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2010年8月11日

独立行政法人 理化学研究所

固体表面上の分子1つ1つの性質を調べる新手法を確立

-次世代ナノテクノロジーの基礎となる1分子の化学分析法を開拓-

ポイント

  • 走査型トンネル顕微鏡によって誘起される分子の運動・反応の様子を理論的に予測
  • 実験データと理論予測を比べ、「分子の指紋」の情報を読み取る
  • アクションスペクトル測定で固体表面上の分子1つ1つがどんな分子であるかを判別

要旨

独立行政法人理化学研究所(野依良治理事長)は、走査型トンネル顕微鏡(STM)※1によって誘起される分子の運動・反応の様子を予測する理論を整備し、固体表面上の分子1つ1つの性質を示す「分子の指紋」を調べる手法を世界で初めて確立しました。これは、理研基幹研究所(玉尾皓平所長)表面化学研究室の本林健太研修生、川合真紀元主任研究員(現理事)、Kim表面界面科学研究室の金有洙准主任研究員、国立大学法人富山大学工学部の上羽弘教授らによる研究成果です。

シリコンに代わる次世代デバイスの1つとして、単一分子を構成要素として用いる「分子ナノデバイス」が提案されています。分子ナノデバイスを構築するためには、分子1つ1つを「見る」、「動かす」、「組み立てる」ことが必要となります。個々の分子を「見る」ことができる最も強力な装置がSTMです。しかしSTMでは、分子を凹凸として見ることしかできず、どんな分子であるかを判別する「化学分析」はできませんでした。そのため、STMを応用して分子1つ1つを化学分析する手法の開発に世界中が挑戦してきました。

研究チームの長年にわたる研究によって、STMから固体表面上の吸着分子に電子を注入したときに起きる分子の運動や反応の様子と、それぞれの分子に固有な「分子の指紋」、すなわち分子振動※2のエネルギーとの間に、密接な関係があることが分かってきました。研究チームは、この両者の関係性を一般的な理論として構築することに成功し、この理論を応用して個々の分子の運動・反応速度の測定結果を解析することで、分子振動のエネルギーを正確に求めることができる「アクションスペクトル※3測定法」という手法を確立しました。固体表面上の分子1つ1つを化学分析することが可能となるこの手法は、次世代ナノテクノロジー、特に分子ナノデバイスの組み立て技術を開拓するための、大きな一歩となります。

本研成究果は、文部科学省科学研究費補助金・特定領域研究「プローブ顕微鏡を用いた単分子スペクトロスコピー」(代表者: 川合真紀)の一環として進めてきたもので、米国の科学雑誌『Physical Review Letters』(8月13日号)に掲載されるに先立ち、オンライン版(8月11日付け:日本時間8月12日)に掲載されます。

背景

コンピューターに使われるシリコンデバイスの性能の進歩は、十数年後に物理的な限界を迎えるといわれており、シリコンに代わる次世代デバイスの研究が世界中で進められています。その1つとして、機能を持たせた単一分子を構成要素として用いる「分子ナノデバイス」が提案されています。分子ナノデバイスを構築するためには、分子1つ1つを「見る」、「動かす」、「組み立てる」ことが必要となります。これらを実現することができると予想される最も有力な実験装置が、分子1つ1つを「見る」ことができるほどの優れた空間分解能を持つ、走査型トンネル顕微鏡(STM)です。STMの優れた空間分解能は、ナノメートル(1nm:10億分の1メートル)スケールまで近付けたSTM探針と試料表面の間に電圧をかけた時に流れるトンネル電流が、2つの物体の間の距離に大きく依存することに由来しています。従って、STMは試料表面上の分子を凹凸としてとらえることはできますが、どんな分子であるかを判別する「化学分析」はできませんでした。そのため、STMを応用して分子1つ1つを化学分析する手法の開発に世界中が挑戦してきました。

分子それぞれには、「分子の指紋」と呼ばれる固有な分子振動のエネルギーがあります。そのため、個々の分子の振動エネルギーを計測する「振動分光法」が実現すると、計測対象の化学分析が可能となります。STMは、固体表面上に吸着した分子に対して一定のエネルギーを持った電子を注入し、分子1個の振動を励起できることが知られています。これまで、振動が励起しても分子が表面上で動かない安定な分子に対しては、STMを用いて化学分析する手法はありましたが、振動励起によって動いてしまう不安定な分子に対しては、適用できる計測手法がありませんでした。

研究チームは、この「振動励起によって動いてしまう」ことを逆手にとって、分子の動きの傾向から分子の振動エネルギーを読み取る新たな振動分光手法「アクションスペクトル測定」の可能性を実験的に検討してきました。この手法は、注入する電子のエネルギーを大きくしながら分子の運動・反応の速度を計測すると、振動エネルギーと等しくなったときに反応速度が上昇することを利用しています。この手法を一般的に使える振動分光手法として確立するためには、①反応速度のゆるやかな上昇から、振動に対応するエネルギーをどう正確に読み取るか、②実験上必然的に含まれる大きなノイズの中から、いかに分子振動によるシグナルを見分けるか、という2つの大きな課題を解決する必要がありました。

