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中谷宇吉郎とチャールズ・ウィルソン

「雪の結晶」で有名な中谷宇吉郎(1900~1962年)と、「霧箱」の発明により1927年にノーベル物理学賞を受賞したチャールズ・ウィルソン(1869~1959年)。2007年4月、英国でウィルソンのお孫さんから中谷ゆかりの品を受け取った。ゆかりの品は、中谷がウィルソンへあてた76年前の手紙(1931年12月)と、中谷家の家族写真(1934年11月、札幌にて撮影)の二品(写真1)。霧箱を通じた二人の交流がよみがえる。

中谷宇吉郎の家族写真とウィルソンにあてた手紙の写真 中谷宇吉郎の家族写真(左)とウィルソンにあてた手紙(右)

理研時代の中谷宇吉郎

中谷宇吉郎が理研の助手として研究に従事していたことをご存知だろうか?中谷は1925年に東京帝國大學(現・東京大学)を卒業後、理研寺田寅彦研究室の助手となり、火花放電に関する研究を行っていた。その後、文部省在外研究員として、1928年4月から1年間、英国に留学することになる。留学先は、熱電子の研究で1928年にノーベル物理学賞を受賞したキングスカレッジのオーエン・リチャードソンの研究室である。その間、数回にわたりウィルソンを訪れては、寺田研で行っていた研究について指導を受けていた。

「霧箱」は、"電子線やアルファ線などの電気を持った放射線の飛跡を観測するための装置"というイメージが強いが、そもそもこの装置は、人工的に雲をつくるために考案された装置というところが面白い。霧箱の中にイオンをつくる目的で放射線を入れたら、放射線の飛跡が観測できることが分かり、霧箱は原子物理学、原子核・素粒子物理学の重要な装置として君臨することになる。中谷は、理研在籍時代に電気火花の形についての研究を行っており、放電時に放出される紫外光を写真に撮って放電現象の研究をしていた。留学直前には、寺田の助言もあって、紫外光を出す前の段階でのイオン化作用の様子を、霧箱で観測することを試みていた。中谷は帰国後、北海道大学の助教授となるが、山崎文男(後に理研仁科芳雄研究室を継承し、放射線研究室を主宰)と共同研究を行って、1934年に世界で初めて電気放電の霧箱写真を撮ることに成功した。この業績によって、気体の絶縁破壊の研究が飛躍的に進んだ。

海を越えて続いた交流

帰国後も中谷はウィルソンと交流を続けている。今回、英国から持ち帰った手紙は1931年のもので、北大での講義で忙しい様子と、結婚して幸せに暮らしていることがつづられている。その後も中谷は霧箱による放電観測の成功をウィルソンに逐次報告していたようで、中谷の随筆によれば、ウィルソンが中谷らの研究成果の紹介や論文校正を助けてくれたようだ。1934年から36年の間に、中谷の論文が『Nature』と『Proceedings of the Royal Society』に合わせて3本掲載されており、1934年の家族写真は、感謝の気持ちと家族の紹介を兼ねて、中谷からウィルソンに贈られたに違いない。

さて、持ち帰った中谷ゆかりの品は、2007年5月10日に理研の和光キャンパスで中谷の次女、中谷芙二子さんらの立ち会いのもと、無事に「中谷宇吉郎雪の科学館」(石川県加賀市)の神田健三館長の手に渡り、正式に寄贈された(写真2)。たまたま芙二子さんを茅幸二(かや・こうじ)所長(理研中央研究所)のところまでお連れしたときの、茅所長の驚きを今も思い出す。お二人の父親の代から、中谷家と茅家は家族同士のお付き合いがあるとのこと。この日は、タイムマシンに乗って約70年前を旅することができた。

どういう経緯で中谷ゆかりの品を持ち帰ることになったのか?誌面の都合でその経緯は書けないが、結論から言えば「ご縁」だったとしか言いようがない。詳細は立ち話やお酒の席で。なお、ゆかりの二品は、2007年6月21日から9月4日まで「雪の科学館」で展示された。

矢野安重 仁科加速器研究センター長、筆者、神田健三 中谷宇吉郎雪の科学館長、中谷芙二子さんの写真 左から、矢野安重 仁科加速器研究センター長、筆者、神田健三 中谷宇吉郎雪の科学館長、中谷芙二子さん

(執筆:櫻井RI物理研究室 主任研究員 櫻井博儀)

『理研ニュース』2007年10月号「記念史料室から」より転載。組織・機関名および肩書などはすべて初出掲載当時のもの。

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