度の細胞が視細胞に分化したに過ぎませんでした。このように、約6週間という比較的短期間の培養で、選択的に視細胞を分化させることを可能にしました。

(4)ヒトES細胞由来の多層化網膜組織の応用を促進する冷凍保存法の開発

今回、ヒトES細胞用いて、立体網膜組織を効率良く大量に産生できる技術を確立しました。これを網膜難病の再生医療や化学物質の安全性評価・新薬開発などに利用するためには、高い品質の立体網膜組織を適時に供給できることが重要です。しかし、ヒトES細胞からの立体網膜の自己組織化には、上記の通り数週間~十数週間の長期培養が必要となり、適時性の面で限界があります。また、そのような長期培養の場合、品質管理は困難で、品質のブレが生じる危険もあります。

こうした問題を解決するため、研究グループは、ヒトES細胞由来の多層化網膜組織を長期培養期間の任意の段階で、冷凍保存する技術を開発しました。既存の凍結液(凍結する組織を浸す液)を用いた方法では、液体窒素中で急速に凍結する急速凍結法(ガラス化法)※14でも、-80度のフリーザーでゆっくり凍結する緩徐凍結法でも、解凍した後の組織は大きく傷み、網膜発生は起こりにくくなりました。

そこで、立体網膜組織を独自に工夫した前処理液に氷上で浸し、その後に液体窒素で急速凍結する2段階凍結法を開発しました(図5)。これにより、どの段階の立体網膜でも液体窒素中で保存が可能となり、解凍して培養を続けても、90%以上の組織が良好な状態で網膜発生を続けることができました。

この方法を用いれば、大量に作製したヒトES細胞由来の立体網膜中から高品質のものを選んで凍結保存しておき、必要時に解凍・培養して移植や化学物質の安全性評価・創薬などに用いることが可能となります。これは、実用化を目指すうえで非常に有用な技術です。

今後の期待

今回、多能性幹細胞であるヒトES細胞から人為的にヒトの眼杯を産生することに成功しました。ヒトES細胞だけでなく、ヒトiPS細胞でも同様の方法で立体網膜組織が産生可能であると考えられます。

従来の幹細胞研究では、細胞レベルの分化制御によって、ドーパミン神経細胞や色素上皮細胞など個々の有用細胞の産生を目指してきました。その成果の一部は「次世代の再生医療」として臨床研究や化学物質の安全性評価・創薬研究につながろうとしています。これに対し、研究グループは、ヒト多能性幹細胞から多種類の細胞で形成される複合的な組織(眼杯やそこから発生する多層化神経網膜組織など)が、試験管内で自己組織化により形成可能であることを今回示しました。これにより、ヒトの複合組織や器官の再生研究が大きく前進することが期待でき、それらを用いる「次々世代の再生医療」の実現への貢献や化学物質の高度な安全性・薬効評価などへの応用に繋がると考えられます。

今回の再生医療研究の応用が期待される対象疾患に、網膜色素変性症があります。この疾患では、遺伝的な原因などで網膜の視細胞が徐々に変性・減少し、最悪の場合は失明に至る強い視覚障害を引き起こします。ヒト網膜は、非常に多くの視細胞が細胞密度の高い厚い層を作り、各層の細胞同士が連結して機能しています。従って、網膜色素変性症の治療には、こうした複雑な視細胞の層構造を再現する必要があり、生体に近いヒトES細胞由来の立体網膜組織は有用な移植材料となることが期待できます(図6)。さらに、今回開発した立体網膜組織内の視細胞分化を大きく促進するNotch阻害剤法や、5mm大の網膜組織の形成を可能にした長期立体培養技術は、網膜色素変性症への移植治療の実現を後押しするものと期待できます。現在理研では、研究グループと網膜再生医療研究開発プロジェクトの高橋政代リーダーらとの共同研究により、動物眼への移植研究を進めており、ヒトES細胞由来の立体網膜組織の医療応用に向けた、技術開発も進行中です。

