理化学研究所(理研)開拓研究本部香取量子計測研究室の牛島一朗特別研究員(研究当時、現客員研究員、東京大学大学院工学系研究科助教)、髙本将男専任研究員、香取秀俊主任研究員(東京大学大学院工学系研究科教授)の研究チームは、ストロンチウム(Sr)原子を用いた「光格子時計[1]」の高精度[2]化に向けて、光格子レーザーによる共鳴周波数のずれ(光シフト[3])を高次の効果まで含めて精密に評価した結果、光シフトの影響を最小とする光格子の「実効的魔法条件[4]」を導き出しました。
本研究成果は、現在の「秒」の定義であるセシウム原子時計[5]の精度を3桁上回る「19桁精度」の光格子時計の実現に向けた重要なステップであり、秒の再定義への議論を活発化する成果です。また、19桁精度の時計は、ミリメートル精度の相対論的測地[6]などを可能にし、時間/周波数の標準技術の枠を超えた、広範な応用の可能性を広げます。
今回、研究チームは、光格子中のSr原子の振動量子状態[7]および光格子レーザーの強度と周波数を精緻に制御し、光格子の光シフトを評価しました。その結果、これまで実験的に観測されなかった電気四重極子[8]/磁気双極子[9]および超分極[10]による高次分極効果の高精度測定に成功しました。このデータを基に、光格子の光シフトを19桁精度に低減する実効的魔法条件となる光格子レーザーの強度、周波数を決定しました。 本研究は、米国の科学雑誌『Physical Review Letters』の掲載に先立ち、オンライン版(2018年12月28日付け)に掲載されました。
※研究支援
本研究は、日本学術振興会(JSPS)科学研究費補助金特別推進研究「超高精度光格子時計による新たな工学・基礎物理学的応用の開拓(代表者:香取秀俊)」、科学技術振興機構(JST)戦略的創造研究推進事業ERATO「香取創造時空間(研究総括:香取秀俊)」による支援を受けて行われました。
背景
正確な時計とは、規則正しく振動する振動子を基準として、その振動周波数を計ることで実現されます。原子が選択的に吸収する固有の共鳴周波数を、振動子の周波数として用いているのが「原子時計」です。原子時計の正確さは、いつ、どこで測っても原子の共鳴周波数は不変であるという前提の下で成り立っています。現在の「秒」は、セシウム原子が共鳴するマイクロ波周波数を基準とするセシウム原子時計で定義されており、およそ4x10-16(6000万年に1秒のずれ)の精度です。
「光格子時計」は、レーザー光を干渉させて作り出す「光格子」と呼ばれる、光の波長より小さな領域に原子を閉じ込め、その原子が吸収する光の共鳴周波数を基準とする原子時計です。香取秀俊主任研究員(東京大学大学院工学系研究科助教授(研究当時))が2001年に考案し、2003年に実証しました。その後、世界各国で光格子時計の開発と高精度化が進められ、現在では、本研究チームを含む世界の三つの研究チームで「18桁精度」の光格子時計が実現されています。
このような超高精度の光格子時計が実現されると、光格子レーザーの「魔法周波数[11]」の概念の拡張が迫られました。従来の魔法周波数の近似で無視した光格子と原子の高次の相互作用によって生じる原子の共鳴周波数の非線形な変化を取り入れることで、18桁超の精度での動作を可能にする「実効的魔法条件」のアイデアが提案され、その実証が待たれていました。そこで、研究チームは、ストロンチウム(Sr)原子の光格子レーザーによる共鳴周波数の変化を実験的に評価することを試みました。
研究手法と成果
一般に、レーザー光で原子を捕獲すると、レーザー光の電磁場の影響を受けて原子の共鳴周波数に変化が生じます。これを「光シフト」と呼び、原子の電気双極子[8]と光格子レーザー光との相互作用だけを考慮すると、光シフトは光格子の光強度に比例した変化量となります。この近似の下では、魔法周波数と呼ばれる特定の周波数のレーザー光で光格子を作ると、光シフトはゼロになります。
この魔法周波数の手法は、17桁の周波数精度では十分良い近似として成立しますが、18桁精度では、原子の電気四重極子/磁気双極子や超分極相互作用によって、光シフトはレーザー強度に対して非線形に応答し、かつ原子の振動量子状態にも依存することが見えてきます。
研究チームは、19桁の新たな精度領域に踏み込むために、光格子レーザーの魔法周波数の概念を再構築し、実効的魔法条件を提案しました。実効的魔法条件を満たす光格子のレーザー強度、周波数、原子の振動量子状態に、光格子時計の動作点を設定することで、高次の効果まで含めた光シフトを19桁のレベルに低減することができます。
