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理研酒 ─ 合成酒の発明と事業化の成功

理研の創立期から研究をけん引し、後に最初の主任研究員の一人として活躍した鈴木梅太郎(1874-1943)は、米騒動をきっかけに、原料に米を使わない合成清酒の開発に着手。独自の製造法を発明し、“理研酒”として「利久(りきゅう)」などのブランド名で販売した。記念史料室に保存されている当時の決算書類をひもとくことで、理研酒は理研の名を世に知らしめただけでなく、事業としても大成功を収めていたことが裏付けられた。

左:合成酒を前にする鈴木梅太郎と右:鈴木梅太郎(「利久」の酒だるの前で)の写真 左:合成酒を前にする鈴木梅太郎/右:鈴木梅太郎(「利久」の酒だるの前で)

米不足が後押しした合成酒開発

米騒動が起きた1918(大正7)年は、理研が創立された翌年、第一次世界大戦が終了した年だ。その年の初めに1石(約180リットル)15円だった米価は、半年余りで50円にまで高騰。当時の食生活は米中心だったため全国規模の暴動に発展した。

ビタミンB1の発見で知られる鈴木梅太郎は、米騒動の翌年、原料に米を使わない合成酒“理研酒”の製造法の研究を、加藤正二らに指示した。1922(大正11)年の新聞記事によると、清酒の原料としての米の消費量は約400万石で、米の年間生産量の7~8%を占めていた。米を使わない理研酒の研究は、理研の科学力で食糧問題の解決を目指したものだった。

まず、でんぷんにアミノ酸を加えて発酵させ、アルコールや調味料を混合する「発酵法」を開発した。しかし、発酵法でつくられた理研酒は、まずくてとても飲める代物ではなかった。そこで、清酒を化学的に分析してアミノ酸、糖類、コハク酸などの成分とその比率を突き止め、それらを糖蜜やイモなどからつくったアルコールに配合する「純合成法」の研究を進めた。

純合成法の大きな課題は、味の決め手となる高価なコハク酸を安価に製造することだった。1924(大正13)年に、その製造法の開発に成功したのが、藪田貞治郎や下瀬林太らだった。さらに1930(昭和5)年、発酵法と純合成法を組み合わせた「理研式発酵法」を開発して、薬臭さの改善に成功した。それ以降、合成酒に米の使用が許可される1951(昭和26)年まで、理研式発酵法が合成酒の製造法の主流となり、「理研酒」は合成酒の代名詞となった。

左:加藤正二、中央:下瀬林太、右:藪田貞治郎の写真 左:加藤正二/中央:下瀬林太/右:藪田貞治郎

普及・事業化の紆余曲折

理研酒は清酒に比べて価格が安いというセールスポイントがあったが、その普及は一筋縄ではいかなかった。1921(大正10)年、理研は製造法の特許を取得。その特許実施権を得た大和醸造㈱は1923(大正12)年、理研から提供された原料で理研酒を製造して、東京向けに「新進」、東京以外の地域向けに「如楓(にょふう)」のブランド名で販売を開始した。しかし、この年の9月に起きた関東大震災で同社の工場は壊滅的な打撃を受けてしまった。

このままでは理研酒の普及は難しい、と考えた理研の大河内正敏所長は、理研で製造することを決断し、理研構内に工場を建設した。そして1928(昭和3)年、陸海軍向けに「祖國(そこく)」、一般向けに「利久」のブランド名で、理研の事業会社である理化学興業(株)から販売を開始した。

陸海軍向けに販売を始めたことが、理研酒の普及に大きく貢献したと想像される。1929(昭和4)年、「利久」は帝国発明協会の特等賞を受賞。さらに同年、糧友会(陸軍省・内務省・農林省が中心となって設立された食糧問題の研究機関)主催の食糧展覧会で、出展した「利久」は高く評価され表彰状が贈られた。

左:「利久」を紹介した『理研コンツェルン月報』1940年6月号の記事、中央:「祖國」ののぼり、右:食糧展覧会から理研に贈られた表彰状の写真 左:「利久」を紹介した『理研コンツェルン月報』1940年6月号の記事/中央:「祖國」ののぼり/右:食糧展覧会から理研に贈られた表彰状

ただしこの時点では、理研酒の特許実施権は大和醸造にあったため、理研は理研酒のさらなる普及を目指して特許実施権返還の交渉を進めた。理研が大和醸造へ特許権実施許諾報酬の25%を支払うことで1935(昭和10)年に交渉成立、理研は特許実施権を取り戻した。翌年、理研は複数社に特許実施権の供与を開始し、理研酒の普及をさらに加速させた。1943(昭和18)年には、47社52工場で理研酒が製造され、30を超えるブランド名で販売されるに至った。

決算書類から裏付けられた理研酒の成功

大河内所長は研究成果を社会に還元するさまざまな事業化に力を入れ、最盛期の1939(昭和14)年ごろには63社・121工場から成る理研コンツェルン(1940年、理研産業団に改称)と呼ばれる企業集団が形成された。

当時の理研は、基礎研究を行う研究部と、その研究成果に基づく製品をつくる作業部に分かれていた。理研酒は理研内の作業部で製造されたものと、特許実施権に基づき所外の醸造会社が製造したものがあった。二つのルートにより、理研酒が急速に普及していったことが、理研酒関連の特許権実施許諾報酬や作業部収入の推移から裏付けられる。

左:理研酒関連の特許権実施許諾報酬の推移(1937~41年度)、右:理研酒関連の作業部収入の推移(1937~41年度)のグラフ 左:理研酒関連の特許権実施許諾報酬の推移(1937~41年度)/右:理研酒関連の作業部収入の推移(1937~41年度)

1940年度を見ると、理研全体の特許権実施許諾報酬のうち理研酒が7%、作業部収入では実に43%を理研酒が占めていた。理研の事業の中でも理研酒が大きな存在感を放っていたことが分かる。理研酒は米不足問題の解決に貢献するとともに、事業としても大いに成功したといえる。さらに、理研酒の特許権実施許諾報酬や作業部の収益は理研の基礎研究を支えた。

左:理研の特許権実施許諾報酬の内訳(1940年度)、右:理研の作業部収入の内訳(1940年度)のグラフ 左:理研の特許権実施許諾報酬の内訳(1940年度)/右:理研の作業部収入の内訳(1940年度)

戦後、財団法人だった理研が解散し、株式会社科学研究所となった時代にも、「酒博士」として知られた坂口謹一郎らが理研酒や発酵化学の研究を続けた。

「利久」ブランドは今なお、健在で、アサヒビール㈱から販売されている。

(取材・構成:立山 晃/フォトンクリエイト)

『RIKEN NEWS』2019年5月号より転載

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