また、今回開発した凍結保存技術も、実用化に大きく貢献すると期待できます。この技術により、作製した立体網膜組織を、必要なときに、必要な分だけ得ることが可能となります。また、遠隔地の研究機関や病院にも高品質のヒト立体網膜組織を届けられます。将来、複数の研究機関が連携して臨床試験などが実現する可能性が高まります。さらに、凍結保存技術は、移植組織の品質管理※15を容易にし、安全性を高めることも可能です。立体網膜組織を多数作製し、高品質のものを選別して凍結保存しておき、その一部をウイルス感染テストや動物移植による腫瘍形成テストなどの品質チェック(抜き取り試験)に用いることで、安全性が担保された移植組織の提供が可能となります。さらに、高品質のヒト立体網膜組織を化学物質の安全性評価試験などに供する場合は、試験結果の再現性の向上が期待できます。

ヒトの生体組織に近い立体網膜組織が簡便に作製可能となったことで、今後、ヒトの網膜に作用する新薬の開発や遺伝子治療法の開発、あるいは網膜難病の発症メカニズムの解明などにも寄与できると期待できます。また、疾患特異的iPS細胞の技術と組み合わせて、「疾患モデル網膜組織」を作り出し、これまでにない研究開発材料を提供することも将来的に可能となります。

原論文情報

  • Nakano et al., Self-Formation of Optic Cups and Storable Stratified Neural Retina from Human ESCs, Cell Stem Cell (2012), doi:10.1016/j.stem.2012.05.009

発表者

理化学研究所
発生・再生科学総合研究センター 器官発生研究グループ
グループディレクター 笹井 芳樹(ささい よしき)