高次の光シフトの効果は、理論、実験の両面において精力的に研究されてきましたが、微小な効果であるため、これまで整合の取れた測定結果は得られていませんでした。本研究では、光共振器によって光格子のレーザー光強度を従来の約20倍に増幅し(図1(a))、超分極による非線形な光シフトの高精度計測に成功しました(図1(b))。
また、光格子中の原子の振動量子状態を自在に操ることにより、電気四重極子/磁気双極子効果による光シフトの高精度計測にも成功しました(図2)。これらの結果から、光シフトの影響を最小とするストロンチウム光格子時計の実効的魔法条件が、トラップ深さが光子反跳エネルギーの72倍となる光格子レーザーの強度、電気双極子相互作用のみを考慮した魔法波長に対して5.3MHz高い周波数、であることを実験的に決定しました(図3)。
Sr原子では、この条件が実験で容易に実現できるパラメーター範囲内にあることが分かり、今後、光格子の光シフト以外の不確かさ要因の精度評価とともに、Sr原子を用いた光格子時計で19桁精度の時計を実現するための重要なステップとなります。
今後の期待
光格子光シフトの低減は、光格子時計の高精度化における最重要課題であり、実効的魔法条件の決定は、19桁精度の光格子時計の実現に向けた重要なステップです。セシウム原子時計の精度を3桁上回る19桁精度の光格子時計の実現は、新しい秒の定義へと移行するための大きな推進力となり得ます。
さらに、19桁精度の時計は、既存の技術では到達不能なミリメートル精度の相対論的測地を可能とし、時間/周波数標準技術としての枠を超えて、火山学、地震学への光格子時計の応用が期待できます。また、高精度な時計は、基礎物理定数の恒常性の検証など、基礎物理学の検証においても重要な計測ツールであり、新しい物理を切り拓く高精度センサーとして、今後重要な役割を担っていくことにも期待できます。
原論文情報
- Ichiro Ushijima, Masao Takamoto, Hidetoshi Katori, "Operational Magic Intensity for Sr Optical Lattice Clocks", Physical Review Letters, 10.1103/PhysRevLett.121.263202
発表者
理化学研究所
主任研究員研究室 香取量子計測研究室
主任研究員 香取 秀俊(かとり ひでとし)
(東京大学大学院工学系研究科教授)
専任研究員 髙本 将男(たかもと まさお)
特別研究員(研究当時) 牛島 一朗 (うしじま いちろう)
(現客員研究員、東京大学大学院工学系研究科物理工学専攻助教)
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※上記の[at]は@に置き換えてください。
補足説明
- 1.光格子時計
2001年、香取秀俊東京大学大学院工学系研究科助教授(研究当時)が考案した次世代の原子時計。「魔法波長(または魔法周波数)」と呼ばれる特別な波長(または周波数)のレーザー光を対向させてできる、数十ナノメートル(nm、1nmは10億分の1メートル)の微小空間にレーザー冷却された原子を閉じ込めて、その原子が吸収する光の振動数(共鳴周波数)を測定する。この光の振動数により、1秒の長さを決める。つまり、原子が吸収する光の振動が原子固有の回数に到達するまでの時間で1秒を決める。光格子時計では多数の原子を閉じ込めることができるので、それらの原子の共鳴周波数を一度に測定して平均をとることで、短時間で高精度に時間を決めることができる。 - 2.(時計の)精度
時計の精度は、ある時間経過した後の時間のずれで評価する。例えば、一般的によく使われているクオーツ時計の月差は約10秒で、10秒/2,600,000秒(ひと月)から計算されるおよそ4×10-6が時計の精度になる。この値の指数の数字を取って、6桁の精度の時計という。本研究が目指している19桁精度は、1×1019秒(およそ3000億年)経過すると1秒ずれる精度で、宇宙誕生から現在まで(138億年)の約20倍の年月が経って、ようやく1秒ずれるといった精度になる。 - 3.光格子の光シフト
一般に電場の中にある原子は、原子の吸収する光の周波数が変化する。これを光シフトという。光格子に閉じ込められている原子も、光の電場の影響で光シフトが生じ、これを光格子の光シフトという。光格子の光シフトは、光の電場によって誘起された原子の電気双極子と電場との相互作用であり、シフト量は(高次効果を除けば)光の強度に比例する。 - 4.実効的魔法条件
