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2012年6月27日

独立行政法人 理化学研究所

転写調節因子Tbr2が匂い情報の興奮-抑制バランスを調節

Tbr2遺伝子欠損マウスは匂い刺激に対して過敏に反応-

ポイント

  • 嗅球の出力ニューロンだけでTbr2遺伝子を欠損させたマウスを作製
  • Tbr2遺伝子は嗅球ニューロンの正しい分化と神経回路の形成に必要
  • Tbr2遺伝子欠損マウスは動物の匂いに基づく行動を解明する有効なモデル動物に

要旨

理化学研究所(野依良治理事長)は、組織の発生や分化に重要な役割を担うT-box転写調節因子※1「Tbr2」が、匂い情報の興奮-抑制バランスを調節する機能を持ち、正確な匂い情報の伝達に重要な役割を果たしていることを、マウスを用いた実験で突き止めました。これは、理研脳科学総合研究センター(利根川進センター長)シナプス分子機構研究チームの水口留美子研究員、吉原良浩チームリーダーらによる研究成果です。

匂い分子は、動物が餌を探したり、危険を察知したり、繁殖行動や社会行動を行うために重要な役割を果たします。匂い分子は、鼻の粘膜にある嗅細胞で受容され、そのシグナルは、脳の嗅球と呼ばれる部位に運ばれます。そこでさまざまな処理を受けた後、高次嗅覚中枢に伝達され、匂いの認識・記憶・情動(快・不快など)の創出を引き起こします。嗅球内で匂い情報が正確に処理されるためには、嗅球内部での神経回路が正しく形成されることが必要ですが、これまでこの形成を制御する分子メカニズムはほとんど明らかにされていませんでした。

研究チームは、匂い情報を高次嗅覚中枢へと伝達する出力ニューロン※2に発現するTbr2に着目し、コンディショナル遺伝子欠損法※3を用いて、出力ニューロンだけでTbr2遺伝子を欠損させたマウスを作製し、解析しました。その結果、Tbr2遺伝子欠損マウスの出力ニューロンは、樹状突起※4の形態に異常が生じ、抑制性の介在ニューロン※5と正しくシナプス形成ができないことが分かりました。また、Tbr2遺伝子欠損マウスに匂いを嗅がせると、野生型マウスに比べて出力ニューロンが過剰に活性化されました。つまりTbr2遺伝子欠損マウスは、匂いに対して過敏になっていると考えられました。これらから、Tbr2は嗅球における神経回路の興奮-抑制バランスの維持に重要な役割を果たしていることが明らかとなりました。

今後、このマウスを用いることで、動物の匂い情報の処理メカニズムや匂いが誘起する行動、さらには嗅覚障害の病態メカニズムなどを研究する上で、有効なモデル動物になると期待できます。

本研究成果は、米国の科学雑誌『The Journal of Neuroscience』(6月27日号)に掲載されます。

背景

嗅覚は、動物の摂食行動、繁殖行動、社会行動など、さまざまな生命活動に不可欠です。匂い分子は、鼻腔内部を覆う粘膜(嗅上皮)に存在する嗅細胞で受容され、そのシグナルは嗅細胞の軸索を介して嗅覚の一次中枢である嗅球に伝えられます。嗅球の出力ニューロン(僧帽細胞など)は、嗅細胞から匂いの情報を受け取り、それを脳の高次嗅覚中枢(嗅皮質など)に伝達します(図1)。嗅球には、出力ニューロンの他にも種々の抑制性・興奮性の介在ニューロンがあり、局所的な神経回路を形成して出力ニューロンの活動を制御しています(図5左)。嗅球内での出力ニューロンや介在ニューロンは、匂い情報の興奮-抑制バランスを調節し、匂いを検出する感受性の制御や、匂いの正しい識別に重要な役割を担っています。嗅球内で機能的な神経回路が形成されるには、出力ニューロンと介在ニューロンがお互いを正しく認識し、シナプスを形成してネットワークを構築することが必要です。

