2020年3月12日
理化学研究所
科学技術振興機構
独自の実験系で近藤雲の空間的な広がりを初めて観測
-長距離にわたるスピンの結合の量子制御に期待-
理化学研究所(理研)創発物性科学研究センター量子電子デバイス研究ユニットの山本倫久ユニットリーダー、量子機能システム研究グループの樽茶清悟グループディレクターらの国際共同研究グループは、多数の伝導電子[1]が局在スピン[2]を取り囲んで遮蔽する「近藤雲[3]」の空間的な広がりを実験的に捉えることに成功しました。
本研究成果は、局在スピンが複数存在する電子間相互作用が強い物理系の理解の進展や、長距離スピン結合[4]をベースにした新しい量子情報処理技術[5]の開発に貢献すると期待できます。
近藤雲の大きさは、局在スピンを持つ多くの物質の電気的な性質を決める重要なパラメータです。その観測実験は、過去50年にわたって世界中で行われてきましたが、これまで成功した例はありませんでした。
今回、国際共同研究グループは、半導体の人工原子[6]に局在スピンを閉じ込め、これが周囲の伝導電子と相互作用することによって形成される近藤雲を、電子の波の干渉計[7]に埋め込みました。この独自の実験系を用いて近藤雲の広がりを観察した結果、近藤雲の大きさは「近藤温度[8]」の逆数に比例すること、その形状は局在スピンの周りに集中して分布している一方、長い尾を引いていることが明らかになりました。
本研究は、科学雑誌『Nature』の掲載に先立ち、オンライン版(3月11日付:日本時間3月12日)に掲載されます。
背景
通常、金属の電気抵抗は、温度が下がると減少しますが、鉄やマンガンなど磁性不純物(磁石の性質を持つ元素)を含む金属では、ある温度以下で電気抵抗は逆に増大します。この現象は1930年代から知られていましたが、1964年に日本の物理学者である近藤淳博士が、その起源が「磁性不純物と伝導電子との間の量子力学的な相互作用」にあることを突き止めたことから、この現象は「近藤効果[3]」と呼ばれています。
単一の磁性不純物(単一の局在スピン)のレベルまで分解して考えると、近藤効果は、局在スピンを取り囲む伝導電子が"雲"のように局在スピンと結合することで、局在スピンを打ち消す遮蔽現象として理解できます。近藤効果は、現在では超伝導[9]と並んで最も典型的な電子相互作用の効果として知られており、その概念は物理学の広い分野に大きな影響を与えてきました。
単一局在スピンの近藤効果の理論は既に確立しており、実験的にも多くの性質が実証されています。しかし、「近藤状態(近藤雲)」の空間的な広がりについては長年の課題とされてきました。実際に、局在スピンが複数存在する現実の物質では、近藤雲の大きさや形状はその電気的、磁気的なさまざまな性質を決める重要なパラメータであることから、近藤雲の広がりの検証の重要さは古くから認識されており、最初に試みられた検証実験は50年も前に遡ります。しかし、現在に至るまで世界中でさまざまな手法による検証実験が試みられ、検証を目指した理論も多く提案されてきましたが、いずれも成功には至りませんでした。
研究手法と成果
国際共同研究グループは、半導体の人工原子に局在したスピンを閉じ込め、これを周囲の伝導電子と結合させることで近藤雲を電気的に制御しました。半導体の人工原子を用いて単一の磁性不純物に関する近藤効果を検証する実験手法は、20年ほど前からよく用いられてきましたが、本研究では、この制御可能な近藤雲を電子の量子干渉計に埋め込んだ独自の実験系を用意しました(図1)。
図1 近藤雲検証実験の概念図
