理化学研究所(理研)開拓研究本部古崎物性理論研究室の紙屋佳知基礎科学特別研究員、上海交通大学のジエ・マ教授(アシスタント・プロフェッサー)らの国際共同研究グループ※は、三角格子反強磁性体[1]アンチモン酸バリウムコバルト(Ba3CoSb2O9)の強磁場中「磁化プラトー相[2]」の量子スピンダイナミクスの詳細を明らかにしました。また、マグノン-スピノン対の分数化現象[3]など、本質的に新しい現象が無磁場中で起きている可能性が高いことも示しました。
本研究成果は、Ba3CoSb2O9をはじめとするフラストレート量子磁性体[4]において、スピノン[5]など新しい分数磁気励起が関わる非従来型スピンダイナミクスの基礎研究の大きな進展につながると期待できます。
今回、国際共同研究グループは、強磁場中の中性子散乱実験[6]と非線形スピン波理論[7]によってBa3CoSb2O9の磁化プラトー相の励起スペクトルを調べ、実験が非常によく再現されることを示しました。このことは、量子効果によって実現している磁化プラトー相の磁気励起がよく知られたスピン波励起(マグノン)[8]であることを意味しています。さらに、対象物質の磁気異方性[9]などのモデルパラメータを正確に決定することにより、先行研究で報告された無磁場中のBa3CoSb2O9の磁気励起スペクトルについて、逆に、通常のマグノンとしては説明できないことも明らかにしました。
本研究は、英国のオンライン科学雑誌『Nature Communications』(7月10日:日本時間7月10日)に掲載されます。
※国際共同研究グループ
理化学研究所 開拓研究本部 古崎物性理論研究室
基礎科学特別研究員 紙屋 佳知(かみや よしとも)
米国 ジョージア工科大学 物理学部
大学院生 ルウェイ・ガ(Luwei Ge)
アシスタント・プロフェッサー マーティン・モウリガル (Martin Mourigal)
米国 オークリッジ国立研究所 中性子散乱部門
スタッフ・サイエンティスト タオ・ホン(Tao Hong)
スタッフ・サイエンティスト 松田 雅昌(まつだ まさあき)
スタッフ・サイエンティスト フイボ・カオ(Huibo Cao)
米国 国立標準技術研究所 NIST中性子研究センター
スタッフ・サイエンティスト イーミン・チウ (Yiming Qiu)
独国 ベルリン・ヘルムホルツ材料エネルギーセンター
特別研究員(研究当時) ダイアナ・キンテロ−カストロ (Diana Quintero-Castro)
スタッフ・サイエンティスト ヂールン・ルウ (Zhilun Lu)
米国 国立強磁場研究所
スタッフ・サイエンティスト ユン・サン・チョイ(Eun Sang Choi)
米国 テネシー大学 物理天文学部
リンカーン・チェア・プロフェッサー クリスチャン・バティスタ(Cristian Batista)
(オークリッジ国立研究所 シャル・ウォラン・センター 副センター長)
アシスタント・プロフェッサー ハイドン・ゾウ (Haidong Zhou)
中国 上海交通大学 物理天文学部
アシスタント・プロフェッサー ジエ・マ (Jie Ma)
※研究支援
本研究は、日本学術振興会(JSPS)文部科学省科学研究費補助金基盤研究A「スピン分数化による量子スピン液体の開拓(研究代表者:求幸年教授)」、中国科学院の研究助成金(2016YFA0300500)、中国国家自然科学基金(11774223)など各国の科学研究費助成を受けて行われました。
背景
近年、物性物理分野では、量子スピン液体[10]という全く新しいタイプの相に大きな関心が持たれています。通常の磁性体と同様、量子スピン液体は「スピン」と呼ばれるそれ以上分割できないミクロな磁石から成り立っていますが、非常に強い量子効果によってスピンが絶対零度(-273.15℃)でも大きく揺らぎ続け、通常の磁性体が示す、強磁性や反強磁性などの秩序化を起こしません。