しかしこれまで、嗅球内の局所的神経回路形成を制御する分子メカニズムは、ほとんど明らかにされていませんでした。

研究手法と成果

(1)Tbr2は出力ニューロンの正常な分化に必要

研究チームは、Tbr2遺伝子を欠損させたマウスを作製し、Tbr2が嗅球内神経回路形成と匂い情報の処理にどのような役割を果たすかの解析を試みました。しかし、Tbr2遺伝子は個体発生初期に重要な働きをするため、全身で欠損させるとマウスは胎生致死となってしまいます。そこで、研究チームはコンディショナル遺伝子欠損法を用いて、嗅球の出力ニューロンだけでTbr2遺伝子を欠損するマウスを作製しました。このマウスは成体になるまで生存可能で、嗅球の形態にも大きな異常は観察されませんでした。しかし、出力ニューロンを調べると、さまざまな遺伝子発現の変化が起こっていました。例えば、Tbr2と同じT-box転写調節因子ファミリーに属するTbr1の発現が上昇していました。また、シナプス前部での神経伝達物質の取り込みや貯蔵を行うタンパク質のタイプが変化していました。

さらに、Tbr2遺伝子欠損マウスの出力ニューロンは、樹状突起の形態にも異常を示しました。野生型マウスでは、出力ニューロンの主樹状突起は糸球体※6に向かって真っすぐ垂直に伸びますが、Tbr2遺伝子欠損マウスでは折れ曲がり、ランダムな方向に伸びました。また、主樹状突起から枝分かれする副樹状突起の形態にも違いがありました。野生型マウスの副樹状突起は僧帽細胞層に対して平行に伸びますが、Tbr2遺伝子欠損マウスではばらばらな方向に枝分かれしていました(図2)。これらの結果から、Tbr2は出力ニューロンの正常な分子発現と形態形成に重要な役割を持つことが分かりました。

(2)Tbr2は嗅球内の神経回路の形成に必要

出力ニューロンは、嗅球内で種々の介在ニューロンと樹状突起間シナプスを形成し、抑制性、興奮性の入力を受けています(図5左)Tbr2遺伝子欠損マウスの出力ニューロンは、樹状突起に形態異常を示すことから、介在ニューロンとのシナプス形成にも異常が生じているのではないかと予測しました。

まず研究チームは、嗅球内のさまざまな介在ニューロンの数や形態について調べました。すると、抑制性の介在ニューロンの一種であるパルブアルブミン陽性介在ニューロン※7の数が半分以下に減少しており、それらの樹状突起は発達不全でした(図3)。また、一部の顆粒細胞※8傍糸球体細胞※8の樹状突起の分化にも異常が生じていることが分かりました。これらのことから、Tbr2は出力ニューロンの分化だけでなく、周囲に存在する介在ニューロンの発達や分化にも影響を及ぼしていることが明らかになりました(図5右)

次に研究チームは、シナプスに局在する分子群を指標として、出力ニューロンと抑制性介在ニューロンの樹状突起間シナプスの数を調べました。その結果、Tbr2遺伝子欠損マウスでは、野生型マウスに比べて出力ニューロンの樹状突起が受ける抑制性シナプスの数が約半分に減少していました。このことからTbr2は、嗅球内で出力ニューロンと抑制性介在ニューロンからなる局所的な神経回路の形成に、重要な役割を果たしていることが明らかとなりました。