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補足説明

  1. 原基
    胚の中の器官の基となる組織。眼の場合、マウスでは胎生10~11日に形成される眼杯がそれに当たる。形成後、原基は徐々に局所で成長して、大きな器官を形成する。
  2. 眼杯と眼胞
    網膜は、水晶体などの体表外胚葉由来の組織と異なり、中枢神経組織由来である。胚の発生過程で網膜の原基は、間脳の側面から発生し、間脳から外側へ袋状に飛び出すように形成される。この袋状の上皮構造を「眼胞」という。さらに眼胞の一番外側の部分(将来の神経網膜)は、次第に眼胞の内側へ陥入し、内外2層の上皮からなる杯状の組織「眼杯」を形成する。眼杯は、その後さらに大きく成長し、網膜を形成する。
  3. ES細胞、多能性幹細胞
    脊椎動物の初期胚が持つ、全ての種類の体細胞へ分化する能力を多能性という。多能性を有し、試験管内で培養して未分化なまま無限に増やすことができる細胞を多能性幹細胞という。哺乳類の着床前胚(胚盤胞)に存在する多能性細胞(内部細胞塊)から作製した胚性幹細胞(ES細胞)は、最も典型的な多能性幹細胞である。マウス、サル、ヒトなどで樹立しており、マウスのES細胞を初めて樹立したマーチン・エバンス卿(英国)は2007年のノーベル医学・生理学賞を受賞した。そのほか、皮膚細胞などの体細胞にOct3Sox2Klf4遺伝子などを導入して初期化し、多能性を持たせたiPS細胞も人工的な多能性幹細胞である。これらの細胞は多能性を有しているため、体のさまざまな細胞に分化する能力があり、再生医療の材料としての利用が期待されている。
  4. 網膜色素変性症、網膜変性症
    「網膜変性症」は、網膜を構成する特定の種類の細胞が加齢や遺伝的原因などで変性し、脱落するために起こる疾患で、失明を含む強度の視力障害に至る重篤なものである。代表的なものは、視細胞が遺伝的原因などで変性して起こる「網膜色素変性症」である。多くは中高年発症であるが、一部若年発症のものもある。視細胞の変性・脱落は、数年以上かけてゆっくり起こることが多いが、暗いところで光を感知する棹体細胞が優先的に変性することで、初期には夜盲症(夜に物が見えない)で始まることが多い。次第に、見える視野が狭まってゆき、失明にいたる。
    網膜色素変性症を起こす遺伝子異常は複数発見されており、遺伝子診断も一部可能であるが、この疾患に対する治療法や予防法は現在存在していない。ヒト網膜では視細胞は再生しない。そのため、再生医療を考える場合、ヒトES細胞やiPS細胞からの分化誘導した視細胞を移植する必要があるが、従来の方法では分化効率の面などで再生医療への応用にはハードルが高く、画期的な技術革新が求められていた。
  5. 神経網膜、色素上皮
    網膜は光を受容し、電気シグナルに変換して、さらに情報処理後に、脳の視覚中枢へ軸索を介して情報を伝える重要な感覚組織である。網膜は大きく内外2つの上皮組織が重なってできている。内側は光を受容し、情報処理を行なう神経網膜であり、視細胞などの複数種類の細胞を含む。外側は、視細胞の生存と機能をサポートする1層の細胞シートである色素上皮(色素を多く含むため、そう呼ばれる)からなる。
  6. 自己組織化
    1種類あるいは少数の種類の要素が、外部から特別の「指示」となる情報を受けることなく、自分たちの内在的な特性を発揮して自発的に複雑な高次の構造を組み上げて行くこと。例えば、雪の結晶形成などのように、パターンのない集合体の中で、自発的な秩序が生まれてパターンが形成されて行く自然現象が観察されるほか、ナノテクノロジーや光学結晶の作製などで工学的にも利用されている。
  7. 神経網膜の層構造
    神経網膜は、6種類の主要細胞(視細胞、水平細胞、双極細胞、アマクリン細胞、神経節細胞、ミュラー細胞)からなる。そのうち、組織構造上の支持細胞であるミュラー細胞を除く5つの細胞は、光受容の情報処理を行なう特殊な神経細胞であると考えられ、生後の神経網膜では、外層から内層に向けて、視細胞、水平細胞、双極細胞、アマクリン細胞、神経節細胞の順に整然と層をなした組織を構築している。受容した光はまず視細胞で電気シグナルに変換される。そのシグナルはシナプスを介して、水平細胞、双極細胞、アマクリン細胞などで情報処理された後、神経節細胞へ受け渡される。神経節細胞は、長い軸索を脳の視覚中枢へ伸ばし、神経網膜で受容した視覚情報を中枢へ伝達する。
  8. 次々世代の再生医療
    これまでに実施されてきた再生医療は体細胞あるいは体性幹細胞の移植であったが、「次世代の再生医療」では、ES細胞、iPS細胞などのヒト多能性幹細胞から有用細胞を作出し、細胞レベルでの移植を目指している。さらにその先の「次々世代の再生医療」では、ヒト多能性幹細胞から複数の種類の細胞からなる複雑な有用生体組織を丸ごと試験管内で作製し、それを組織レベルで移植する技術の開発が期待されている。
  9. 無血清凝集浮遊培養法(SFEBq法)