量子スピン液体は、さまざまな変わった性質を持っています。なかでも興味深いのはエネルギー励起状態の性質です。通常の磁気秩序化した磁性体では、秩序化したスピン構造が波のように揺らぐ、スピン波という励起が生じ、これを量子力学に従って記述した素励起を「マグノン」といいます。一方、量子スピン液体では、あたかもマグノンを半分に分裂させたような非常に奇妙な分数化励起「スピノン」が予想されています。スピノンのタイプによっては、量子コンピュータなど将来的な技術革新の主役となることが期待されているものもあり、現在その基礎物理の研究が進められています。
現在、「これは確実に量子スピン液体である」というコンセンサスが得られた物質は知られていません。一方、かつてその可能性が示されたものの、十分温度を下げることで秩序化が起きることが後に明らかになった、いわば、「元」候補物質は少なからず知られています。大変興味深いことに、世界各地の最先端の中性子散乱実験施設から続々と寄せられる実験データの分析から、これら「元」候補物質群のマグノンにスピノンの痕跡が隠れている場合がありそうだ、ということが近年徐々に明らかになってきました。
国際共同研究グループでは、そのようなスピノンの痕跡について明確な実験的知見を積み重ねるとともに、その物理を正しく記述するための理論手法開発に取り組んできました。
研究手法と成果
国際共同研究グループは、三角格子反強磁性体アンチモン酸バリウムコバルト(Ba3CoSb2O9)の高品質単結晶試料を合成し、10.5~13.5テスラの強磁場中で中性子散乱実験を行いました。三角格子反強磁性体は構造上、個々のスピン間の相互作用エネルギーを同時に最小化することができないフラストレート磁性体です(図1a)。一般に、このようなフラストレート磁性体は、外部条件の僅かな変化に対して敏感に反応しやすいと考えられます。また、Ba3CoSb2O9の磁性イオンCo2+(有効スピンS=1/2)は強い量子揺らぎ[11]を生じやすく、フラストレーションとの協奏的効果による新しい物性が期待されます。
この三角格子反強磁性体に磁場をかけると、磁性体のマクロな磁化が本質的に変化しない「磁化プラトー相」(プラトー:平坦領域)という量子相[12]が出現することが知られています。今回実験を行なった10.5~13.5テスラの磁場領域は、この磁化プラトー相のおよそ2/3ほどに相当しています(図1b)。
中性子散乱実験は、加速器または原子炉から放出された中性子を準備したサンプルに当て、散乱された中性子の運動量やエネルギーの変化を調べる実験手法です。これにより、Ba3CoSb2O9の磁気励起の性質を調べたところ、磁化プラトー相のマグノンを観察することができました(図2a)。量子効果によって実現している磁化プラトー相のマグノンについてはこれまでどの物質でも先行実験例がなく、今回、初めてその性質を明らかにしました。
さらに、この実験結果を定量的に説明する非線形スピン波理論を構築しました(図2b)。この理論では磁化プラトー相の磁気構造が波のように揺らぐマグノンを量子力学によって記述しますが、磁化プラトー相を安定化させる量子効果が、マグノン間の相互作用として巧妙に取り入れられています。スピン波理論と実験結果はよく一致し、磁気異方性などの対象物質のモデルパラメータが正確に決定されました。
なお、本国際共同研究グループによる先行研究注1)と、東京工業大学の田中秀数教授らによる先行研究注2)において、無磁場中でのBa3CoSb2O9の磁気励起スペクトルにはスペクトル線のぼやけや、高エネルギー領域における強い連続体励起などが見られることが報告されていました。これらは無磁場中の磁気励起に非常に強い量子効果が介在していることを示唆しています。純良な単結晶の磁気励起スペクトルにこのような異常が現れる理由としては、マグノン間相互作用によるマグノン崩壊現象、あるいはマグノン-スピノン対の分数化現象という、2種類のシナリオが考えられます(図3)。このうち、マグノン崩壊のシナリオは従来型のスピン波理論で説明される現象ですが、マグノン-スピノン対の分数化のシナリオは興味深い新現象で、今後新しい理論展開が必要とされます。したがって、どちらのシナリオがより現実に即しているのか、専門家の間では大きな興味が持たれていました。
