| 2. |
研究手法と成果 |
| 研究グループは、細胞内の特定の酵素に対する阻害剤を培養液へ添加するという単純な処理を行うことで、ヒトES細胞の生存を著しく亢進させる技術を樹立しました。また、この方法により、これまで困難であったヒトES細胞から効率の良く大脳神経細胞を産生することを可能としました。 |
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ヒトES細胞の「内なる殺し屋」Rhoキナーゼ(ROCK)を同定 (図2) |
上述のように、ヒトES細胞は、単一細胞に分散して培養すると99%が細胞死を起こし、コロニーを形成することができません。このような細胞死を引き起こす現象は、マウスES細胞では認められず、霊長類(ヒト及びサル)ES細胞に特有の現象です。これまでに、笹井グループディレクターを始め、多くの研究者が細胞死の阻害剤(カスパーゼ阻害剤など)を用いて、この細胞死を抑制し、ヒトES細胞の生存を高める試みを行いましたが、十分な成果は得られませんでした。ヒトES細胞を効率よく培養することが出来ないために、ヒトES細胞の大量培養はもちろん、分散培養やコロニー形成を必要とする研究開発は、実際上不可能でした。
研究グループでは、運動神経細胞などのごく特殊な細胞死に関わっている可能性のみが示唆されていたRhoタンパク質と、Rhoが結合することで活性化されるRhoキナーゼ(ROCK)という酵素に注目しました。このRhoタンパク質がヒトES細胞で果たす役割を調べたところ、ヒトES細胞をバラバラに分散するとすぐにRhoタンパク質の活性化が起こることを発見しました。Rhoタンパク質の活性化は、続いてROCKの活性化を引き起こしますが、ROCKの選択的阻害剤であるY-27632※3を作用させたところ、ヒトES細胞の分散による細胞死を強く抑制し、1個の細胞からの細胞塊(コロニー)形成率が約30倍に亢進しました。分散したヒトES細胞の生存促進は、Fasudil※3などY-27632以外のROCK阻害剤を添加することでも認められました。
このことは、分散培養の際にヒトES細胞の「殺し」をつかさどる細胞内因子が、実は、一般的な細胞死にはあまり関係しないとされてきたROCKであることを世界で初めて証明したことになります。
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ヒトES細胞培養が劇的に改善 |
ROCK阻害剤の生存促進作用は非常に強力で、たった1個のヒトES細胞を培養皿にいれた場合でも、そこから細胞塊を成長させることができます。また、分散後12時間作用させるだけで、細胞死をほぼ完全に抑制することが出来ます。
さらに、ROCK阻害剤存在下で培養すると、ヒトES細胞は、ES細胞特有の性質を失いません。すなわち、自己複製能や多能性を保ったまま培養する、維持培養が可能となります。また、ヒトES細胞は、分散培養をしなくても中程度に細胞死が起こりやすく、殖えにくい性質がありますが、ROCK阻害剤は、分散培養以外でもヒトES細胞の生存、増殖を促進することが判明しました。
長らく解決されなかったヒトES細胞の細胞死の問題は、このように単純なROCK阻害剤の薬剤処理でほぼ解決することができました。
ちなみに、大量培養を考えた場合、従来の「株分け」培養法では1ヶ月かけてやっと100倍程度に細胞を殖やすことができるのみでしたが、今回のROCK阻害剤を使う新しい分散培養法では、計算上1ヶ月で1万倍以上に細胞数を殖やすことが可能になる効率になります。
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ヒトES細胞への遺伝子導入改変細胞を作成 (図3) |
ヒトES細胞に外部から遺伝子を導入し、遺伝子改変細胞を作ることは、ヒトES細胞を用いた基礎および応用医学研究で非常に重要な手法となります。しかし、外来遺伝子がヒトES細胞のゲノムへ組み込まれる効率は一般に0.1%以下と非常に悪く、そのため遺伝子が組み込まれた細胞を、組み込まれなかった数多くの細胞から選別するためには、分散培養によるコロニー形成が必須になります。ところが、上述したように、これまでヒトES細胞の分散培養の効率が著しく低かったため、遺伝子改変細胞株を得るためには何十枚もの培養皿を使う大量の導入実験を行う必要がありました。
この難問も、ROCK阻害剤を培養中に添加すると分散培養の効率が劇的に向上することにより、解決しました。遺伝子改変細胞の作成は、10cm培養皿1枚程度で十分行うことが可能となりました。
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ヒトES細胞からヒト大脳皮質細胞を産生 |
これまでに、同研究グループは、マウスES細胞から大脳神経前駆細胞を効率的に産生する手法を開発しました(2005年2月7日プレス発表)。しかし、この方法は、細胞分散および浮遊培養(細胞を培養皿の底に接着させず、培養液に浮遊させて培養する)のステップを含んでいたため、ヒトES細胞にこの手法をそのまま適用すると、強い細胞死を惹起し、細胞がほとんど全滅してしまうという問題がありました。
そこで、ROCK阻害剤をこの培養系に添加したところ、ヒトES細胞は、分散および浮遊培養にも関わらず良く生存しました(図4)。さらに神経分化を阻害するWnt、Nodal、BMPという3つの細胞外シグナル因子を働かなくするために、それらの阻害剤を加えると、培養開始35日後には9割以上の細胞が神経系細胞となり、その33%の細胞が大脳神経前駆細胞または大脳神経細胞に分化していることがわかりました(図5)。こうして育った大脳細胞を詳細に解析した結果、それらの大部分は大脳のなかでも皮質の前駆細胞であることが判明しました。大脳には皮質以外に、その腹側に存在する基底核という運動制御中枢がありますが、培養の過程でソニックヘッジホグというタンパク質を添加すると、同様の分散・浮遊培養法でヒトES細胞から基底核の神経細胞も産生できることが判明しました。
