理化学研究所(理研)創発物性科学研究センター量子機能システム研究グループの中島峻研究員、野入亮人特別研究員、米田淳研究員(研究当時)、樽茶清悟グループディレクター、東京大学大学院工学系研究科の川崎賢人氏(研究当時)、理研創発物性科学研究センター量子システム理論研究チームのダニエル・ロスチームリーダー(バーゼル大学物理学科教授)、ルール大学ボーフム校のアンドレアス・ウィック教授らの国際共同研究グループは、半導体量子コンピュータ[1]への応用が期待される電子スピン[2]量子ビット[3]への固体素子中の雑音を能動的に抑制することで、量子ビットの制御エラーを劇的に低減することに成功しました。
本研究成果は、量子コンピュータの大規模化に必要とされる制御回路の設計指針と、量子ビットのさらなる高性能化への道筋を示したといえます。
汎用量子コンピュータの実現には、量子ビットを高精度に制御することが必要不可欠です。しかし、固体素子中において普遍的に存在する電気的・磁気的な雑音に起因する制御エラーを完全に取り除くことは、非常に難しいと考えられています。
今回、国際共同研究グループは、低周波雑音を高精度に検出してリアルタイムに補正するフィードバック処理を用いることで、雑音の影響を抑制し、量子ビットの制御エラーを低減できることを実証しました。さらにこの手法を用いることにより、雑音によって制御エラーが引き起こされるメカニズムを定量的に解明することに成功しました。
本研究は、オンラインオープンアクセス科学雑誌『Physical Review X』に近日掲載予定です。
背景
新しい動作原理に基づく次世代の情報処理技術が待望されるなか、近年、量子力学の原理を利用する量子コンピュータの研究開発が世界的に活発化しています。とりわけ、半導体素子中の電子スピンを量子ビットとして用いる量子コンピュータは、これまで産業的な成功を収めてきた集積化技術の応用による大規模化が見込まれるため、実用化に向けた期待が高まっています。
量子コンピュータの実用化を阻む最大の障害は、量子ビットの情報が電気的・磁気的な雑音の影響を受けて容易に失われてしまうことです。例えば、半導体基板の材料として使われるケイ素-29(29Si)、ガリウム-69(69Ga)、ヒ素-75(75As)などの元素は、ランダムに揺らぐ核スピン[4]を持つため、磁気的な雑音の発生源となっています。また、半導体構造中の欠陥や不純物に由来する電荷の揺らぎは電気的な雑音の発生源であり、あらゆる固体デバイスにおいて普遍的に存在することが知られています。
このような雑音源をゼロにすることは事実上不可能と考えられており、雑音のある現実的な素子においても量子ビットを安定して動作させる方法の確立が必要とされてきました。
研究手法と成果
国際共同研究グループは、雑音の量子ビットへの影響を抑制するために、雑音を高感度に検出してフィードバック制御を行う手法を開発しました(図1)。量子ビットに影響する雑音は極めて微弱なため、一般的なセンサーでは検出できません。そこで、量子ビットそのものを磁場や電場に対する高感度な量子センサーとして用いることにより、雑音を高速で検出できるようにしました。そして検出した情報をもとに、量子ビットの制御に用いるマイクロ波信号の周波数にフィードバックすることで、雑音の影響を補償した量子ビット制御を試みました。
図1 能動的な雑音抑制を用いた電子スピン量子ビット制御の概念図
雑音による量子ビットのエネルギーシフトを、量子ビットそのものをセンサーとして使い測定する。測定データはFPGAを用いたハードウェアによってリアルタイムに解析し、量子ビットを制御するマイクロ波信号にフィードバックする。これにより量子ビットへの雑音が補償され、高精度な回転操作を実行できる。
実験では、GaAs/AlGaAs(砒化ガリウム/砒化アルミニウムガリウム)ヘテロ接合基板に微細加工を施して単一の電子スピンを閉じ込め、これを量子ビットとして用いました(図2)。また、パウリスピン閉塞現象[5]を利用して電子スピンの状態を高速で測定するために、電子スピン量子ビットに隣接する補助量子ビットを用意しました。
図2 半導体基板上に作製した電子スピン量子ビットデバイス
