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2016年2月5日

理化学研究所

表面反応素過程での新しいエネルギー伝搬

-倍音振動の多段励起を介した吸着分子の拡散過程を観測-

要旨

理化学研究所(理研)Kim表面界面科学研究室の金有洙主任研究員と呉準杓研究員の研究チームは、金属表面上に吸着した一酸化炭素(CO)分子の振動励起[1]による拡散を観測し、「倍音振動[2]多段励起[3]」を介する新しいエネルギー伝搬過程を発見しました。

固体表面上に吸着した分子の振動状態は、吸着分子間および吸着分子と基板間の相互作用の影響を受けます。そのため、吸着分子の振動状態を計測すれば、吸着や脱離、解離、拡散、化学反応などの表面反応素過程[4]を理解する上で重要な情報を得ることができます。研究チームは2010年に、走査型トンネル顕微鏡(STM)[5]を用いた「アクションスペクトル[6]測定法(STM-AS)」を開発し、表面反応素過程のメカニズム解明に取り組んできました。STM-ASとはSTMの探針からトンネル電子を吸着分子に注入し、分子の振動を励起と、それに伴うエネルギー伝搬過程を調べることで、分子の反応と運動の機構を定量的に理解できる手法です。STM-AS法を用いた先行研究によると、固体表面上に吸着した分子特有の振動モードは、反応障壁(反応が起こるために必要なエネルギー)より高いレベルのエネルギーを持つ振動モードの励起に起因する例がほとんどです。

今回研究チームは、弱い吸着系である銀基板上の吸着CO分子を用いて、CO分子の拡散過程を調べました。熱による振動が起こり得ない極低温(5K、-268℃)において、STM-AS法を用いてCO分子の拡散収率を求めました。その結果、銀基板上におけるCO分子の拡散障壁より低いエネルギーレベルを持つ、基板-CO分子間伸縮振動モードの2倍、3倍、5倍音モードの多段励起によって、吸着CO分子が拡散運動を起こすことが明らかになりました。すなわち、反応障壁より低いエネルギーを持った振動モードは、多段励起というエネルギーの積み重ね過程によってエネルギーを効率良く利用し、拡散障壁(拡散が起こるために必要なエネルギー)を越えられることを実験的に証明したことになります。

本成果は、これまで、振動エネルギー移動ダイナミクスにおいて議論されなかった、倍音振動モードの励起の重要性を主張できるものです。

本研究は、米国の学術誌『Physical Review Letters』(2月2日付け)に掲載されました。

背景

分子それぞれには、「分子の指紋」と呼ばれる固有な分子振動のエネルギーがあります。そのため、個々の分子の振動エネルギーを計測する「振動分光法」が実現すると、計測対象の化学分析が可能となり、吸着や脱離、解離、拡散、化学反応などの表面反応素過程を理解する上で重要な情報を得ることができます。分子1つ1つを「見る」ことができるほど優れた空間分解能を持つ走査型トンネル顕微鏡(STM)は、固体表面上に吸着した分子に対して一定のエネルギーを持ったトンネル電子を注入し、分子1個の振動を励起できることが知られています。振動が励起しても分子が表面上で動かない安定な分子に対しては、STMを用いて化学分析する手法はありましたが、振動励起によって動いてしまう不安定な分子に対しては、適用できる計測手法がありませんでした。

そこで、研究チームは、2010年にこの「振動励起によって動いてしまう」ことを逆手にとって、分子の動きの傾向から分子の振動エネルギーを読み取る新たな振動分光手法「アクションスペクトル(STM-AS)法」を開発し注1)、表面反応素過程の解明に取り組んできました。

STMを用いた振動励起に由来する反応メカニズムは、大きく2種類に分かれます。1つは、励起された振動モードの振動座標と誘起された反応の反応座標の方向が一致している「直接励起メカニズム」(図1 a)、もう1つは、振動座標と反応座標が一致しない「間接励起メカニズム」(図1 b)です。しかし、いずれの先行研究でも、トンネル電子照射による吸着分子の表面反応は、分子の基本振動モードの励起とそのエネルギー伝搬に起因する報告がほとんどでした。

