2017年4月7日
理化学研究所
海馬から大脳皮質への記憶の転送の新しい仕組みの発見
-記憶痕跡(エングラム)がサイレントからアクティブな状態またはその逆に移行することが重要-
要旨
理化学研究所(理研)脳科学総合研究センター理研-MIT神経回路遺伝学研究センターの利根川進センター長と北村貴司研究員、小川幸恵研究員、ディラージ・ロイ大学院生らの研究チーム※は、日常の出来事の記憶(エピソード記憶)が、マウスの脳の中で時間経過とともに、どのようにして海馬から大脳新皮質へ転送され、固定化されるのかに関する神経回路メカニズムを発見しました。
海馬は、エピソード記憶の形成や想起に重要な脳領域です。先行研究により、覚えた記憶は、時間経過とともに、海馬から大脳皮質に徐々に転送され、最終的には大脳皮質に貯蔵されるのではないかとのアイデアがありますが、大脳皮質への記憶の転送に関して、神経回路メカニズムの詳細はほとんど分かっていませんでした。
本研究では、記憶を担う細胞(記憶痕跡細胞またはエングラム細胞)を標識・操作する研究手法注1)を用いて、大脳皮質の前頭前皮質で、学習時に既にエングラム細胞が生成されていることを発見しました。この前頭前皮質のエングラム細胞は、海馬のエングラム細胞の入力を受けることによって、学習後徐々に構造的・生理的・機能的に成熟することも発見しました。逆に、海馬のエングラム細胞は、時間経過とともに活動休止、脱成熟することが分かりました。つまり、これまで考えられてきた海馬から大脳皮質への記憶の転送のアイデアは、前頭前皮質のエングラム細胞の成熟と海馬のエングラム細胞の脱成熟により、記憶想起に必要な神経回路が切り替わることで説明できるようになりました。
本研究は、米国の科学雑誌『Science』(4月7日付け)に掲載されます。
注1)Liu X., Ramirez, S., Pang, P., Puryear, C., Govindarajan, A., Deisseroth, K., and Tonegawa S. Optogenetic stimulation of a hippocampal engram activates fear memory recall. Nature 484: 381–385 (2012).
※研究チーム
理化学研究所 脳科学総合研究センター 理研-MIT神経回路遺伝学研究センター
センター長 利根川 進(とねがわ すすむ)
研究員 北村 貴司(きたむら たかし)
研究員 小川 幸恵(おがわ さちえ)
博士課程 ディラージ・ロイ (Dheeraj Roy)
研究員 奥山 輝大(おくやま てるひろ)
研究員 マーク・モリッセイ(Mark D. Morrissey)
研究技術員 リリアン・スミス(Lillian M. Smith)
元研究員 ロジャー・レドンド(Roger L. Redondo)
背景
海馬はエピソード記憶の形成や想起に重要な脳領域です。小動物を用いた海馬の損傷実験やヒトの症例研究によって、エピソード記憶の形成後、最初はその出来事を思い出すのに主に海馬を必要としますが、その記憶を覚えた後、時間経過に伴い徐々に海馬は必要でなくなり、数週間後には大脳皮質を使ってそのときの出来事を思い出すことが分かっていました。このことから、心理学者や脳科学者らは、“記憶”は、時間経過とともに、海馬から大脳皮質に徐々に転送され、最終的には大脳皮質に貯蔵されるのではないかと考えました。この考えは、「記憶固定化の標準モデル」と呼ばれています。
また、海馬から大脳皮質へと記憶想起に必要な脳領域が変化するに伴い、詳細な情報を含む体験的なエピソード記憶から、知識としての意味記憶へと記憶の性質が変わるのでないかとの考え方も提案され、大脳皮質への記憶固定化・記憶転送の実体やその仕組みを明らかにすることは、神経科学の分野で大きな課題の一つとなりました。
しかし、この問題にアプローチする研究のほとんどは、いつ、どの脳部位が記憶の思い出しに“必要”なのかを調べる損傷実験が主だったため、どの脳部位に記憶が“貯蔵”されているのか?そして、本当に海馬から大脳皮質へ記憶の転送は起きているのか?といった問題に対し、記憶を担っている細胞を標識する方法論がなかったために、直接的に答えることができずにきました。