この重要な点に関して、今回正確に決定されたモデルパラメータに基づき、無磁場中のBa3CoSb2O9のスピン波のモデル解析を行ったところ、マグノン1個のエネルギーと、マグノン2個のペアのエネルギーの間には(どの運動量でも)共鳴が起こらないことがわかりました。これは無磁場中の磁気励起スペクトルの特異な性質を、マグノン崩壊のシナリオ、つまり従来型のスピン波の、比較的弱い相互作用の効果として理論的に説明することは不可能であること意味しています。したがって無磁場中では、マグノン-スピノン対の分数化現象など、極めて新しい現象が起きている可能性が高いことが示されました。
- 注1) J. Ma et al., “Static and Dynamical Properties of the Spin-1/2 Equilateral Triangular-Lattice Antiferromagnet Ba3CoSb2O9”, Phys. Rev. Lett. 116, 087201 (2016)
- 注2) S. Ito et al., “Structure of the magnetic excitations in the spin-1/2 triangular-lattice Heisenberg antiferromagnet Ba3CoSb2O9”, Nat. Comm. 8, 235 (2017)
今後の期待
今後、マグノン-スピノン対の分数化現象を説明する理論研究や、Ba3CoSb2O9以外の量子磁性体で同じような新しい現象を探索する実験研究がさらに活性化することが期待できます。スピノンのタイプによっては、量子コンピュータなど将来的な技術革新の主役となることが期待されているものもあります。国際共同研究グループは、マグノン-スピノン対の分数化現象についての今後の実験および理論研究の活性化が、スピノンという新しい分数励起について確かな知見を蓄積していくことに貢献すると考えています。
原論文情報
- Y. Kamiya, L. Ge., T. Hong, Y. Qiu, D. L. Quintero-Castro, Z. Lu, H. B. Cao, M. Matsuda, E. S. Choi, C. D. Batista, M. Mourigal, H. D. Zhou, and J. Ma, "The nature of spin excitations in the one-third magnetization plateau phase of Ba3CoSb2O9", Nature Communications, 10.1038/s41467-018-04914-1
発表者
理化学研究所
主任研究員研究室 古崎物性理論研究室
基礎科学特別研究員 紙屋 佳知(かみや よしとも)
上海交通大学 物理天文学部
アシスタント・プロフェッサー ジエ・マ(Jie Ma)
報道担当
理化学研究所 広報室 報道担当
Tel: 048-467-9272 / Fax: 048-462-4715
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補足説明
- 1.三角格子反強磁性体
反強磁性相互作用をするスピンが三角格子上に配置した磁性体。反強磁性相互作用は(古典的には)スピンが互いに逆向きのときに最もエネルギーが下がるが、三角格子上では、構造上すべての相互作用エネルギーを同時に最小化することができない。このような特質をフラストレーションという。三角格子反強磁性体はフラストレート磁性体の典型例の一つである。 - 2.磁化プラトー相
外部磁場を増減させてもマクロな磁気モーメントが一定に保たれる相。その起源はさまざまだが、磁気励起が有限のエネルギーギャップを持つため、外部磁場を多少変化させてもその相が安定に保たれる。 - 3.マグノン−スピノン対の分数化現象