原子の超分極効果や多重極(磁気双極子、電気四重極子)相互作用による周波数シフトは、光の強度 Iに対して、それぞれ I2、 I1/2の依存性を持つ。そのため、任意の光強度に対して 魔法周波数[11]だけで各相互作用を相殺して光シフトをゼロにするようなプロトコルを作ることはほぼ不可能となり、光強度をある程度限定して魔法条件を設定する必要が生じる。この一方で、空間的に不均一な光強度分布により原子を捕まえる光格子では、有限温度の原子が感じる光強度を精度よく決めることは原理的に困難である。とはいえ、深さ Uのトラップ中において、有限温度で運動する原子のエネルギー分布 ΔUを用いて光強度( ΔI/I≈ΔU/U)を見積もることは可能である。ある光強度 Iop近傍の動作点を選ぶことによって、超分極と多重極効果を電気双極子分極効果によって近似的に相殺することで、相対的な光シフトを19桁のレベルで低減する、実効的魔法条件のアイデアが、2015年に香取秀俊らによって提案された。 - 5.セシウム原子時計
イギリス国立物理学研究所のルイ・エッセンらによって開発された、現在の国際単位系(SI)の秒の定義となっている原子時計。セシウム原子が吸収・放出する振動周波数の91億9263万1770倍を1秒の定義としており、その精度はおよそ15~16桁である。 - 6.相対論的測地
アインシュタインの一般相対性理論によると、強い重力場中では時間の進み方が遅くなり、地上の低い場所にある時計は、高い場所にある時計に比べてゆっくり進む。高精度な時計を用いれば、時間の進み方の違いから高低差を精密に計測することができ、このような相対論的な効果を用いた新たな測地技術のことを相対論的測地と呼ぶ。 - 7.振動量子状態
光格子トラップの中において有限温度で運動(振動)する原子のエネルギーの大きさは、振動量子数 nで表される離散的な値をとる。このような離散的なエネルギーで振動する原子の状態を振動量子状態という。 - 8.電気双極子、電気四重極子
原子に対して電場を加えると、原子核と電子雲の重心がわずかにずれることによって(これを分極という)、電気双極子ができる。さらに、空間的に離れたニつの電気双極子は、電気四重極子として表される。これらが、光格子の振動電場と相互作用することで、原子にエネルギー変化が生じる。 - 9.磁気双極子
電子のスピンや軌道角運動量によって、原子は磁石の性質(磁気双極子)を持っている。この磁気双極子と、光格子の振動磁場が相互作用することで、原子にエネルギー変化が生じる。 - 10.超分極
電場によって誘起される原子の電気双極子の応答の度合いを分極率という。電場に線形な応答が(通常の)電気分極率である。電場の3乗に比例する電気分極率を超分極率という。超分極による光シフトは、光の電場の大きさの4乗に比例する。 - 11.魔法周波数
一般に、原子の電子状態によって分極率が異なるため、それらの電子状態の光シフトは異なる。この結果、光トラップ(レーザー光によって原子を閉じ込める技術)中では、ニつの電子状態間のシフト量の差分だけ共鳴周波数が変化する。ところが、特定の周波数で光トラップを作ると、二状態の電気分極率が等しくなる結果、光シフトは等しくなり、共鳴周波数の変化をゼロにできる。このような、二状態の電気分極率が等しくなる周波数を魔法周波数と呼ぶ。
図1 実験装置の概略図と超分極効果による非線形な光シフト
- (a) 高次の光シフト測定のために開発したSr光格子時計の概略図。光共振器により光格子のレーザー光強度を従来の約20倍に増幅した。
- (b) 光シフトの光強度と周波数依存性。凡例中の数字は、光格子のレーザー周波数と原子の電気双極子のみを考慮した魔法周波数の周波数差を表し、横軸のトラップの深さは光強度に比例する量である。光子反跳エネルギーの263倍となるトラップ深さでの光シフトとの差から光シフトを評価した。超分極の効果による光シフトの非線形な光強度依存性が観測された。光シフトは、Sr原子の共鳴周波数(429THz)で規格化することにより、相対的な光シフト(縦軸)として示されている。
図2 電気四重極子/磁気双極子による光シフトの観測
振動量子状態がn=1とn=0のときの原子の光シフトの差を測定し、電気四重極子/磁気双極子による光シフトが支配的となる条件で周波数シフトの強度依存性を測定した。その結果、Sr原子における電気四重極子/磁気双極子の分極率の大きさを実験的に評価することに成功した。超分極率(赤線)、電気四重極子/磁気双極子の分極率(青線)がゼロの場合の理論曲線。
図3 高次の効果を含めた光格子の光シフトと実効的魔法条件
得られた超分極率と電気四重極子/磁気双極子の分極率を用いて計算されたSr原子の光格子光シフト。赤曲線で示された実効的魔法条件の光格子のレーザー周波数(5.3MHz)、および光子反跳エネルギーの72倍のトラップ深さをもつ光強度の光格子では、相対的な光シフトを19桁のレベルに低減できる(赤縦線と赤曲線が交わった点)。実効的魔法条件では、光格子の光シフトがトラップ深さに鈍感になるため、トラップ深さが30%変化しても19桁精度の動作が保証される(赤陰影部)。