研究手法と成果
(1)学習時に既に前頭前皮質で記憶エングラム細胞は生成される
2012年に研究チームの研究室では、記憶を担う細胞(記憶痕跡細胞またはエングラム細胞)を標識する方法と光遺伝学[1]を組み合わせることによって、エングラム細胞を操作する研究手法[2]を確立しました注2)。この研究手法により、どの脳部位に記憶が存在するのかを同定することが可能となりました注3)。
本研究では、この研究手法を用いて、記憶獲得後に、いつ、どのようにして、海馬から大脳皮質に“記憶が転送される”のかについて検証しました。マウスをある環境に置き探索的な動きを数分間続けさせた後、足に軽い電気ショックを与えました。これにより、マウスはこの環境はショックが来るぞということを学習し、次に、マウスがその環境に入ると、この記憶の最も顕著な兆候である恐怖によるすくみ(不動でうずくまった姿勢)を示します。学習時にマウスの脳では、いろいろな部位で細胞が活性化されます。
研究チームは、特に大脳皮質の前頭前皮質に注目し、この学習によって活性化された細胞に、青色光で神経興奮が誘導できるタンパク質チャネルロドプシン[1]を発現させ、学習によって活性化された前頭前皮質の細胞の神経活動を人工的に青色光で興奮させました。その結果、学習1日後に、前頭前皮質で学習に伴って活性化した細胞を青色光で刺激すると、マウスはショックを受けた環境に入らなくても、恐怖の記憶を想起し、すくみ反応を示しました。つまり、この実験により、これまで考えられてきた記憶固定化の標準モデルとは異なり、学習時に活性化した前頭前皮質には、学習して1日後には既にエピソード記憶情報を保持している、エングラム細胞ができていることが分かりました。
さらに、学習時における、海馬―大脳嗅内皮質から前頭前皮質への神経刺激(環境情報を提供する)と、恐怖記憶に関わる扁桃体から前頭前皮質への神経刺激(ショック情報を提供する)の両方が、前頭前皮質のエングラム細胞の生成には必須であることが分かりました。
注2)2012年3月23日プレスリリース「記憶が特定の脳神経細胞のネットワークに存在することを証明」
注3)2015年5月29日プレスリリース「記憶痕跡回路の中に記憶が蓄えられる」
(2)前頭前皮質のエングラム細胞は、時間とともに成熟する
では、学習時に前頭前皮質で生成されたエングラム細胞は、実際の記憶の想起時には使われるのか?そして、それは記憶想起に必要不可欠なのか?学習後1日では、前頭前皮質のエングラム細胞は実際の記憶の想起時にはあまり活動しませんでした(図1、学習後1日)。また、この時点では想起に必要でもありませんでした。しかし、学習後2週間では、この前頭前皮質のエングラム細胞は、他の細胞に比べ強く活動しました(図1、学習後2週間)。さらに、この前頭前皮質のエングラム細胞では、時間の経過とともに、樹状突起の数が増大して、2週間後には、記憶の想起に必要不可欠になりました。
つまり、前頭前皮質のエングラム細胞は、最初から記憶情報は持っているけれどもすぐには想起に使えない状態にあります。これを、「サイレントなエングラム」と呼ぶことにしました。しかし、時間経過とともに、樹状突起を増加させ、前頭前野での神経細胞同士のつながりを強化し、その結果、実際の記憶想起に使われるばかりでなく、そのために不可欠になりました。これらの実験結果は、前頭前皮質のエングラム細胞は、時間経過とともに、「成熟する」ことを示します。つまり、これらの細胞は「サイレント」な状態から「アクティブ」な状態に移行するということです。
さらに、研究チームは、海馬のエングラム細胞の神経出力を遮断する実験を行い、その結果、前頭前皮質のエングラム細胞の成熟には、海馬のエングラム細胞からの神経刺激の入力が必須であることを証明しました。
(3)海馬の記憶エングラム細胞は、時間とともに脱成熟する
これまでの研究によって、学習後1日の記憶想起には海馬のエングラム細胞が重要な役割を果たしていることが示されています注4)。さらに、上記のように、この海馬のエングラム細胞は、前頭前皮質のエングラム細胞の成熟に必要不可欠であることを示しました。しかし、学習後の時間経過に伴い、海馬で形成された記憶エングラムの運命はどうなっていくのでしょうか?