基板表面のゲート電極構造(右下と中央の茶、黄緑の領域)に電圧をかけ、電子スピン量子ビット(矢印付きの赤丸:左)と補助量子ビット(青丸:右)を閉じ込める。これら量子ビットのスピン状態は、右上に白丸で示した単一電子トランジスタによって電気的に検出される。また、左上のコバルトで作られた微小磁石による漏れ磁場を用いて、各電子スピンを個別に制御することが可能である。スケールバーは200ナノメートル(nm、1nmは10億分の1メートル)を表す。
電子スピン量子ビットに外部磁場をかけると、量子ビットは磁場強度に比例した一定の周波数で回転を始めます。この周波数と一致したマイクロ波を与えることにより、電子スピン共鳴[6]を起こして量子ビットを制御できます。このとき、量子ビットの回転周波数は、雑音によって時々刻々とわずかながら変動してしまいます。その結果マイクロ波周波数との間にずれが生じるため、それが量子ビットの制御エラーの原因となります。そこでまず、周波数が5.6ギガヘルツ(GHz、1GHzは10億ヘルツ)で一定のマイクロ波を用いて量子ビットの回転周波数を測定することにより、雑音による周波数ずれを検出しました。すると、回転周波数が±10メガヘルツ(MHz、1MHzは100万ヘルツ)程度の範囲でランダムに変動していることが確認できました(図3青線)。
ここで、測定したデータをFPGA[7]によってリアルタイムに解析し、計算から得られた周波数ずれを補償するようにマイクロ波周波数を調整しました。量子ビットの測定・制御と解析方法を工夫することで、およそ0.01秒の周期でこのようなフィードバック制御を行った結果、周波数ずれの変動を大幅に抑制できました(図3赤線)。
図3 量子ビット周波数ずれの時間変動
- 青線:マイクロ波周波数を固定して測定した、量子ビット回転周波数とのずれの時間依存性。電気的・磁気的な雑音の影響により、およそ±10MHzの範囲でランダムに時間変動している。
- 赤線:検出した量子ビット回転周波数を元にマイクロ波周波数をフィードバック制御して得られた周波数ずれの時間依存性。周波数ずれの大きさを定常的に偏差0.3MHz以内に抑制できる。
このように大幅に雑音を抑制できれば、量子ビットの制御エラーも大きく低減されることが期待されます。そこで、フィードバック制御を用いて量子ビットの回転運動を測定したところ、回転の減衰時間T2*がおよそ27倍に改善されていることが確認できました(図4左)。このことは、量子ビットの品質が大きく向上し、より長時間情報を保持できるようになったことを意味しています。
また、量子ビットを上下反転させる制御についても、同様に改善していることが確認できました(図4右)。この上下反転制御の精度を定量的に評価したところ、99.04±0.23%に達することを実証しました。この値は、汎用量子コンピュータの実現に必要な量子誤り訂正[8]を実行するのに十分な精度を達成したことを意味しています。また、GaAs/AlGaAs基板における単一電子スピン量子ビットの制御精度としては過去最高の値で、作製が難しいSi基板の量子ビットの性能に迫るものです。
図4 フィードバックによる量子ビット制御エラーの低減
- 左:フィードバック制御前(上、青)と制御後(下、赤)の量子ビット回転運動の測定結果。フィードバック制御後には、量子ビットの向きが左右を振動する様子が長時間観測され、情報保持時間T2*が28.4ns(1nsは10億分の1秒)から766.7nsへ大幅に伸びていることが分かる。
- 右:フィードバック制御後の量子ビット反転制御測定結果。量子ビットの向きが上下を振動する様子(上下反転する様子)が観測され、99.04%の測定精度が達成された。
さらに、本研究で開発したフィードバック制御の手法を用いて、同一試料中で雑音の効果をその場制御することで、雑音と量子ビット制御精度との関係を定量的に解析することが可能になりました。一般に、雑音の特性は試料ごとのばらつきが大きいため、これまで異なる試料の間でデータを比較することは困難でした。雑音の起源を明らかにするために雑音の周波数特性を調べたところ、低周波領域(10Hz以下)で、支配的な核スピン雑音の影響が効果的に抑制できていることが分かりました(図5左)。図4左に示した情報保持時間T2*の大幅な改善は、この効果によるものです。
