理化学研究所(理研)生命機能科学研究センター生体機能動態イメージング研究ユニットのジェン・イン リサーチアソシエイト、崔翼龍ユニットリーダーと健康・病態科学研究チームの渡辺恭良チームリーダーらの国際共同研究グループ※は、ラットで「プラセボ効果[1]」を再現し、偽薬(プラセボ)による鎮痛効果に前頭前皮質[2]のミューオピオイド受容体[3]が関与していることを明らかにしました。
本研究成果により、今後、心理活動だけで内在性の脳機能を活性化するプラセボ効果の作用機序を、動物実験で詳細に解析できる可能性があります。
患者に治療行為を行う際、実際には薬理作用のないプラセボを投与しても何らかの治療効果が得られる現象をプラセボ効果といいます。「プラセボに対する期待感」だけで治療効果が得られるプラセボ効果の作用機序には、高次元の心理活動による内在性の脳機能の活性化が関わっていると予想されます。しかし、その詳しい神経生物学的基盤はまだ解明されていません。
今回、国際共同研究グループは、「パヴロフの条件付け[4]」を利用してラットにプラセボ効果を再現し、陽電子放射断層撮影法(PET)[5]を用いてプラセボ効果に関わる脳内領域を同定することに成功しました。また、局所的に脳活動を操作する神経生理学的方法と組み合わせて、前頭前皮質のミューオピオイド受容体がプラセボ効果に深く関わっていることも明らかにしました。
本研究は、米国の科学雑誌『NeuroImage』9月号への掲載に先立ち、オンライン版(6月5日付け:日本時間6月6日)に掲載されました。
図 プラセボ効果に関わる脳領域をラットで観察
※国際共同研究グループ
理化学研究所 生命機能科学研究センター
生体機能動態イメージング研究ユニット
(旧 ライフサイエンス技術基盤研究センター 分子動態イメージング研究ユニット)
ユニットリーダー 崔 翼龍(さい よくりゅう)
リサーチアソシエイト ジェン・イン(Zeng Ying)
健康・病態科学研究チーム
(旧 ライフサイエンス技術基盤研究センター 健康・病態科学研究チーム)
チームリーダー 渡辺 恭良(わたなべ やすよし)
中国浙江大学医学部
教授 ジェン・クンリ(Zeng Qunli)
教授 ヨウ・ウエイ(Yang Wei)
※研究支援
本研究は、日本学術振興会(JSPS)科学研究費補助金挑戦的萌芽研究「小動物脳機能画像解析法を用いたプラセボ効果の神経生物学的機序の解明(研究代表者:崔翼龍)」および武田科学振興財団、上原記念生命科学財団の支援を受けて行われました。
背景
薬理作用のない偽薬(プラセボ)に対して、患者が治療効果を「期待する」だけで実際に何らかの治療効果が得られる現象を「プラセボ効果」といいます。ヒトを対象とした研究では、プラセボにより痛みの感覚が和らぐ効果(プラセボ鎮痛効果)についての研究が進んでいます。プラセボ鎮痛効果と脳機能の関連を調べる研究から、痛みの緩和の際に前頭前皮質、前帯状回[6]、中脳水道周囲灰白質[7]の一部の領域で神経活動が亢進すること、内因性の神経ペプチドであるオピオイド[3]やドーパミン神経系が関わることなどが報告されています注1,2)。
通常、このような高次元の心理活動を伴う脳機能の研究は、被験者に主観的な感覚を問いながら、機能的核磁気共鳴画像法(fMRI)[8]や陽電子放射断層撮影法(PET)などの非侵襲的脳機能イメージング技術を用いて、関連する脳活動領域を探索します。しかし、この手法では脳内の活動領域は同定できても、「プラセボに対する期待感」が、脳の「どこで」「どんな神経回路」を介して「どのような作用機序」により、最終的に内在性の脳機能を活性化するかといった詳しい神経基盤を明らかにすることは不可能でした。
一方、近年のイメージング技術の進歩により、これまでは難しかった小動物脳の解析が可能になり、マウスなどげっ歯類を用いた非臨床研究においても臨床データに匹敵する脳機能画像を得ることが可能になりました。またヒト以外の動物においては、「期待感」といった心理活動だけではなく、「パヴロフの条件付け」によりプラセボ効果が誘導されることが報告されています注3)。そこで、国際共同研究グループは、慢性的な神経障害性疼痛[9]を起こしたラット(神経因性疼痛モデルラット)を用いて小動物でのプラセボ鎮痛効果を再現し、その神経生物学基盤の解明を目指しました。
- 注1) Benedetti, F., Amanzio, M., Rosato, R., Blanchard, C., 2011. Nonopioid placebo analgesia is mediated by CB1 cannabinoid receptors. Nat. Med. 17, 1228–1230.