磁気秩序相の素励起であるマグノンが分数化励起のスピノンのペアの束縛状態として振る舞う現象。一次元スピン鎖を束ねたような擬一次元系では比較的よく知られた概念だが、量子スピン液体の候補物質などで新しく報告される実験事実を理解するため、より一般の量子スピン液体に拡張して、その近傍の量子効果の強い秩序相を記述する試みが続けられている。 - 4.フラストレート量子磁性体
三角格子反強磁性体のようなフラストレート磁性体のうち、強い量子効果が期待できるものをいう。一般に構成する磁性イオンのスピンが小さい。 - 5.スピノン
本来は量子スピン液体の素励起を指す。個々のスピノンは通常の磁気励起(マグノン)の半分のスピンしか持たないため、分数化励起と呼ばれる。必ずペアで生成され、スピノン対を無限に引き離せるかどうかはスピン系の状態を特徴付ける重要な指針の一つとされる。 - 6.中性子散乱実験
加速器または原子炉から放出された中性子をサンプルに当て、散乱された中性子を検出器で捕捉し、その運動量・エネルギーを詳しく解析する実験手法。対象物質の磁気励起についての詳しい情報を得ることができる。 - 7.非線形スピン波理論
磁気秩序相の素励起であるマグノンを記述する量子論は一般にスピン波理論とよばれ、そのうち、マグノン間の相互作用を考慮するものを非線形スピン波理論という。 - 8.スピン波励起(マグノン)
磁気秩序相のスピン構造の波のような揺らぎをスピン波といい、磁気秩序相の素励起である。スピン波を量子力学に従って記述したものをマグノンという。 - 9.磁気異方性
スピン間相互作用の大きさがスピンの各方向成分によって異なることを特徴づけるパラメータ。一般に結晶場の効果やスピン軌道相互作用によって生じる。 - 10.量子スピン液体
磁性体中の磁気モーメント(スピン)が絶対零度(約-273.15℃)でも秩序を持って整列しない新しい状態のこと。通常の磁性体では、スピンの間に働く相互作用が協調しあって、温度を下げると安定なスピン配列が形成される。しかし、スピン間相互作用が互いに協調せずに秩序形成が妨げられ、なおかつ、エネルギーが比較的近い、非常に多数の状態間の揺らぎが強い量子効果によって引き起こされるとき(量子揺らぎ)、スピンが互いに相関しつつも揺らぎ続ける液体的な状態として、量子スピン液体が実現することがある。 - 11.量子揺らぎ
量子力学の原理(不確定性原理)による系の状態の揺らぎ。一切の熱エネルギーが失われている絶対零度でも起こるので、熱揺らぎとは区別される。 - 12.量子相
量子効果が中心的な役割を担って安定化されている物質の相。三角格子の磁化プラトー相では、マグノンのゼロ点振動エネルギーがこの相を安定化させている。
図1 三角格子のフラストレーションとBa3CoSb2O9の磁化曲線
- (a) 反強磁性体の相互作用エネルギーは、古典的にはスピンが互いに逆向きのときに最も小さくなる。しかし、三角格子上では構造上すべてのスピンを互いに逆向きにすることはできず、どこかで妥協した配置しか実現できない。底辺のスピンが平行になっており(赤色の破線)、ここだけエネルギーが高い。
- (b) Ba3CoSb2O9は三角格子反強磁性体の理想的なモデル物質であり、磁場をかけると図に示すように磁化プラトー相が出現する。なお、磁化曲線が完全に平坦になっていないのは、主として軌道混成の効果(ヴァン・ヴレック常磁性)であり、副次的なものである。
図2 Ba3CoSb2O9の磁化プラトー相における中性子散乱実験(a)と非線形スピン波理論の解析(b)
明るいスポットがマグノンを示しており、理論が実験結果を非常によく再現していることが分かる。
図3 磁気励起スペクトルに異常をもたらす二つのシナリオの概念図
マグノン崩壊の現象(a)とマグノン-スピノン対の分数化現象(b)。bのシナリオでは、マグノンは分数化したスピノンの束縛状態に対応し、何らかの内部構造を持つことが予想される。