注1)2010年8月11日プレスリリース「固体表面上の分子1つ1つの性質を調べる新手法を確立

研究手法と成果

研究チームは、熱による振動が起こり得ない極低温(5K、-268℃)、超高真空STMの環境で、STM-AS計測を行いました。まず、銀基板上に微量のCO分子を吸着させ、吸着したCO分子にSTM探針からトンネル電子を照射しました。照射されたトンネル電子1個当たりのCO分子の拡散収率におけるSTM探針-銀基板間に加える電圧依存性を計測しました。その結果、61±2、90±2、148±7、261±4mV(ミリボルト)において明らかな収率変化が観測されました。これらの閾値(いきち)を銀基板上吸着CO分子の基本振動モード[7]と比較すると260mVで観測された拡散運動の収率変化はCO分子の内部伸縮振動モード(ν(C-O), 261 meV)の励起に起因していました。これは先行研究においても報告された現象です。

しかし、本研究では、銀基板上CO分子が示す基本振動モードでは説明できない3つの閾値、61±2、90±2、148±7mVが観測されました。残り3つの閾値間エネルギー差が銀基板-CO分子間の伸縮振動モード(ν(M-CO), 31meV)のエネルギー、またはその倍の値に相当している(2倍、3倍、5倍)点に着目し、ν(M-CO)の倍音振動の励起過程を介したCO分子の拡散運動のメカニズムを提案しました。すなわち、反応障壁より低いエネルギーを持った振動モードが、多段励起というエネルギーの積み重ね過程によってエネルギーを効率良く利用することで、拡散障壁を越えられると言えます。このメカニズムは、STM-ASを定量的に表現するために開発された関数による実験データのカーブフィッティング[8]結果ともよく一致し、理論的にも証明できました。

特に、今回の結果は、振動座標と反応座標が一致しない系(間接励起メカニズム)です(図2)。そのため、励起されたν(M-CO)のエネルギーは反応座標と振動座標が一致する他の振動モード(ここでは束縛並進振動)に伝搬され、銀基板上を拡散します。この結果は、STM-ASによる吸着分子の振動励起エネルギーの伝搬過程を報告してきた従来の研究ではみられないものでした。

今後の期待

これまで、倍音振動は基本振動より励起寿命が短いため、励起エネルギーの伝搬過程について議論されませんでした。したがって、本研究の結果は、従来の考え方を覆すものと言えます。

本成果は、従来の基本振動モードの励起のみに着目してきた振動エネルギー移動ダイナミクスの議論を、倍音振動モードの励起によるエネルギー伝搬過程まで広く取り入れるきっかけになりました。今後、同分野において新しい概念の展開につながると期待できます。

原論文情報

  • Junepyo Oh, Hyunseob Lim, Ryuichi Arafune, Jaehoon Jung, Maki Kawai, and Yousoo Kim, "Lateral hopping of CO on Ag(110) by multiple overtone excitation", Physical Review Letters, doi: 10.1103/PhysRevLett.116.056101

発表者

理化学研究所
主任研究員研究室 Kim表面界面科学研究室
主任研究員 金 有洙(キム ユウス)
研究員 呉 準杓(オ ジュンピョウ)

オ ジュンピョウ研究員の写真 呉 準杓(オ ジュンピョウ)