    Serum-free Floating culture of Embryoid Body-like aggregates with quick reaggregationの略。ES細胞などを酵素によりバラバラに分散させ、それを3,000個程度の細胞の塊に再凝集させたものを分化培養の材料に用いる。この細胞凝集塊を培養する場合、通常の細胞培養で行うような「細胞を培養シャーレに接着」させて培養する接着培養を行うと、一般に立体的な組織形成が損なわれて、きれいな構造体を作ることができない。そのため、培養容器を「細胞非接着性ポリマー」でコーティングし、細胞や組織が容器に付着しないようにすることで、細胞塊を培養液の中で浮遊させる浮遊培養が可能となる。SFEBq法では、血清や転写因子などの神経分化阻害効果のある成分を一切含まない特殊な培養液に浮遊させて数日培養する。この方法により、90%以上の細胞を中枢神経系の細胞に分化させることが可能である。
  10. 網膜前駆組織
    網膜を構成する細胞は、いったん分化するとほとんど分裂せず、形態的にも機能的にも特徴のある細胞となる。網膜細胞に最終分化する前の未熟な細胞で、細胞分裂をする能力を持つ細胞を網膜前駆細胞と呼び、網膜前駆細胞が集合したものを網膜前駆組織という。胚内では平面的に集合して上皮構造(一層の細胞シート状の構造)をとっている。
  11. 棹体(かんたい)細胞、錐体(すいたい)細胞
    視細胞は光を受け、その信号を網膜内の神経細胞へ伝達する重要な役割を果たしており、デジタルカメラのCCD素子に対応する。視細胞の障害は、光感知そのものが不可能となるため、強い視覚障害や失明をもたらす。視細胞には、大きく分けて、錐体細胞と棹体細胞の2種類が存在する。錐体細胞は、明るいところで物を見る時に使われる視細胞で、高分解能(より細かい形を見分ける能力)を有し、色判別をすることができる。色判別のために、錐体細胞にはさらに波長の違う光に反応する3種類が存在する。それに対して、棹体細胞は、暗いところで物を見る時に使われる視細胞で、分解能は劣るが感度に優れている(少ない光でも反応できる)。網膜色素変性症では、棹体細胞から障害を受けることが多いため、夜盲症を初期から訴えることが多い。今回のヒトES細胞からの立体網膜では、錐体細胞の3種類と棹体細胞に分化していることを確認している。
  12. 奇形腫
    未分化なヒトES細胞やiPS細胞は、様々な細胞に分化する能力(多能性)を持っているとともに、試験管内で無限に増える能力も有している。これらの細胞は、生体内に移植しても、増殖を続け、神経、軟骨、筋肉、粘膜等の多様な細胞からなる腫瘍を形成することがある。こうした腫瘍を奇形腫と呼ぶ。奇形腫は一般に良性腫瘍で、ガンではないため、浸潤や転移はしないが、大きな腫瘍になることがあるため、幹細胞移植医療では移植後にその形成をできるだけ避けることが重要である。実際の細胞治療では、意図して未分化なヒトES細胞やiPS細胞自体を移植することはないが、ヒトES細胞やiPS細胞から分化させた神経細胞等を移植する場合、分化しきれなかった未分化細胞が少数混入する可能性があり得るため、その対策が安全性の管理の観点から、実現化に向けた大きな技術課題となっている。
  13. Notch
    発生中の多くの細胞の表面に存在するタンパク質で、周りの細胞との相互作用を通して、細胞の分化や増殖を制御する。マウス胚の先行研究により、視細胞の分化を遅らせる原因の1つとしてNotchの活性化が示唆されていた。
  14. 急速凍結法(ガラス化法)
    細胞や組織を長期保存する場合は、液体窒素などの中で超低温保存する。しかし、凍結や融解は細胞や組織にとって大きなストレスであり、網膜や脳などのデリケートな組織では一般的に難しい。主な原因に、凍結時に細胞内に氷の結晶が形成され、それが細胞を痛めることがある。そのため、氷の結晶を作らせずに凍結するための方法の1つが急速凍結法(ガラス化法)であり、試験管内受精したヒト胚の保存などに用いられている。今回の網膜の場合、それでも凍結・融解でのダメージが大きかったため、氷の結晶形成をさらに抑えるエチレングリコールなどの前処理を施してこれを解決した。
  15. 移植組織の品質管理
    一般的に加工技術においては、製品の品質のブレがある程度生じるが、それを一定の許容範囲に管理することが重要である。幹細胞からの分化技術では、このブレが比較的大きく、特に長期培養を要するヒトES細胞やiPS細胞からの分化技術の場合、分化効率および細胞の増殖や生存効率などに大きなブレが生じる可能性が高い。ヒトへ移植する細胞の場合、その品質は「移植に有効な機能細胞」の割合が高いこと、ならびに副作用を起こしかねない「不要な細胞」の割合が低いことが必要である。特に、ES細胞やiPS細胞などの多能性幹細胞から分化させたものの場合、未分化な多能性幹細胞が残っていると、それが奇形種という腫瘍を形成することがある。そうした細胞が除かれていることを確認することも重要である。また一般の生物材料と同様に、微生物などの感染性物質の混入がないことも確認する必要がある。こうした検証には、長いものでは3カ月~数カ月の期間がかかり、移植組織をいったん凍結することで、可能となる場合が多い。