研究チームは、分子の運動・反応の速度を反映した一般的な式を理論的に構築し、この式を応用した実験データの解析手法を開発することで、2つの大きな課題を解決し、アクションスペクトル測定を実用的な単一分子振動分光手法として確立することに取り組みました。

研究手法と成果

(1)反応速度の定式化

研究チームは、任意のエネルギーを持ったトンネル電子を、STMの探針から固体表面上の吸着分子に注入した際の分子の反応速度(分子の運動の場合は運動速度)を、反応速度論の考え方を用いて定式化しました。特定の分子振動が一段階励起された状態からの反応速度(図1(a))の式を拡張し、特定の振動が二段階以上励起されている状態からの反応速度(図1(b))や、複数の分子振動が励起されうる場合の反応速度(図1(c))なども表現できる、汎用的な反応速度の式を構築しました。分子振動の寿命などから振動エネルギーが有限の幅を持つことも簡単な近似を用いて表現しました。

(2)アクションスペクトル測定の解析手法の確立

研究チームは次に、STMで測定したアクションスペクトルに対して、構築した反応速度の式をカーブフィッティング※4することで、実験データを解析する手法を確立しました。最適なカーブフィッティングの曲線が決まると、フィッティングパラメータである①分子の振動エネルギー、②1回の反応に必要なトンネル電子の数、③反応速度定数、④分子振動のエネルギー幅、の最適値が決まり、これら4つの物理量を算出することができます。実際にパラジウム(Pd)表面上に吸着した一酸化炭素(CO)分子の拡散運動(図2)とcis-2-ブテンの回転運動(図3)のスペクトルが、構築した反応速度の式によって非常によく再現されることを確かめました。

(3)アクションスペクトル測定の解析手法の特長

アクションスペクトル測定法にカーブフィッティングを用いた解析法を組み込むことによって、これまで経験的に見積もっていた分子振動のエネルギーを論理的に、しかも精度良く求めることができるようになりました。ノイズに埋もれてしまうような小さな信号も、カーブフィッティングがうまくできるかどうかで、分子振動に由来するものかどうかを確実に判別することができます(図4)。この解析手法の特徴は、どんなスペクトルでも再現・解析することができる「汎用性」と、計算量が少ないために個人用のパソコンでも実行できる「実用性」を兼ね備えていることです。また、分子の振動エネルギーだけでなく、1回の反応に必要なトンネル電子の数、反応速度定数、分子振動のエネルギー幅など、反応のメカニズムを知る上で重要な情報も得ることができ、学術的に信頼度の高い手法といえます。

今後の期待

今回の研究成果は、STMを用いたアクションスペクトル測定法という、実用的な単一分子の振動分光手法を確立するものです。これにより、固体表面上の分子1つ1つを同定する化学分析が可能となり、分子ナノデバイスの作成技術をはじめとした、次世代ナノテクノロジーの発展に貢献することが期待できます。また、化学反応のメカニズムの理解にも大きな威力を発揮し、触媒反応機構の全容解明に向けた研究への応用も期待されます。

発表者

理化学研究所
基幹研究所 Kim表面界面科学研究室
准主任研究員 金 有洙(きむ ゆうす)
Tel: 048-467-4073 / Fax: 048-462-4663

報道担当

理化学研究所 広報室 報道担当
Tel: 048-467-9272 / Fax: 048-462-4715

補足説明

  • 1.走査型トンネル顕微鏡(STM)
    先端を尖がらせた針(探針)を、サンプルの表面をなぞるように走査して、その表面の状態を観察する顕微鏡。金属探針とサンプル間に流れるトンネル電流を検出し、その電流値を探針とサンプル間の距離に変換させ画像化する仕組み。
  • 2.分子振動
    分子を構成する原子間の距離や角度などが一定の周期で変化すること。量子力学によれば、この振動の周期は量子化されており、とびとびの値をとる。つまり分子の状態は、振動していない基底状態、振動が一段階励起された状態、二段階励起された状態、などをとる。従って、振動が励起するために必要なエネルギー「振動エネルギー」もとびとびの値を持っている。各分子に固有な振動エネルギーが存在するため、「分子の指紋」ともいわれる。
  • 3.アクションスペクトル
    STMの探針を測定対象の分子の直上で固定し、特定の電圧をかけた際に流れるトンネル電流を測定する。この時、分子の運動や反応が起きると、一定だったトンネル電流が突然減少したり増加したりする。この測定を数十回繰り返し、トンネル電流を流し始めてから運動・反応が起きるまでの時間の平均から反応速度を求める。この反応速度の測定を、STMにかける電圧(トンネル電子のエネルギーに相当)を変えながら繰り返す。こうして得た「1電子あたりの反応確率」の形で規格化した反応速度を、トンネル電子のエネルギーに対してプロットしたグラフを、アクションスペクトルと呼ぶ。
  • 4.カーブフィッティング
    曲線あてはめ。実験データに対して最もよくあてはまるような曲線を求めること。実験データを表現する式(関数)に含まれるいくつかの定数(フィッティングパラメータ)を最適化することにより、最もよく当てはまる曲線を求めることが多い。求められた最適なフィッティングパラメータには意味があり、測定対象の特定の性質を反映している。
分子振動の励起と反応速度の対応関係の模式図の画像

