要旨
理化学研究所(理研)仁科加速器研究センター初田量子ハドロン物理学研究室の池田陽一客員研究員、土井琢身専任研究員、初田哲男主任研究員、京都大学基礎物理学研究所の青木慎也教授らの共同研究グループ※「HAL QCD Collaboration[1]」は、スーパーコンピュータを用いた大規模数値シミュレーションにより、「クォーク[2]」4個から成る新粒子と考えられていた「Zc(3900)[3]」が、クォークの組み替えにより引き起こされる現象、すなわち「しきい値効果[4]」であり、新粒子とは呼べないことを明らかにしました。
クォークは、物質の基本構成要素となる素粒子です。これまで、クォークが2個でできた中間子[5]や、3個でできたバリオン[6]が実験で観測されています。また、近年の加速器実験では、クォーク4個でできたテトラクォークや5個でできたペンタクォークといった新しいクォーク多体系の候補が発見されています。中でもZc(3900)は、クォーク4個からなる新粒子として、国内外の実験施設で相次いで報告されているテトラクォークの代表格です。このテトラクォークは、最終的に2個の中間子(中間子ペア)に崩壊して観測されます。
今回、共同研究グループは、このZc(3900)の正体を明らかにするために、クォークの基礎理論である「量子色力学[7]」に基づいて、4個のクォークがどのように構成されるかについて、大規模数値シミュレーションを行いました。さらに、シミュレーションで得られた中間子ペアの間の相互作用を用いて、「散乱理論[8]」による計算を実行しました。その結果、Zc(3900)は新粒子ではなく、崩壊先の中間子ペアが互いに入れ替わること(遷移)によるしきい値効果であることが明らかになりました。
本研究により、量子色力学に基づいた数値シミュレーションを行うことで、3個より多いクォークからなる新奇なクォーク多体系の性質を解明する理論的道筋がつきました。これにより、素粒子物理学・原子核物理学の理論研究が大きく進展すると期待できます。
本成果は、米国物理学会の学術誌『Physical Review Letters』(12月9日付け)で掲載されました。
本研究は、文部科学省科学研究費補助金新学術領域「計算科学による素粒子・原子核・宇宙の融合」、文部科学省HPCI戦略プログラム分野5「物質と宇宙の起源と構造」、文部科学省ポスト「京」重点課題9「宇宙の基本法則と進化の解明」の支援を受けて実施されました。
※共同研究グループ
理化学研究所 仁科加速器研究センター 初田量子ハドロン物理学研究室
客員研究員 池田 陽一(いけだ よういち)(国立大学法人大阪大学 核物理研究センター 特任助教)
主任研究員 初田 哲男(はつだ てつお)
専任研究員 土井 琢身(どい たくみ)
京都大学 基礎物理学研究所
教授 青木 慎也(あおき しんや)
大阪大学 核物理研究センター
准教授 石井 理修(いしい のりよし)
背景
私たちの身の回りの物質は原子でできています。原子は、電子と原子核から成り立ち、原子核は核子(陽子と中性子の総称)で構成されています。核子はクォーク3個からできていますが、このようなクォークの複合体の総称を「ハドロン」といいます。現在までに、核子や、湯川秀樹博士が提唱したπ(パイ)中間子をはじめとして、約500種類ものハドロンが存在することが知られており、ハドロンはクォークが2個あるいは3個で構成されていると考えられています。
近年、クォーク4個のテトラクォークや5個のペンタクォークといった新奇なクォーク多体系の候補が実験的に報告され、それらの構造をクォークの基本原理である「量子色力学」から解明することが急務の課題となっています。そのような研究を可能にする方法が「格子量子色力学[7]」です。この方法では、格子状に分割した四次元時空(縦・横・高さに時間軸を加えた空間)上で定式化された量子色力学を、スーパーコンピュータを用いた大規模数値シミュレーションで、近似を用いることなく数値的に解くことができます。しかし、テトラクォークなど新奇なクォーク多体系を正確に理解するには、従来の格子量子色力学では扱いが困難であったクォーク多体系の「離合集散」を取り扱う必要がありました。
研究手法と成果
共同研究グループは、クォーク多体系の離合集散を計算する新たな方法論を確立しました。その一つ目の要素は、2007年に石井、青木、初田が開発した、格子量子色力学を用いてハドロン間に働く力を求める方法注)の一般化です。二つ目の要素は、格子量子色力学の数値シミュレーションで得られた結果と、量子力学の「散乱理論」を融合させた数値計算です。
この新たな方法に基づき、大阪大学サイバーメディアセンターのスーパーコンピュータを用いて、テトラクォーク(アップ、チャーム、反ダウン、反チャームから構成)の候補である「Zc(3900)」(図1)の解析を行いました。