(3)Tbr2は匂い情報の興奮-抑制バランスを調節

Tbr2遺伝子欠損マウスは、嗅球内での匂い情報の処理がうまくできないため、匂いを感じる機能にも異常をきたしている可能性が考えられました。

そこで研究チームは、Tbr2遺伝子欠損マウスにさまざまな種類の匂いを嗅がせ、転写調節因子NFkB※9のリン酸化を指標として、嗅球内で活性化されるニューロンの数を野生型マウスと比較しました。その結果、Tbr2遺伝子欠損マウスでは、同じ匂いを嗅がせた野生型マウスに比べて、活性化される出力ニューロンの数が約2倍に増えていました(図4)。一方、匂いにより活性化される傍糸球体細胞の数は約6割程度に減少しました。以上のことから、Tbr2遺伝子欠損マウスでは、出力ニューロンと介在ニューロンの樹状突起間シナプスが形成できなくなることで、活性化した介在ニューロンの数が減少し、その結果、本来出力ニューロンが受けるはずの抑制性のシグナルが低下して、出力ニューロンの活性が上昇し、匂い刺激に対して過剰に反応していると考えられました。つまり、Tbr2は嗅球内の局所的な神経回路形成を正しく形成・維持することによって、匂い情報の興奮-抑制バランスを調節していると考えられます。

今後の期待

嗅球内の神経回路は、外界からの匂い情報を適切に処理して高次嗅覚中枢に伝えることにより、匂いに対する感受性の調節や匂いの識別などに重要な役割を果たします。また、嗅球の介在ニューロンは成体でも常に産生され、新しく神経回路に取り込まれて、嗅覚機能の恒常性維持や可塑的変化にも機能すると考えられています。従って、嗅球ニューロンの分化や神経形成回路の形成に重要な役割を果たすTbr2遺伝子の異常は、嗅覚機能の障害の原因にもなると考えられます。

Tbr2遺伝子欠損マウスは、嗅覚障害の病態メカニズムを研究する手がかりになるだけでなく、動物の匂いに基づいた行動の分子基盤を解明する上でも、非常に興味深いモデル動物になると期待できます。

原論文情報

  • Rumiko Mizuguchi,Hiromi Naritsuka,Kensaku Mori,and Yoshihiro Yoshihara.
    “Tbr2 Deficiency in Mitral and Tufted Cells Disrupt Excitatory-Inhibitory Balance of Neural Circuitry in the Mouse Olfactory Bulb”. The Journal of Neuroscience, 2012, doi: 10.1523/JNEUROSCI.5746-11.2012

発表者

理化学研究所
脳科学総合研究センター 回路機能メカニズムコア シナプス分子機構研究チーム
チームリーダー 吉原 良浩(よしはら よしひろ)
研究員 水口 留美子(みずぐち るみこ)

