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2015年5月29日

理化学研究所

記憶痕跡回路の中に記憶が蓄えられる

-神経細胞同士のつながりの強化は記憶の想起には不要-

要旨

理化学研究所(理研)脳科学総合研究センター 理研-MIT神経回路遺伝学研究センターの利根川進センター長らの研究チームは、従来記憶の保存に不可欠だと考えられていたシナプス増強[1]がなくても、記憶が神経細胞群の回路に蓄えられていることを発見しました。

私たちの記憶は、はじめは不安定ですが、記憶の固定化[2]というプロセスを経て、より長期的な記憶に変化します。記憶は記憶痕跡[3]とよばれる神経細胞群とそれらのつながりに蓄えられると考えられています。記憶が長期的に保存されるには、この記憶痕跡細胞同士のつながりを強めるシナプス増強という過程が不可欠であるとされています。実際、実験動物においてシナプス増強を薬剤で阻害すると、過去のことを思い出せなくなることが分かっています。しかし、記憶の固定化プロセスの中で、記憶痕跡を形成する神経細胞群そのものにどのような変化が起きているのかは、まったく分かっていませんでした。今回研究チームは、シナプス増強が起こらないような条件下で、マウスの記憶痕跡を最新の光遺伝学[4]という技術を用いて記憶痕跡を標識[5]し、操作することで、記憶の固定化プロセスにおける記憶痕跡細胞自体の変化を直接調べようと考えました。

マウスをある小箱に入れ、弱い電気刺激を与えてこの小箱の環境が怖いということを記憶させながら、マウス脳内の海馬歯状回[6]における記憶痕跡を標識しました。通常このような体験の翌日、マウスを同じ小箱に置くと、怖い体験を思い出してすくみます。しかし、小箱の中でマウスが怖い体験をしたすぐ直後に、タンパク質合成阻害剤[7]を投与しシナプス増強が起こらないようにすると、マウスは同じ小箱に入れられても、怖い体験の記憶を失ってすくみません。翌日、怖い体験をした小箱とは別な小箱に同じマウスを入れ、標識した記憶痕跡を人工的に活性化すると、記憶を失ったはずのマウスは、再び怖い体験を思い出してすくみました。「この結果は予想外でした。なぜなら、シナプス増強がなくても、記憶は痕跡細胞群の中に直接、記憶として保存されていることを意味するからです。」と、論文の筆頭著者であるトマス・ライアン博士研究員は言います。

「シナプス増強というプロセスはおそらく、記憶が形成されるごく初期の段階には重要な役割を果たしているが、すでに保存された記憶を維持するための基本メカニズムではなさそうだ」と研究チームを率いる利根川進センター長は言います。「しかし、自然な手がかりから効率よく記憶痕跡を活性化し、過去の体験を細部まで思い出すには、シナプス増強が不可欠なのかも知れない」と利根川センター長は考えています。

本研究は、米国の科学雑誌『Science』(5月29日号)に掲載されるのに先立ち、オンライン版(5月28日付け:日本時間5月29日)に掲載されます。

※研究チーム

理化学研究所脳科学総合研究センター
理研-MIT神経回路遺伝学研究センター
センター長 利根川進(とねがわ すすむ)
博士研究員 Tomás Ryan(トマス・ライアン)

背景

私たちの記憶は、はじめは不安定ですが、記憶の固定化というプロセスを経て、より長期的な記憶に変化します。記憶は記憶痕跡と呼ばれる、過去の体験を細部まで再現してその記憶を思い出すことができる、神経細胞群とそのつながりによって蓄えられていると考えられています。一般に記憶が長期保存されるには、この記憶痕跡細胞同士のつながりを強めるシナプス増強という過程が不可欠であるとされています。実際、シナプス増強に必要なタンパク質合成を阻害する薬剤を動物に投与すると、過去のことを思い出せない逆行性健忘[8]という状態になることがわかっています。しかし、記憶の固定化プロセスの中で、記憶痕跡を形成する神経細胞群そのものにどのような変化が起きているのかは、まったく分かっていませんでした。

研究チームは2012年以降、記憶痕跡を最新の光遺伝学という技術を用いて標識し、操作することで、記憶の形成や書き換えのメカニズムを明らかにしてきました注)。今回研究チームは、シナプス増強が起こらないような条件下でマウスの記憶痕跡を操作することで、記憶の固定化プロセスにおける記憶痕跡細胞自体の変化を直接調べようと考えました。

注)2014年8月28日のプレスリリース「光で記憶を書き換える」

研究手法と成果

研究チームは、まずマウスをある小箱Aに入れ、マウスをこの環境に慣れさせました。次に、同じマウスを別な小箱Bに入れ、弱い電気刺激を与えてその小箱Bが怖いということを記憶させながら、マウス脳内の海馬歯状回における記憶痕跡を標識しました。通常、マウスにこのような体験をさせ、翌日同じ小箱Bに置くと、怖い体験の記憶を思い出してすくみます。しかし、小箱Bの中でマウスが怖い体験をしたすぐ直後にタンパク質合成阻害剤を投与してシナプス増強が起こらないようにすると、翌日マウスを同じ小箱Bに入れてもすくみませんでした。つまりこのマウスは、小箱Bでの怖い体験の記憶を喪失していました。

さらに翌日、このマウスを最初の小箱Aに再び入れても、小箱Aでは特に何も体験しなかったので、マウスは何の反応も示しませんでした。ところが驚いたことに、光の照射により、小箱Bでの怖い体験に対応する記憶痕跡細胞群を人工的に活性化すると、小箱Bでの記憶を喪失したはずのマウスは、怖い体験を思い出して小箱Aですくみました。この結果は、神経細胞同士のつながりがシナプス増強のプロセスによって強化されなくても、怖い体験の記憶は記憶痕跡細胞群の中に直接、保存されていることを意味しています(図1)。