Zc(3900)は、π中間子(アップと反ダウン)とJ/ψ(ジェイ/プサイ)中間子(チャームと反チャーム)のペア、および反D中間子(アップと反チャーム)とD*中間子(チャームと反ダウン)のペアに崩壊することが実験により明らかされています。共同研究グループは、格子量子色力学を用いた大規模数値シミュレーションにより、4個のクォークがどのようにこれらのペアに離合集散するかを計算しました(図2)。
これまでZc(3900)が新粒子である場合、その構造は、①4個のクォークがコンパクトにまとまったテトラクォーク、②J/ψ中間子の周りをπ中間子が周回する原子的状態、③反D中間子とD*中間子が結合した分子的状態、の三つが考えられてきました(図3)。
しかし上述の計算によって、π中間子とJ/ψ中間子に働く力も、反D中間子とD*中間子に働く力も非常に弱く、②と③の可能性が否定されました。
さらに、π中間子とJ/ψ中間子の中間子ペアと、反D中間子とD*中間子の中間子ペアは頻繁に入れ替わることが分かりました(図2)。この入れ替わりは遷移と呼ばれ、重いチャームクォーク、または反チャームクォークを交換する過程により得られます(図4)。これまでは“チャームクォークは重いため、遷移は頻繁には起こりにくい”“と考えられていましたが、今回の格子量子色力学を用いた大規模数値シミュレーションにより初めて、頻繁に遷移することが発見されました。
最後に、図4の遷移が①のようなコンパクトな状態を生み出すかどうかを、中間子ペアの遷移を取り入れた散乱理論により計算しました。その結果、①のようなテトラクォーク状態は極めて短寿命(約10-24秒)で中間子ペアに崩壊してしまうことが分かりました。つまり、実験で発見されたZc(3900)は、π中間子とJ/ψ中間子の中間子ペアと、反D中間子とD*中間子の中間子ペアが頻繁に遷移することにより、特定のエネルギーで崩壊確率が増大する「しきい値効果」と解釈でき、“新粒子とは呼べない”ことが結論として導かれました。
注)N. Ishii, S. Aoki and T. Hatsuda, “Nuclear Force from Lattice QCD” Physical Review Letters, vol. 99, p.022001, 2007.
今後の期待
本成果により、クォークの基本原理である量子色力学に基づいた大規模数値シミュレーションと散乱理論を組み合わせることで、新奇なクォーク多体系の正体を理論的に解明する道筋がつきました。
開発した手法は一般的かつ汎用性が高いため、Zc(3900)以外のテトラクォーク候補とされるX(3872)、Zc(4430)や、ペンタクォークの候補とされるPc(4450)などへの適応が可能です。また、スーパーコンピュータ上でクォーク多体系を再現することで、対応する実験データの検証も可能です。この手法により、今後の新奇なクォーク多体系の構造に関する研究や、素粒子物理学・原子核物理学の理論研究が大きく進展すると期待できます。
原論文情報
- Yoichi Ikeda, Sinya Aoki, Takumi Doi, Shinya Gongyo, Tetsuo Hatsuda, Takashi Inoue, Takumi Iritani, Noriyoshi Ishii, Keiko Murano, Kenji Sasaki., "Fate of the Tetraquark Candidate Zc(3900) from Lattice QCD", Physical Review Letters, doi: 10.1103/PhysRevLett.117.242001
発表者
理化学研究所
仁科加速器研究センター 初田量子ハドロン物理学研究室
客員研究員 池田 陽一(いけだ よういち)
主任研究員 初田 哲男(はつだ てつお)
専任研究員 土井 琢身(どい たくみ)
京都大学 基礎物理学研究所
教授 青木 慎也(あおき しんや)
報道担当
理化学研究所 広報室 報道担当
Tel: 048-467-9272 / Fax: 048-462-4715
補足説明
- 1.HAL QCD Collaboration
理研、大阪大学、京都大学、日本大学、筑波大学、トゥール大学の研究者による共同研究グループ。Hadrons to Atomic nuclei from Lattice QCD Collaborationの略称。QCDはquantum chromodynamicsの略で量子色力学、Lattice QCDは格子量子色力学を指す。 - 2.クォーク