学習時に海馬で形成されたエングラム細胞は、記憶情報を保持し、確かに学習後1日は実際の記憶の想起にも使われます(図2、学習後1日)。しかし、学習後約2週間が経過すると、海馬のエングラム細胞の記憶情報は依然保たれているものの、実際の記憶の想起には活動しませんでした(図2、学習後2週間)。つまり、海馬のエングラム細胞は、前頭前皮質のエングラム細胞とは逆に、「アクティブ」な状態から、時間とともに「サイレント」な状態に移行することになります。
このサイレントエングラムに特別な機能があるかどうかを知るにはさらなる実験が必要です。しかし、一つには、サイレント状態を経て、最終的には海馬のエングラム細胞は完全に記憶情報を失う可能性があります。もしくは、サイレント状態は引き続き維持され、より詳細な記憶を想起しないといけない事態に出くわした際、そういった特別なときにのみ、再度、使われるのかもしれません。
注4)Tonegawa S, Liu X, Ramirez S, Redondo R. Memory Engram Cells Have Come of Age.Neuron,87(5):918-31, (2015)
(4)扁桃体の記憶エングラム細胞は、時間に関係なく成熟している
扁桃体のエングラム細胞は海馬のエングラム細胞と同様に、学習の直後にアクティブな状態で形成され、恐怖記憶に基づく「すくみ反応」に貢献し、また前頭前皮質のエングラム細胞の形成に不可欠です。本研究によって、さらに、学習後経過する時間にかかわらず、アクティブな状態を維持することが分かりました。ただし、記憶の想起に必要な環境情報を含む刺激は、学習後1週間程度においては、海馬および大脳嗅内皮質を通じて配達されますが、その後は、前頭前野のエングラム細胞を通じて配達されます。つまり、学習後に経過する時間にかかわらず、同じ扁桃体エングラムが使われるのですが、想起のための刺激の配達ルートにシフトが起こるということです。
(5)まとめ
この研究によって、エピソード記憶の形成と想起は、脳内の少なくとも三つの部位、海馬、前頭前皮質、および扁桃体にできる記憶のエングラム細胞の状態(サイレントかアクティブか)と、これらエングラム細胞間のダイナミックな相互作用によっていることが、初めて解明されました(図3)。
今後の期待
今回の研究では、主にエピソード記憶が、日が経つにつれてどのようにして海馬から前頭前皮質へと記憶が転送・固定化するのかについて注目しました。しかし、背景にも書いたように、前頭前皮質は知識記憶(意味記憶)やルール記憶の形成にとても重要であることが分かっています。今後は、どのようにして、古いエピソード記憶が意味記憶へと変化するのかに関して神経回路レベルで検証すること、さらには、意味記憶を符号化する神経細胞群が存在するのか否かについても、さらなる研究が期待されます。
原論文情報
- Takashi Kitamura, Sachie K. Ogawa, Dheeraj S. Roy, Teruhiro Okuyama, Mark D. Morrissey, Lillian M. Smith, Roger L. Redondo & Susumu Tonegawa, "Engrams and Circuits Crucial for Systems Consolidation of a Memory", Science, doi: 10.1126/science.aam6808
発表者
理化学研究所
脳科学総合研究センター 理研-MIT神経回路遺伝学研究センター
センター長 利根川 進(とねがわ すすむ)