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ヒトES細胞からの立体網膜の自己組織化

図1 ヒトES細胞からの立体網膜の自己組織化

ヒトES細胞のSFEBq法により、まず間脳の前駆組織が形成され、培養開始14日後ごろにその一部が網膜前駆組織に分化する。網膜前駆組織に分化した部分は、直ちに外側に向かって、袋状に突出しだし、培養開始17日後ごろに眼胞を形成する。その先端部分は神経網膜に分化するとともに、次第に内側に陥入して、眼杯を形成する。この眼杯形成は、外部からの力や刺激を必要とせず、組織が自律的に形作る「自己組織化」に基づく。さらに培養を続けると、図4にあるように、神経網膜は網膜特有の多層化した構造を呈する。

ヒトES細胞由来の眼杯の自己組織化

図2 ヒトES細胞由来の眼杯の自己組織化

(上図)ヒトES細胞由来の眼胞の突出の経時的な変化。
(下図)ヒトES細胞の立体培養で自己組織化した眼杯。
緑色は、網膜のマーカー遺伝子であるRxの発現を示す。

ヒト胎児眼杯と同様の径を有するヒトES細胞由来の眼杯

図3 ヒト胎児眼杯と同様の径を有するヒトES細胞由来の眼杯

初期胎児の眼の発生において、マウスの眼杯とヒトの眼杯では2倍ほどヒトの眼杯の直径の方が大きい(体積では10倍近く大きいことになる)。同様に、ES細胞培養により試験管内で自己組織化させた眼杯の場合も、ヒト細胞由来のものはマウス細胞由来のものに比べて、2倍程度大きく、ヒト胎児眼とほぼ同じ大きさ(直径550~600 μm)を持つ。

多層化した神経網膜の自己組織化(ヒトES細胞由来)

図4 多層化した神経網膜の自己組織化(ヒトES細胞由来)

ヒトES細胞の自己組織化培養で産生された神経網膜の組織を単離して、長期立体培養を行なうと、5mm大の大きな網膜組織に成長する。その組織は、網膜特有の多層構造を示し、最も外側には視細胞(錐体細胞、棹体細胞)の層が、一番内側には神経節細胞の層が自発的に形成される。その間には、介在神経細胞や双極細胞の前駆細胞などが存在する。

Crx::VenusおよびCrx:視細胞のマーカー、Nrl:棹体細胞のマーカー、
Tul:神経節細胞のマーカー、Chx10:双極細胞とその前駆細胞のマーカー、
Ptf1a:介在神経細胞のマーカー

ヒトES細胞由来の立体網膜組織を凍結保存する技術の確立

図5 ヒトES細胞由来の立体網膜組織を凍結保存する技術の確立

従来の急速保存法(ガラス化法)では、立体網膜組織は凍結・融解で傷害ストレスを強くうけ、網膜組織の生存は低かった。今回、急速凍結の前に、氷上で前処理液に組織を浸すことで、網膜組織の生存を大きく改善した。105日間培養して多層化した神経網膜をこの方法で凍結保存した後、融解してさらに3週間培養(126日相当)したもの(右下)を見ると、錐体細胞や棹体細胞などの視細胞の層もキレイに形成されることが分かる。

ヒト立体網膜組織を用いる次々世代再生医療の展望

図6 ヒト立体網膜組織を用いる次々世代再生医療の展望

網膜色素変性症は、日本で数万人の患者が罹患している比較的に頻度の高い疾患で、失明に至る難病である。視細胞、特に棹体細胞が変性する。これを、ヒト多能性幹細胞から自己組織化させた立体網膜組織を移植して、視細胞を補充するような治療する再生医療が期待できる。

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