報道担当

理化学研究所 広報室 報道担当
Tel: 048-467-9272 / Fax: 048-462-4715

補足説明

  • 1.振動励起
    分子を構成する原子間の距離や角度などが一定の周期で変化することを「分子振動」と言い、その振動が外部から与えられたエネルギー(例えば、光、熱、電場、磁場など)によって、基底状態またはある励起状態より高いエネルギーを持った状態に移ることを「振動励起」と言う。
  • 2.倍音振動
    振動分光においてある周波数に対し、2以上の整数倍の周波数を持つ振動。
  • 3.多段励起
    振動励起された分子は、与えられたエネルギーを放出する緩和過程を経て安定な基底状態に戻ろうとするが、緩和過程より先に次のエネルギーが分子に入ると励起状態より高いエネルギー準位まで分子は振動励起される。このように2回のエネルギー注入による過程を「多段励起」と言う。量子力学によれば、振動の周期は量子化されており、連続的ではなく、とびとびの値をとる。つまり振動が励起するために必要なエネルギー「振動エネルギー」も、とびとびの値を持つ。
  • 4.表面反応素過程
    固体(触媒)表面における分子の吸着をはじめ、拡散、解離(分解)、脱離といった個々の反応を指す。
  • 5.走査型トンネル顕微鏡
    先端を尖がらせた金属針(探針)を測定表面に極限に近づけたときに電流が流れるトンネル現象を測定原理として用いる装置。試料表面をなぞるように走査して、その表面の形状を原子レベルの空間分解能で観測する顕微鏡。探針と試料間に流れるトンネル電流を検出し、その電流値を探針と試料間の距離に変換させ画像化する。
  • 6.アクションスペクトル
    STMの探針を測定対象の分子の直上で固定し、特定の電圧をかけた際に流れるトンネル電流を測定する。このとき、分子の運動や反応が起きると、一定だったトンネル電流が突然減少したり増加したりする。この測定を数十回繰り返し、トンネル電流を流し始めてから運動・反応が起きるまでの時間の平均から反応速度を求める。この反応速度の測定を、STMにかける電圧(トンネル電子のエネルギーに相当)を変えながら繰り返す。こうして得た「1電子あたりの反応確率」の形で規格化した反応速度を、トンネル電子のエネルギーに対してプロットしたグラフを、アクションスペクトルと呼ぶ。
  • 7.吸着CO分子の基本振動モード
    基板上に吸着したCO分子が表す基本振動モードには、CO分子の内部伸縮振動モード(C-O)の他に、吸着由来の基板とCO間の伸縮振動モード(M-CO)、束縛並進振動モードと束縛回転振動モードがある。下図を参照。
    吸着CO分子の基本振動モードの図
  • 8.カーブフィッティング
    曲線あてはめ。実験データに対して最もよくあてはまるような曲線を求めること。実験データを表現する式(関数)に含まれるいくつかの定数(フィッティングパラメータ)を最適化することにより、最もよく当てはまる曲線を求めることが多い。求められた最適なフィッティングパラメータには物理的な意味があり、測定対象の特定の性質を反映している。
走査型トンネル顕微鏡(STM)を用いた振動励起に由来する反応メカニズム図

図1 走査型トンネル顕微鏡(STM)を用いた振動励起に由来する反応メカニズム

a)直接励起メカニズムを表す。トンネル電子によって励起された振動モードの振動座標(左)と振動励起による反応の座標(右)が同じ方向(水平方向)になっている。

b)間接励起メカニズムを表す。励起された振動モードの振動座標(左、垂直方向)と振動励起による反応の座標(右、水平方向)が一致しない。この場合は、反応座標と同方向(水平方向)の振動座標を持つ他の振動モードにエネルギーが伝搬する「内部振動モード間カップリング」が必要である。

※灰色の丸は基板の原子を、赤色の丸は反応する分子を示す。

銀基板-CO分子間伸縮振動モードの倍音振動多段励起と励起エネルギーの伝搬過程の図

図2 銀基板-CO分子間伸縮振動モードの倍音振動多段励起と励起エネルギーの伝搬過程

左)ν(M-CO)の倍音モードである2 (M-CO)、3 (M-CO)、5 (M-CO)が、トンネル電子によって励起される過程を示す。また、赤と青の矢印で示した2 (M-CO)と3 (M-CO)のトンネル電子による励起は、それぞれ電子3個と2個による多段励起過程を表している。

右)左図で得られた励起エネルギーが、束縛並進振動モードとのカップリングを経て、CO分子が反応障壁を飛び越え、反応座標方向(右方向)にホッピングする過程を示す。

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