- 注2) Enck, P., Benedetti, F., Schedlowski, M., 2008. New insights into the placebo and nocebo responses. Neuron 59, 195–206.
- 注3) Herrnstein, R.J., 1962. Placebo effect in the rat. Science 138, 677–678.
研究手法と成果
ラットの足裏に一定以上の強さの機械的刺激を与えると、足を引っ込める動作を示します。正常な個体では強い刺激にしか反応しませんが、第5番、第6番の腰髄神経を片方だけ結索すると、障害を受けた側の後肢だけに慢性疼痛が生じ、正常では痛みと感じられない弱い機械刺激にも反応するようになります。これは、疼痛閾値(痛みを感じる刺激の最低強度)が低下するからです。一方、このラットに鎮痛薬を投与(腹腔内注射)してから刺激を与えると、疼痛閾値が元に戻ったことから、鎮痛薬の鎮痛効果が確認できました。
この鎮痛薬投与を4日間繰り返し与えた後、5日目にプラセボとして生理食塩水を投与したところ、有意な鎮痛効果を示す個体が現れました(図1)。この結果は、鎮痛薬の鎮痛効果(無条件刺激)と投与行為(条件刺激)が条件付けられ(パヴロフの条件付け)、プラセボによって疼痛を抑制する神経系が活性化されたことを示しています。
次に、プラセボ鎮痛効果に関わる脳領域を同定するため、プラセボ効果を示した個体と示さなかった個体の脳をPETで撮像し、脳の活動領域を比較しました。その結果、プラセボ鎮痛効果が認められたラットの対側[10]の前頭前皮質内側部(mPFC)[2]などの領域において、神経活動が上昇することが分かりました(図2)。げっ歯類のmPFCは、霊長類の背外側前頭前皮質[2](dlPFC)と相同な(発生起源が同じ)部位であると考えられており、ヒトを対象とした研究から、dlPFCはプラセボ効果における予測や期待感に関与することが報告されています注4)。
そこで、mPFCの役割をさらに詳しく解析するため、薬剤投与によりmPFCを局所的に破壊したラットを条件付けしてプラセボを投与したところ、プラセボ鎮痛効果は見られなくなりました。また、ミューオピオイド受容体の拮抗阻害剤を投与すると、mPFCと痛みの制御に深く関わる腹外側中脳水道周囲灰白質(vlPAG)の機能的結合[11]が低下することや、プラセボ鎮痛効果が遮断されることも分かりました。これらの結果から、パヴロフの条件付けによるプラセボ鎮痛効果は、mPFCのミューオピオイド受容体の制御を受けることが初めて明らかになりました。
- 注4) Wager, T.D., Rilling, J.K., Smith, E.E., Sokolik, A., Casey, K.L., Davidson, R.J., Kosslyn, S.M., Rose, R.M., Cohen, J.D., 2004. Placebo-induced changes in FMRI in the anticipation and experience of pain. Science 303, 1162–1167.
今後の期待
プラセボ効果は、心理活動だけで内在性の生体機能を活性化する代表的な現象です。プラセボ効果を合理的に活用することで、治療効果の向上や投薬容量の軽減による薬物副作用・耐性の予防につながると期待できます。
今回、小動物のラットでヒトのプラセボ効果の再現と解析に成功したことから、今後は遺伝子改変動物など特定の神経回路を選択的に制御できる遺伝子工学的な手法と組み合わせることでプラセボ効果の全貌を明らかにし、心による脳・身体機能の相互作用の基本原理の理解を目指します。
原論文情報
- Zeng Y., Hu D., Yang W., Hayashinaka E., Wada Y., Watanabe Y., Zeng Q. Cui, Y.L., "A voxel-based analysis of neurobiological mechanisms in placebo analgesia in rats", NeuroImage, 10.1016/j.neuroimage.2018.06.009
発表者
理化学研究所
生命機能科学研究センター 生体機能動態イメージング研究ユニット
ユニットリーダー 崔 翼龍(さい よくりゅう)
リサーチアソシエイト ジェン・イン(Zeng Ying)
生命機能科学研究センター 健康・病態科学研究チーム
チームリーダー 渡辺 恭良(わたなべ やすよし)
お問い合わせ先
理化学研究所 生命機能科学研究センター センター長室 報道担当
山岸 敦(やまぎし あつし)
