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理研の創設に尽力した桜井錠二

明治維新から半世紀、第一次世界大戦中の1917(大正6)年、財団法人理化学研究所は創設された。その創設に高峰譲吉、渋沢栄一らとともに多大な貢献を果たしたのが、日本近代化学の礎を築いた桜井錠二である。桜井はどのような想いで、理研の創設に奔走したのか(敬称略)。

記念写真 桜井錠二(1858-1939、右から4人目) 記念史料室が所蔵する写真には、桜井とともに明治・大正時代に科学・産業など多様な分野で時代をけん引した名士が名を連ねている。

加賀藩校からロンドン大学留学へ

1858(安政5)年、桜井錠二は加賀藩士桜井甚太郎と八百(やお)の六男として生まれた。5歳になる年に父を亡くしたが、母の支えによって七尾語学所で英語を学んだ後、1871(明治4)年に大学南校(東京大学の前身)に入学した。さらに1876~81(明治9~14)年にはロンドン大学へ国費留学し、有機化学の大家であるアレキサンダー・ウィリアムソン(Alexander W. Williamson、1824-1904)に師事した。ちなみに桜井の本名は"錠五郎"であるが、ロンドン大学留学の際、欧米人向けに"ジョージ(錠二)"と改名した。

ウィリアムソンは、1863(文久3)年に伊藤博文、井上馨ら長州藩士が密航しロンドン大学で学んだときに、彼らの世話をした人物でもある。また明治の初めには、ウィリアムソンが推薦に関与した多くの科学者が教師として来日した。このことは、「わが国学界のためには非常なる幸せであったのであります」と桜井は述べている。彼らが「いずれも新進有為の学者ぞろい」で、熱心に指導に当たったからである。桜井自身も留学前に、ウィリアムソン門下のロバート・アトキンソン(Robert W. Atkinson、1850-1929)に基礎化学を学んでいる。彼らによって「独創的研究の種子はすでにわが国土にまかれていた」と桜井は指摘している。

彼ら外国人教師たちの後を受け継ぎ、後進の指導に当たったのが、桜井らである。桜井は、英国から帰国した翌年、1882(明治15)年に24歳で東京大学教授に就任。以後、日本の化学界をリードし、池田菊苗ら多くの門下生を輩出した。

明治後期になると、日本で2番目の大学として1897(明治30)年に京都帝国大学が誕生したのを皮切りに、各帝国大学や私立大学などが設立されていった。しかし、これら高等教育機関の貢献が「ほとんど全部欧米諸国における発見・発明の移植・模倣にかかる貢献にすぎないことを自覚せざるを得ないのであります」と無念の想いを桜井は述べている。そもそも独創的研究をしようにも、日本を代表する東京帝国大学の物理学教室や化学教室においてすら、「研究費は皆無であると言ってよろしい」状況だったという。明治の初め、外国人教師らによってまかれた独創的研究の種子は、「模倣万能の時勢に抑圧せられて明治時代にはその種子はほとんど発芽するに至らずしてやんだのであります」と桜井は断じている。

模倣からの脱却を目指して

1913(大正2)年、転機が訪れた。この年、高峰譲吉が米国から一時帰国した。高峰は米国において消化酵素「タカヂアスターゼ」の開発や、アドレナリンの分離・精製に成功し、世界的に知られていた化学者である。高峰は桜井と同じ加賀藩出身、七尾語学所の同窓でもあり、以前からの友人であった。高峰は築地精養軒において、農商務省の大臣ら政官財の要人約150名の前で、産業に結び付く独創的研究を推進するための「国民科学研究所」設立の必要性について演説した。

この提案にいち早く賛同したのが、財界の重鎮である渋沢栄一と、桜井であった。二人は米国へ戻った高峰の後を受け継ぎ、理研創設へ向けた動きを一貫してリードした。「資金の調達は故渋沢子爵主としてこれに当たり、また事業の計画は不肖主としてこれに当たることとなりまして」と後年、桜井は振り返っている。この間、1914(大正3)年に第一次世界大戦が勃発し、欧州からの医薬品や工業原料の輸入が途絶えた。このことが、独創的研究に基づく自立的な産業発展の必要性を広く認識させ、理研の創設を後押しした。1917(大正6)年に創設された理研において、渋沢は副総裁、桜井は副所長に就任した。やがて桜井らの志を受け継ぎ、第3代所長に就任した大河内正敏によって、理研は大きく発展していく。

受け継がれる"独創的研究の種子"

1927(昭和2)年には、桜井錠二の五男、桜井季雄が、理研の研究員として紫紺色の陽画感光紙を発明した。この発明は、現在の株式会社リコーの前身である理研感光紙株式会社の設立につながった。1937(昭和12)年、創設から20年の理研の歩みを桜井錠二は次のように述べている。

「同研究所が学術上・産業上いかに大なる貢献をなしつつあるかは私より申し上げるまでもないところでありますが、一つ申し上げたいのは理化学研究所の設立により、有為有能なる幾多の新進学者が初めて一意専心独創的研究に没頭することができるようになったことでありまして、同所の設立はわが国における学術の発達に重大なる意義を有するものと考えられるのであります」

『RIKEN NEWS』2004年5月号掲載「記念史料室から」より転載

出典・参考資料
桜井錠二「日本に於ける学術の発達」(昭和12年10月30日の講演録、財団法人啓明会第78回講演集に収録)※引用にあたり、仮名遣い等を改めた。

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