一方で、量子ビットの上下反転制御(図4右)のエラーの起源は、このような低周波の雑音ではなく、10MHz程度の高周波雑音が支配的であることが明らかになりました。このような周波数の雑音は、電荷揺らぎに起因する1/fスペクトル(fは周波数)と、核スピンの磁気回転[9]に由来する共鳴的なスペクトルの二つからなることを突き止めました(図5右挿入図)。前者の1/fスペクトルの雑音は、フィードバック制御によって抑制された後に残る低周波雑音のスペクトルとも一致することが分かりました(図5右)。この結果は、10Hzから10MHz超の領域にわたって1/fスペクトルを示す電荷揺らぎ雑音が支配的であることを示しており、これまで同位体制御したSi量子ビットに特有と考えられていた結果とよく一致し、材料によらない普遍的な特性であることが示されました。一方で、量子ビットの情報保持時間T2*と制御エラーに対しては、雑音の起源が同じであっても、全く異なる周波数領域の雑音が別のメカニズムで作用していることが分かりました。
図5 フィードバック制御後の量子ビット雑音スペクトル
- 左:フィードバック制御前(青)と制御後(赤)の雑音パワースペクトル。低周波(10Hz以下)の領域では、核スピンに由来する1/f 1.7(fは周波数)のスペクトルを持つ雑音(黒破線)が、フィードバック制御によって効果的に抑制される。この結果、10Hz以上の領域で電荷揺らぎに起因する1/fスペクトルの雑音(赤線)のみが残る。
- 右:フィードバック制御後に得られた低周波領域と高周波領域の雑音スペクトルの比較。高周波領域の雑音は、量子ビット上下反転制御におけるエラー頻度から導出した(挿入図)。1/fスペクトル雑音が10Hz以下から10MHz(106Hz)以上の広い周波数領域にわたって支配的であることが分かる。またこれに加えて、75As, 69Ga, 71Gaなどの核スピンの磁気回転数に対応する特定の周波数において、共鳴的に雑音が増大することが分かる。
今後の期待
本研究で実証した電子スピン量子ビットのフィードバック制御方法により、雑音の多い量子ビットデバイスでも実用に耐え得る性能を得られることが分かりました。この結果は、半導体量子コンピュータの実現のためには新規材料の開発に頼らざるを得ないと考えられてきた従来の開発指針に転換を迫るものです。また、量子ビットのエラーを引き起こす雑音のメカニズムが明らかになったことで、新たな雑音抑制手法の開拓につながると考えられます。
さらに、従来は人の手に頼る必要のあった量子ビットの調整が、FPGAを用いて自動化・高速化できることを示したことは、大規模半導体量子コンピュータの制御回路開発に弾みをつけるものと期待できます。
補足説明
- 1.量子コンピュータ
量子力学における重ね合わせおよび量子力学的相関を利用して、超高速計算を実現するコンピュータ。従来のコンピュータでは天文学的な時間のかかる因数分解の問題などを、数時間で解くことができる量子アルゴリズムが開発されている。 - 2.電子スピン
電子が右回りまたは左回りに自転する回転の内部自由度のこと。この回転の向きに応じて、通常上向きまたは下向きの矢印で表される。 - 3.量子ビット
電子スピンの向きなどに符号化された量子情報の最小単位のこと。通常のデジタル回路では「0もしくは1」の2状態に情報が保持されるのに対し、量子ビットでは「0でありかつ1でもある」状態を任意の割合で組み合わせて表現できる。これを量子力学的な重ね合わせ状態と呼び、通常量子ビットの状態は任意の向きの矢印によって表される。 - 4.核スピン
半導体材料中の原子核が持つスピン自由度のこと。半導体量子コンピュータによく使われる材料の中では、例えば29Siがスピン1/2、75As、69Ga、71Gaがスピン3/2を持つ。これらの核スピンは、外部磁場中においてもランダムに向きを変え、磁気的な雑音の発生源となる。 - 5.パウリスピン閉塞現象
パウリ排他律によって電子スピンの移動が妨げられる現象のこと。パウリ排他律によれば、同じ向きのスピンを持つ二つの電子は、同一の軌道を占有することはできない。そのため、ある軌道に一つの電子が入っているときには、その電子と異なる向きのスピンを持つ電子を追加することはできるが、同じ向きのスピンを持つ電子を追加することはできない。この現象を利用してスピンの違いを電荷配置の違いに変換し、電気的に測定することができる。 - 6.電子スピン共鳴