物質を構成する最も基本的な素粒子。6種類のフレーバー(軽い方からアップ、ダウン、ストレンジ、チャーム、ボトム、トップ)と3種類のカラー(赤、青、緑)を持つ。また、6種類のクォークにはそれぞれ反クォークが存在する。反クォークを含めると、全部で36種類がある。中でもチャームクォークは、トップ、ボトムに次いで重く、陽子の約1.4倍(質量約1300MeV)の質量を持つ。 - 3.Zc(3900)
2013年に日本のBelle実験グループと中国のBES III実験グループから、それぞれ発見の報告があった4個のクォーク(アップ、チャーム、反ダウン、反チャーム)で構成されるテトラクォークの候補。これまでに、電荷±1eを持つ荷電 Zc(3900)と電荷を持たない中性 Zc(3900)の3種類が実験で報告されている。電荷+1eの荷電 Zc(3900)は、電荷+1eの荷電π中間子(アップと反ダウンで構成)とJ/ψ中間子(チャームと反チャームで構成)のペアと結合する。また、中性反D中間子(アップと反チャームで構成)と電荷+1eの荷電D*中間子(チャームと反ダウンで構成)にも結合する。本研究では、電荷±1eを持つ荷電 Zc(3900)に対応した計算をしたが、量子色力学においては電荷の違いが大きな影響を与えないため、中性 Zc(3900)に関しても同じ結果になる。 Zcはゼットシーと読む。 - 4.しきい値効果
ハドロン間の散乱のエネルギーを変化させると、あるエネルギー以上で異種のハドロンへと遷移することが可能になる。この境目のエネルギーをしきい値エネルギーと呼ぶ。しきい値効果とは、このしきい値エネルギーにおいて、突如として異種のハドロンへ遷移するために、散乱するハドロンの崩壊確率が増大する現象のことである。異種ハドロン間の互いの遷移に起因した効果であることから、新粒子状態が存在することによる効果とは区別される。 - 5.中間子
クォークと反クォークが結合してできるハドロン。本研究で扱ったπ中間子、D中間子、J/ψ中間子のほかに、K中間子、η中間子、ρ中間子、ηc中間子、B中間子などがある。 - 6.バリオン
3個のクォークが結合してできるハドロン。陽子や中性子などがある。 - 7.量子色力学、格子量子色力学
量子色力学(quantum chromodynamics、QCD)は、原子核を構成するクォークとその間に働く強い相互作用を媒介するグルーオンが従う物理法則であり、素粒子の標準理論の一部である。量子色力学によれば、クォークは単体で存在できず、常に数個のクォークが集まって複合体(ハドロン)を作ると考えられている。格子量子色力学(Lattice QCD)は、格子状に分割した四次元時空(縦・横・高さに時間軸を加えた空間)上にクォークとグルーオンを導入して、量子色力学を表した理論。格子量子色力学を大規模数値計算で解くことにより、近似に依らない正しい計算が可能になる。この計算法は、過去約10年の間に飛躍的な進歩を遂げた。 - 8.散乱理論
現代の量子物理学においては、光や電子などの粒子を物質に照射し、散乱された粒子を観測することで物質の内部構造を決定することが行われる。このような散乱現象を理論的に解析する方法が散乱理論である。
図1 これまでに報告されているテトラクォークの候補Zc(3900)の生成過程の例
陽電子と電子の衝突によりY(4260)粒子が生成され、Y(4260)粒子がπ中間子(ダウンと反アップ)とZc(3900)へ崩壊し、最終的にZc(3900)がπ中間子(アップと反ダウン)とJ/ψ(ジェイ/プサイ)中間子(チャームと反チャーム)へ崩壊すると考えられていた。
図2 ハドロンの間に働く力と結合を大規模数値シミュレーションから導出する方法
格子量子色力学を用いた大規模数値シミュレーションにより、4個のクォークの離合集散を測定することで、π中間子(アップと反ダウン)とJ/ψ中間子(チャームと反チャーム)間に働く力、反D中間子(アップと反チャーム)とD*中間子(チャームと反ダウン)の間に働く力、およびこれらの中間子ペア間の結合を計算する。
図3 Zc(3900)が新粒子である場合に考えられてきた3種類の内部構造
① 4個のクォークがコンパクトにまとまったテトラクォーク。
② J/ψ中間子(真ん中)の周りをπ中間子が周回する原子的状態。
③ 反D中間子とD*中間子が結合した分子的状態。
図4 π中間子とJ/ψ中間子の中間子ペアが反D中間子とD*中間子の中間子ペアに遷移する過程
図は、反ダウンと反チャームが交換され遷移する過程を表す。黒線の矢印の入れ替わりはセットで起こる。例えば、左下の2個のチャーム(チャームと反チャーム)を持つJ/ψ中間子と左上のπ中間子は、右ではチャームを1個ずつ含む違う粒子反D中間子とD*中間子に遷移が起こることになる。