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| 3. |
本研究成果の応用面での特徴 |
| 今回の研究は、困難であったヒトES細胞の培養を劇的に改善したことで、マウスES細胞並の操作を可能にする画期的な技術的ブレイクスルーをもたらします。 |
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| 医学応用の観点からは、この技術は次のような重要な意義を持ちます。 |
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ヒトES細胞の分散培養による大量培養を可能にする。 |
| 2) |
ヒトES細胞を単一細胞から増やし直すことで、均一な細胞品質管理を可能にする。 |
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上記の細胞品質管理は、腫瘍化や染色体異常などの再生医療での安全性を改善する。 |
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ヒトES細胞を用いるハイスループットでの創薬や毒性スクリーニングを可能にする。 |
| 5) |
ヒトES細胞への遺伝子導入株の単離を容易にし、病因解明や創薬研究を加速する。 |
| 6) |
ヒトES細胞の取扱い全般を容易にし、再生医学以外にもより広い範囲の医学・薬学系研究者の開発研究への参加を促進する。 |
| 7) |
ヒト由来の大脳皮質および基底核細胞を試験管の中で大量に産生することを可能にし、大脳の神経変性疾患※4の再生医療研究、病因研究や創薬開発を強力に推進する。 |
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このROCK阻害剤を用いたヒトES細胞の維持培養および分化誘導法については、すでに理化学研究所から特許申請を出願済みです。
なお、ROCK阻害剤(Y-27632やFasudilなど)はすでに血管拡張剤などとして臨床応用されており、ヒトに対して安全性の高い薬剤であることはすでに証明されています。ROCK阻害剤を用いたヒトES細胞の培養が、再生医療応用に活用される場合についても、安全性の問題は少ないと考えられます。
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| ※1 |
ES細胞の培養と理研での研究 |
ES細胞は着床前胚由来の未分化な幹細胞で、体のすべての種類の細胞に分化する能力(多能性)と自己複製能を特徴とする。多能性を保ったまま培養し増殖させることを特に「維持培養」と呼ぶ。ヒトES細胞では、多能性は培養過程で失われやすく、さらに細胞死が高率に起こるため、これまで維持培養が非効率的であり、また高い培養技術を要した。
なお、ヒトES細胞は文部科学省の指針に基づいて京都大学再生医科学研究所でヒト余剰凍結胚(不妊治療のため作成されたが、使用されないことになったもの)から作成された国産のものを使用した。また、理研発生・再生科学総合研究センターでは、笹井芳樹、西川伸一、丹羽仁史、高橋政代の4つの研究チームがヒトES細胞の使用計画の確認を文部科学大臣から受けており、3年前から盛んにヒトES細胞の大量培養、分化誘導、再生医療への基盤技術開発を行っている。
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| ※2 |
細胞死 |
| 細胞は、物理的なダメージや毒物などによる強い障害で死滅するだけではなく、増殖シグナルの欠如あるいは様々な刺激の結果、細胞の「自殺スイッチ」が入り細胞死を起こすことが知られている。このような細胞死は、プログラム細胞死またはアポトーシスと呼ばれる。ヒトES細胞の分散による細胞死は、細胞環境変化による特殊なアポトーシスと考えられる。 |
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| ※3 |
Rhoキナーゼ(ROCK)とROCK阻害剤(Y-27632、Fasudil) |
| Rhoキナーゼ(ROCK)は細胞質に存在し、細胞の形や運動など様々な制御を行う重要なリン酸化酵素で、京都大学医学部成宮教授や名古屋大学医学部貝渕教授によって90年代に発見された。Rhoなどいくつかの細胞内因子によって活性化される。ROCK阻害剤Y-27632やFasudilはそれぞれ日本の企業である三菱ウェルファーマ、旭化成で開発された。さらに、成宮教授らはROCKの阻害が血管拡張を惹起することを発見し、その後日本を中心に医学応用が急速に展開した。ROCK阻害剤は血管拡張剤などとして循環器・脳外科領域での臨床で既に利用されているほか、緑内障の治療薬として眼科領域でも臨床研究が行われている。 |
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| ※4 |
神経変性疾患 |
| 多くは不明の原因(一部、遺伝性)で起こる中枢神経系細胞の変性・脱落に起因する難病。中脳ドーパミン神経の変性で起こるパーキンソン病や小脳神経細胞等の変性による脊髄小脳変性症などが典型例。大脳の神経変性疾患としては、広範囲の大脳皮質細胞が変性するアルツハイマー病、大脳基底核の神経細胞の変性で起こるハンチントン病などが有名。変性した細胞の代わりに幹細胞由来の神経細胞を移植する再生医療の開発が盛んに試みられている。 |