図1 分子振動の励起と反応速度の対応関係の模式図

左図は、横軸に分子を構成する原子の原子間距離(r)、縦軸に分子の内部エネルギー(E)をとった分子振動を示す模式図。中央図は、横軸にトンネル電子のエネルギー(V)、縦軸に規格化した反応速度の対数(logY)をとった反応速度を示す模式図。点線の位置を境に反応速度が大きくなっており、この位置が振動エネルギーに対応する。本研究では、以下の場合のすべての組み合わせにおける反応速度を1つの式で表現できるようにパラメータを設定した。

(a)トンネル電子(e)が特定の分子振動を一段階励起した結果起こる反応の場合。分子振動に対応するエネルギー(Ω1)を境に反応速度が大きくなる。

(b)トンネル電子が特定の分子振動を二段階励起した結果起こる反応の場合。振動の二段階励起にはトンネル電子が二個必要である。一段階励起した場合と同様、分子振動に対応するエネルギー(Ω1)を境に反応速度が大きくなる。ただし、大きくなる様子は一段階励起した場合とは異なる

(c)トンネル電子が複数の分子振動を励起でき、それぞれが同じ反応を引き起こす場合。トンネル電子のエネルギーによって励起できる分子振動が異なる。それぞれの分子振動が励起した場合の反応速度(中央図)を足したものが、実験で観測される見かけの反応速度(右図)となり、それぞれの分子振動に対応するエネルギー(Ω2, Ω3)で反応速度の上昇が観測される。

Pd(110)表面上のCO分子の拡散運動のアクションスペクトルの図

図2 Pd(110)表面上のCO分子の拡散運動のアクションスペクトル

(a)拡散運動前後のSTM像。白い輝点で示したCO分子が移動していることが分かる。

(b)-(d)実験データにカーブフィッティングを用いた解析法を適用した結果。縦軸の一電子あたりの反応確率、横軸のサンプル電圧はそれぞれ、反応速度とトンネル電子のエネルギーに相当する。黒い曲線が実験データをうまく再現する最適なフィッティング曲線。ほかの曲線はそれぞれ、(b)振動エネルギー(Ω)、(c)速度定数(K)、(d)振動のエネルギー幅(γ)、の3つのフィッティングパラメータを変化させたときの、曲線の形状の応答をシミュレーションしたもの。それぞれ、応答の仕方がまったく異なることが分かる。このことは、最適なフィッティング曲線を与えるパラメータの組がただ1つ決まることを示している。

Pd(110)表面上のcis-2-ブテン分子の回転運動のアクションスペクトルの図

図3 Pd(110)表面上のcis-2-ブテン分子の回転運動のアクションスペクトル

(a)回転運動前後のcis-2-ブテン分子のSTM像と吸着構造の模式図。ひょうたん型の白い輝点がcis-2-ブテン分子。STM像では、やや高くなっている末端のメチル基が、最も明るく見えている。格子の交わる点が基板のPdの原子位置を示している。赤丸で示したPd原子を中心として、cis-2-ブテン分子が回転している様子が分かる。

(b),(c)回転運動のアクションスペクトルの実験データと、カーブフィッティングの結果。(b)はcis-2-ブテン、(c)はcis-2-ブテンの水素を重水素(D体)で置換した分子のスペクトル。カーブフィッティングは実験データをよく再現し、矢印で示した各3つの振動モードを検出した。この結果から、複数の振動モードを含むような複雑なスペクトルも再現できることが分かった。

アクションスペクトルの解析例:Pt(111)上における水分子二量体の拡散運動の図

図4 アクションスペクトルの解析例:Pt(111)上における水分子二量体の拡散運動
(参考文献:K. Motobayashi et. al., Surf. Sci. 602, 3136 (2008).)

(a)アクションスペクトル測定の実験データ。反応速度(反応確率)が上昇する点が振動エネルギーに対応するが、反応速度が緩やかに上昇するため、振動エネルギーを正確に決めるのは難しい。解析手法を用いない場合は、矢印で示した2種類の異なる分子振動が検出されているように見える。データの下図は拡散前後の水分子二量体のSTM像。下半分は拡散前、上半分は拡散後のSTM像。

(b)実験データにカーブフィッティングを用いた解析法を適用した結果。カーブフィッティングにより、実験データがうまく再現されている。振動エネルギーはフィッティングパラメータから求められるので明確である。解析前は2種類に見えたが、矢印で示したように4種類の分子振動が検出されていることが明らかである。

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