研究員 北村 貴司(きたむら たかし)
研究員 小川 幸恵(おがわ さちえ)
博士課程 ディラージ・ロイ(Dheeraj Roy)
報道担当
理化学研究所 広報室 報道担当Tel: 048-467-9272 / Fax: 048-462-4715
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補足説明
- 1.光遺伝学、チャネルロドプシン
光感受性タンパク質を、分子遺伝学を用いて特定の神経細胞群に発現させた後、その神経細胞群に局所的に光を当てることで、活性化させたり、抑制したりする技術。本研究では光照射により神経活動が誘発されるChR2(チャネルロドプシン2)と、抑制されるArchT(アーチティー)という、二種類の光感受性タンパク質を用いた。 - 2.エングラム細胞を操作する研究手法
神経活動依存的に発現が誘導される初期応答遺伝子c-fosのプロモーターと、発現誘導の時期を制御できるTet-OFFシステムを組み合わせることで、ある特定の期間に神経興奮した細胞においてのみ、神経活動を操作するための光感受性タンパク質を発現させることができる。本研究では、この手法を用いて、前頭前皮質や海馬の記憶痕跡細胞をChR2、もしくはArchTで標識し、エングラム細胞の神経活動を人工的に活性化させる際にはChR2を、人工的に抑制する際にはArchTを機能させた。
図1 前頭前皮質のエングラム細胞は時間経過に伴い成熟する
左:マウスの前頭前野の脳切片。
右:前頭前皮質のエングラム細胞(緑色)と記憶想起によって活動した細胞(赤色)。H2BGFP(緑色の細胞)は、学習時に活性化した前頭前野のエングラム細胞を示す。c-Fos(赤色)は、記憶想起時に、活性化したことを示す。点線で囲まれたエングラム細胞は、c-Fosを発現しているため赤色とオーバーラップして黄色に近くなる。つまり、記憶想起により、再活性化されていることを示す。学習後1日よりも、学習後2週間のほうが、記憶想起により、前頭前皮質のエングラム細胞は再活性化されやすい。つまり、サイレント状態からアクティブ状態に移行する。スケールバーは20μm。
図2 海馬のエングラム細胞は、時間経過に伴い、脱成熟する
左:マウスの海馬の脳切片。
右:海馬のエングラム細胞(緑色)と記憶想起によって活動した細胞(赤色)。H2BGFP(緑色の細胞)は、学習時に活性化した海馬のエングラム細胞を示す。c-Fos(赤色)は、記憶想起時に、活性化したことを示す。点線で囲まれたエングラム細胞は、c-Fosを発現している。学習後1日では、記憶想起により海馬のエングラム細胞(緑色)は再活性化されて赤色とオーバーラップして黄色になるが、2週間経つと、再活性化されないので黄色にならない。つまりサイレント状態を示す。スケールバーは20μm。
図3 海馬から前頭前皮質への記憶の転送の新しいモデル提唱
学習時に海馬においてエングラム細胞は最初に形成される。さらに引き続き学習中に、海馬のエングラム細胞は、恐怖記憶に関わる扁桃体の細胞とともに、前頭前皮質のエングラム細胞を生成する(学習時)。学習後2~10日の間に、サイレントだった前頭前野のエングラム細胞は、海馬のエングラム細胞からの神経入力によって、徐々に前頭前皮質のエングラム細胞は機能的に成熟する。一方で、海馬のエングラム細胞は時間とともにサイレント化する。その結果、学習後1日の記憶想起では、「海馬→大脳嗅内皮質→扁桃体」の神経回路が使われるが、学習後2週間以降の記憶想起では、「前頭前皮質→扁桃体」の神経回路が使われる。