お問い合わせ先

脳科学研究推進部
Tel: 048-467-9757 / Fax: 048-462-4914

報道担当

理化学研究所 広報室 報道担当
Tel: 048-467-9272 / Fax: 048-462-4715

補足説明

  • 1.T-box転写調節因子
    T-boxと呼ばれるDNA領域に結合し、遺伝子の発現を調節するタンパク質。T-box転写調節因子の多くは、組織の発生や分化に重要な役割を担う。
  • 2.出力ニューロン
    長い軸索を持ち、嗅球から高次嗅覚中枢のニューロンへと情報の伝達を行うニューロン。
  • 3.コンディショナル遺伝子欠損法
    CreリコンビナーゼというDNA組換え酵素を用いて、特定の組織や細胞だけで目的の遺伝子を欠損するマウスを作製する方法。目的の遺伝子が個体の生存に必要な場合などに有効。
  • 4.樹状突起
    神経細胞の細胞体から伸びる突起で、樹の枝のように分岐する複雑な形態を持つ。神経伝達物質の受容体を発現し、ほかの神経細胞の軸索終末とシナプス結合を形成することで情報を受容する。嗅球の出力ニューロンおよび介在ニューロンは、その樹状突起自身も神経伝達物質を放出することにより樹状突起間シナプスを形成する。
  • 5.介在ニューロン
    短い軸索を持つか、または軸索を持たずに、さまざまなニューロンと局所的に接続することにより情報処理を行うニューロン。接続先の神経の活動を抑制する抑制性の介在ニューロンと、活性化させる興奮性の介在ニューロンが存在する。
  • 6.糸球体
    嗅球の表面に存在する球状の構造体で、嗅細胞の軸索終末と出力ニューロンの樹状突起がシナプスを形成する場所。マウス嗅球には約1,800個の糸球体が存在する。
  • 7.パルブアルブミン陽性介在ニューロン
    パルブアルブミンというカルシウム結合タンパク質を発現する介在ニューロンで、嗅球外叢状層(嗅球の糸球体層と僧帽細胞層の間の層)に存在し、出力ニューロンの樹状突起に抑制性のシナプスを形成する。
  • 8.顆粒細胞、傍糸球体細胞
    どちらも、嗅球に存在する介在ニューロン。顆粒細胞は顆粒細胞層に存在し、出力ニューロンの副樹状突起と抑制性のシナプスを形成する。傍糸球体細胞は糸球体層に存在し、出力ニューロンの主樹状突起と抑制性あるいは興奮性のシナプスを形成する。
  • 9.NFkB
    造血細胞や神経細胞など、さまざまな細胞で発現し、細胞内のシグナル伝達に関与する転写調節因子。通常は細胞質に存在するが、細胞が刺激を受けるとリン酸化されて核へ移行し、標的遺伝子の転写を活性化する。
マウスの嗅覚系のモデル図の画像

図1 マウスの嗅覚系のモデル図

匂い分子は、嗅上皮に存在する嗅細胞によって受容され、その情報は嗅細胞の軸索を介して脳の嗅球に伝えられる。出力ニューロンは、嗅球の表面に存在する糸球体に主樹状突起を伸ばし、嗅細胞からの情報を受容する。出力ニューロンに伝えられた匂い情報は、嗅球内で処理された後、嗅皮質などの高次嗅覚中枢に伝えられ、匂いの認識や記憶、情動の変化などを引き起こす。

野生型マウスとTbr2遺伝子欠損マウスの出力ニューロン(僧帽細胞)の樹状突起の形態の図

図2 野生型マウスとTbr2遺伝子欠損マウスの出力ニューロン(僧帽細胞)の樹状突起の形態

  • 野生型マウス:主樹状突起(青矢印)が糸球体に向かって真っすぐに伸び、副樹状突起は僧帽細胞層に対して平行に伸びる。
  • Tbr2遺伝子欠損マウス:主樹状突起がランダムな方向に伸長し、副樹状突起はさまざまな方向に枝分かれする。
野生型マウスとTbr2遺伝子欠損マウスの介在ニューロンの分化の図

図3 野生型マウスとTbr2遺伝子欠損マウスの介在ニューロンの分化

Tbr2遺伝子欠損マウスでは、嗅球のパルブアルブミン陽性介在ニューロン(赤)の数が減少する。また、細胞体の大きさが小さく、樹状突起も発達不全である。

匂いに対する出力ニューロンの過剰な活性化の図

図4 匂いに対する出力ニューロンの過剰な活性化

野生型マウス(青)とTbr2遺伝子欠損マウス(赤)に、さまざまな匂い(酢酸イソアミル、オイゲノール、オクタナール)を嗅がせ、活性化した出力ニューロン(僧帽細胞)の数を定量化した。Tbr2遺伝子欠損マウスでは、全ての匂いに対して約2倍の数の出力ニューロンが活性化している。

Tbr2遺伝子欠損による嗅球内神経回路の異常の図

図5 Tbr2遺伝子欠損による嗅球内神経回路の異常

Tbr2遺伝子欠損マウスの嗅球では、出力ニューロンの遺伝子発現とともに樹状突起の形態が変化する。同時にさまざまな介在ニューロンの発達にも異常が生じ、出力ニューロンと正しくシナプス結合できなくなる。その結果、出力ニューロンへの抑制性シグナルが減少し、出力ニューロンが過剰に活性化する。

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