Tel: 078-304-7138 / Fax: 078-304-7112
報道担当
理化学研究所 広報室 報道担当
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補足説明
- 1.プラセボ効果
薬理作用のない偽薬(プラセボ)に対する「期待感」によって、何らかの治療効果が現れる現象。プラセボ効果は意識を伴う「期待感」だけでなく、意識下のパヴロフの条件付けによっても現れる。 - 2.前頭前皮質
大脳皮質のうち、前頭部に位置する領域。前頭前皮質内側部(mPFC)、背外側前頭前皮質(dlPFC)、眼窩前頭皮質(OFC)などの領域に細分化される。主に高次元の実行機能に関与している。 - 3.ミューオピオイド受容体、オピオイド
オピオイドは、モルヒネ様の活性を持つ脳内の内因性の生理活性物質であり、そのオピオイドの受容体の一つにミューオピオイド受容体がある。ミューオピオイド受容体はGTP結合タンパク質と共役する7回膜貫通型受容体で、鎮痛作用に関連している。 - 4.条件付け
刺激に対する行動や反応を、特定の条件と結びつけること。ロシアの生理学者パヴロフは、音などの本来は中立的な刺激(条件刺激)を食べ物など意味のある刺激(無条件刺激)に先立って繰り返し与える(条件付け)ことで、条件刺激だけで無条件刺激と同じ反応(唾液の分泌など)が現れることを発見した。この条件付けを「パヴロフの条件付け」あるいは「古典的条件付け」と呼ぶ。 - 5.陽電子放射断層撮影法(PET)
PETは、陽電子を放出する陽電子放出核種(放射性同位体の一種)をプローブとして、生体内のプローブ分布を画像化する手法。陽電子放出核種またはその陽電子放出核種で標識したPETプローブを体内に注入し、その集積を非侵襲的に(体を傷つけずに)3次元画像化し定量することができる。グルコース(ブドウ糖)の一部をフッ素の放射性同位体である18Fに変換したフルオロデオキシグルコース(FDG)をプローブにするPET検査をFDG-PETと呼び、糖代謝イメージングに用いられる。本研究では、脳内の神経細胞の糖代射レベルを定量解析するFDG-PETと、ボクセルごとに実験群間の統計的な有意差を検出可能な脳機能画像解析法[Statistical Parametric Mapping(SPM)解析法]を組み合わせ、げっ歯類動物の深部脳領域まで網羅した全脳領域において、神経活動領域を網羅的に探索した。PETはPositron Emission Tomographyの略。 - 6.前帯状回
大脳半球内側面に広がる帯状回のうち、前方部の領域。痛みの刺激により活性化される。 - 7.中脳水道周囲灰白質
中脳内部の中脳水道周囲に広がる細胞集団。痛覚抑制機能を担う。 - 8.機能的核磁気共鳴画像法(fMRI)
核磁気共鳴画像法(MRI)を利用して、脳の局所的な神経活動の高まりを血流動態反応で視覚化する方法の一つ。 - 9.神経障害性疼痛
神経が傷ついたり圧迫を受けたりすることで過敏になり、慢性的な痛みや、痛み刺激への過反応が生じた状態。 - 10.対側
対になった体の各部位のどちらかに実験操作を行った際、処置した側を同側、行わなかった側を対側と呼ぶ。ただし、腰髄神経は脊髄で交差して脳に信号を伝えるので、左の腰髄神経を結索すると、脳で直接的な影響を受けるのは対側の右側になる。 - 11.機能的結合
脳の異なる領域間の活動が正または負に相関することが観察された場合、それらの領域は機能的に結合していると表現される。機能的結合は、神経がつながっていない(解剖学的に結合していない)領域間でも見られる。
図1 パヴロフの条件付けによるプラセボ鎮痛効果
- 上) プラセボ条件付けの実験デザイン。
- 下) 25匹の神経因性疼痛モデルラット(25匹、一つの点が1匹の疼痛閾値を現す)は、後肢への機械刺激に対する疼痛閾値が著しく低下するため、弱い機械刺激でも足を引っ込める(痛みの反応を示す)。7日後から鎮痛薬を4日間連日投与し、さらに11日目にプラセボ(偽薬)として生理食塩水を投与すると、一部の動物において鎮痛薬で見られる疼痛閾値の回復が認められる。
図2 プラセボ効果に関わる脳領域
- 上) プラセボ条件付けとPETを組み合わせた実験デザイン。脳の局所的な活動を捉える糖代謝イメージングとして一般的に用いられるフルオロデオキシグルコース(FDG)をPETプローブとして用い、プラセボ投与から機械刺激に対する反応までの脳活動を反映したPET撮像を行った。
- 下) プラセボ効果を示した個体で機能的な結合が見られた、前頭前皮質腹内側部(mPFC)に含まれる前辺縁皮質(PrL)と腹外側中脳水道周囲灰白質(vlPAG)。ラット脳のFDG-PETイメージングより、垂直断面像を示す。スケールバーは3mm。