周囲の環境とそこでの怖い体験を結びつける記憶は、海馬から扁桃体[9]へと伝わる回路の活動に依存することが知られています。ところが、シナプス増強が起こらず逆行性健忘を示すマウスでも、この海馬と扁桃体の間のそれぞれの記憶痕跡細胞群同士のつながりは、強まっていることがわかりました(図2)。このことは、シナプス増強によらない記憶痕跡細胞群同士のつながりの強化によって、記憶は痕跡細胞の中に安定的に蓄えられていることを示唆しています。

今後の期待

「シナプス増強というプロセスはおそらく、記憶が形成されるごく初期の段階には重要な役割を果たしているが、すでに保存された記憶を維持するための基本メカニズムではなさそうだ」と研究チームを率いる利根川進教授は言います。「しかし、自然な手がかりから効率よく記憶痕跡を活性化し、過去の体験を細部まで思い出すには、シナプス増強が不可欠なのかも知れない」と利根川教授は考えています。認知症や外傷などによる逆行性健忘の患者さんの記憶は、失われてしまったのではなく、保存されている記憶へアクセスできないだけなのかも知れません。

原論文情報

  • Tomás J. Ryan, Dheeraj S. Roy, Michele Pignatelli, Autumn Arons and Susumu Tonegawa, "Engram Cells Retain Memory Under Retrograde Amnesia", Science, doi: 10.1126/science.aaa5542

発表者

理化学研究所
脳科学総合研究センター 理研-MIT神経回路遺伝学研究センター
センター長 利根川 進(とねがわ すすむ)

報道担当

理化学研究所 広報室 報道担当
Tel: 048-467-9272 / Fax: 048-462-4715

補足説明

  • 1.シナプス増強
    神経細胞同士をつなげるシナプスにおいて、ある神経細胞が活動した直後にそれがつながる別の神経細胞の活動が起きることが繰り返されると、その二つの神経細胞の間のシナプスは増強されるという現象。
  • 2.記憶の固定化
    Consolidation.学習した直後の不安定な記憶を、より安定な長期保存可能な形にする過程。定説ではシナプス増強が固定化には不可欠とされている。
  • 3.記憶痕跡
    ヒトや動物の脳内に蓄えられていると仮定されている記憶の痕跡。記憶はこの特定の神経細胞群の活動パターンやそれらのつながりの中に蓄積されていると考えられている。
  • 4.光遺伝学
    光感受性タンパク質を、遺伝学を用いて特定の神経細胞群に発現させ、その神経細胞群に局所的に光を当てて活性化させたり、抑制したりする技術。この研究ではChR2(チャネルロドプシン2)という、光照射により神経細胞の活動が誘発されるものを用いている。
  • 5.記憶痕跡を標識
    神経が活動するとその発現が誘導される性質の遺伝子(この研究では、c-fos遺伝子)の調節領域と標識する期間を限定させる特殊な誘導システム(Tet-offシステム)を用いて、実験者が標識したい期間に活動した神経細胞でのみ、特定の遺伝子(この場合は光感受性タンパク質遺伝子 ChR2)を発現させることができる。
  • 6.海馬歯状回
    海馬体の1領域で、海馬体の各領域を結ぶ3シナプス性回路の次のステップを担う。文脈恐怖条件付け学習やパターン分離などに必要であるとされる。
  • 7.タンパク質合成阻害剤
    タンパク質の合成の各ステップで働く因子の機能を抑えて、タンパク質の新規合成を阻害する薬剤の総称。本研究ではアニソマイシンと呼ばれるタンパク質合成阻害剤が主に使用されているが、これは合成されたタンパク質をタンパク質合成の場であるリボソームから切り離す酵素の働きを抑える。
  • 8.逆行性健忘
    発症前の過去のことがらを思い出すことができなくなること。外傷性脳損傷や認知症で発症することが多い。
  • 9.扁桃体
    大脳辺縁系の一部で、側頭葉の奥に存在する。恐怖、喜び、といった情動に伴う反応と、その記憶の形成に重要な役割を果たしている。
実験の概要図の画像

図1 実験の概要図

小箱A(青)にマウスを入れ、この小箱Aの環境に慣らす。次に、小箱B(赤)に同じマウスを入れ軽い電気ショックを体験させる。この小箱Bという環境で怖い体験をしている最中に、その記憶に対応する記憶痕跡を遺伝学的手法で標識する(オレンジの細胞)。小箱Bでの体験直後に、タンパク質合成阻害剤をマウスに注射し、シナプス増強を阻害する。翌日、同じ小箱Bにマウスを入れても(テスト1)すくみ反応を示さず、小箱Bの怖い体験の記憶は忘れている。この時、記憶痕跡は活性化されない。しかし、さらに次の日、最初に入れた中立な環境である小箱Aにマウスを入れ、小箱Bの怖い体験の記憶痕跡を光遺伝学的手法で人工的に活性化(赤い細胞)すると、マウスは怖い体験を思い出して、すくみ反応を示す。

海馬と扁桃体の記憶回路のつながりはシナプス増強がなくても強まるの図

図2 海馬と扁桃体の記憶回路のつながりはシナプス増強がなくても強まる

マウスにタンパク質合成阻害剤を投与しシナプス増強を阻害しても、小箱Bでの嫌な記憶に対応した、海馬の記憶痕跡と扁桃体の記憶痕跡のつながりは強化される。

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