外部磁場を加えると、電子スピンが上向き(磁場と平行)、下向き(磁場と反平行)の状態間にエネルギー差が生じるが、これに対応するマイクロ波を照射することで、電子スピンの反転が起こる共鳴現象のこと。マイクロ波の強度と照射時間を精密に制御することで、電子スピンを任意の向きに回転操作することができる。 - 7.FPGA
論理回路の構成をプログラムすることが可能な集積回路。ソフトウェアによるプログラムと比べて、高速なデータ処理やハードウェア制御をリアルタイムに実行するのに適している。FPGAはField Programmable Gate Arrayの略。 - 8.量子誤り訂正
雑音に対して極めて敏感な量子コンピュータに生じたエラーを、量子力学的性質を損なうことなく検出し訂正するアルゴリズム。実用的な大規模量子コンピュータを実現するためには必要不可欠と考えられている。 - 9.核スピンの磁気回転
磁場中の核スピンが、磁場強度に比例した周波数で回転運動をすること。ラーモア歳差運動とも呼ばれ、核磁気共鳴が観測される周波数に対応する。
国際共同研究グループ
理化学研究所 創発物性科学研究センター
量子機能システム研究グループ
研究員 中島 峻(なかじま たかし)
特別研究員 野入 亮人(のいり あきと)
研究員(研究当時) 米田 淳(よねだ じゅん)
グループディレクター 樽茶 清悟(たるちゃ せいご)
(東京大学大学院 工学系研究科 教授)
量子システム理論研究チーム
上級研究員 ピーター・スタノ(Peter Stano)
チームリーダー ダニエル・ロス(Daniel Loss)
(バーゼル大学 物理学科 教授)
東京大学 工学系研究科物 理工学専攻
修士課程(研究当時) 川崎 賢人(かわさき けんと)
ルール大学 ボーフム校
教授 アンドレアス・ウィック(Andreas Wieck)
研究支援
本研究は、科学技術振興機構(JST)戦略的創造研究推進事業 CREST「量子状態の高度な制御に基づく革新的量子技術基盤の創出(研究総括:荒川泰彦)」の研究課題「スピン量子計算の基盤技術開発(研究代表者:樽茶清悟)」、日本学術振興会(JSPS)科学研究費補助金基盤研究S「量子対の空間制御による新規固体電子物性の研究(研究代表者:樽茶清悟)」、内閣府 革新的研究開発推進プログラム(ImPACT)「量子人工脳を量子ネットワークでつなぐ高度知識社会基盤の実現(プログラム・マネージャー:山本喜久)」の研究課題「量子ドット量子シミュレータ(研究代表者:樽茶清悟)」、文部科学省光・量子飛躍フラッグシッププログラム(Q-LEAP)基礎基盤研究「シリコン量子ビットによる量子計算機向け大規模集積回路の実現(研究代表者:森貴洋、課題番号:JPMXS0118069228)」、日本学術振興会(JSPS)科学研究費補助金基盤研究B「電子スピン量子計算の実現に向けたフィードフォワード制御(研究代表者:中島峻)」による支援を受けて行われました。
原論文情報
- Takashi Nakajima, Akito Noiri, Kento Kawasaki, Jun Yoneda, Peter Stano, Shinichi Amaha, Tomohiro Otsuka, Kenta Takeda, Matthieu R. Delbecq, Giles Allison, Arne Ludwig, Andreas D. Wieck, Daniel Loss, Seigo Tarucha, "Coherence of a Driven Electron Spin Qubit Actively Decoupled from Quasistatic Noise", Physical Review X, 10.1103/PhysRevX.10.011060.
発表者
理化学研究所
創発物性科学研究センター 量子機能システム研究グループ
研究員 中島 峻(なかじま たかし)
特別研究員 野入 亮人(のいり あきと)
グループディレクター 樽茶 清悟(たるちゃ せいご)
量子システム理論研究チーム
チームリーダー ダニエル・ロス(Daniel Loss)
(バーゼル大学 物理学科 教授)
ルール大学ボーフム校
教授 アンドレアス・ウィック(Andreas Wieck)
報道担当
理化学研究所 広報室 報道担当
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