人工原子に局在スピン(赤)が閉じ込められており、近藤雲(橙色)がそれを遮蔽している。太い矢印はスピンを示しており、局在スピン(赤色)と伝導電子のスピン(橙色)は、互いに逆向きになるようにもつれ合っている。白く光が当たっている部分に電気的な信号を与えると、電子波の一部がそこで反射され、人工原子との間に量子干渉計が形成される。どの電極にどの程度の信号を与えるかにより、量子干渉計の長さを調整することができる。この電気信号によって量子干渉を変調すると、近藤温度が変調される。なお、橙色で示した近藤雲の包絡線は、近藤温度の変調具合をポテンシャル変調の位置(量子干渉計の長さ)の関数として定量的に計算した値である。
近藤効果では、局在スピンの遮蔽が量子力学的に起きます。局在スピンと伝導電子のスピンは、互いに逆向きになるようにもつれ合った状態で結合して近藤雲を形成します。この結合のエネルギーを温度に換算した値は「近藤温度」と呼ばれており、近藤温度より温度が高いと近藤効果は抑制されます。本研究では、近藤効果の強さの指標となる電気伝導度が温度によってどのように変化するかを調べることで、近藤温度が得られるように実験条件を設定しました。
また、近藤雲は、スピンの相関を介して量子力学的に広がっており、近藤温度は量子干渉[10]の影響を受けます。しかし、量子干渉計が近藤雲より大きくなると、近藤雲が広がっていない部分には局在スピンの影響が及ばないため、近藤温度が量子干渉の影響を受けにくくなります。
そこで、長さを変えることができる量子干渉計の内部に近藤雲を埋め込み、近藤温度が量子干渉によって変調される様子を観測することによって、近藤雲の広がりを検証しました。その結果、近藤雲の大きさが、近藤温度の逆数に比例することを見いだしました。また、近藤雲が局在スピンの周りに集中して分布している一方、長い尾を引いた形状をしていることを明らかにしました(図2)。
図2 実験で明らかにされた近藤雲の形状
長さLの量子干渉計における近藤温度の変調を定量評価することにより、近藤雲の大きさξKおよび形状を得た。縦軸は近藤雲の密度に、横軸は局在スピンからの距離に対応している。近藤雲の本体はξKの内側(L/ξK<1)にあるが、外側にも尾を引いた形状をしている。この結果は、数値計算の結果ともよく一致する。
今後の期待
長年の課題であった近藤雲の広がりの観測に初めて成功した本成果は、固体物理学分野のブレークスルーの一つだといえます。これにより、複数の局在スピンを持つ物理系の理解が大きく進展すると期待できます。このような物理系は、近藤格子[11]、スピングラス[12]、高温超伝導体[13]など多岐にわたることから、大きな波及効果が予想されます。
また、今回の半導体では、近藤雲の広がりが数マイクロメートル(1マイクロメートルは1,000分の1ミリメートル)にも及んでいることが明らかになりました。これは、半導体量子デバイス素子の一般的なサイズ(数10nmから100nm程度)を大きく上回る値です。このスピンの量子力学的な結合状態を介して、隣接せずに離れて配置された局在スピンを互いに結合させることが可能になると考えられます。
実際に、このような「長距離スピン結合」は、スピンの量子ビット[14]を用いた量子情報素子デバイスの集積化に求められる技術要素の一つですが、近藤雲を介したスピン結合は、そのような技術要素以上の可能性を持っています。伝導電子を介した結合は、結合の大きさだけでなく、結合の符号(離れたスピンが同じ向きに揃おうとするか反対向きになろうとするか)を含めて電気的に制御できるとされています。このような結合をそれぞれのスピン対に対して用意する手法は、結合の符号を個々に変えることができなかったこれまでの量子情報処理デバイスや量子シミュレーション[15]実験の概念には存在しませんでした。従って、これを利用して多彩なスピンの結合状態を実現し、新しい機能を持つ量子デバイスの構築が可能になると期待できます。
補足説明
- 1.伝導電子
固体中を自由に動く電子。電気伝導に寄与する。 - 2.スピン
粒子(電子)の自転に対応する物理量。磁場に対して応答する性質を持っている。 - 3.近藤雲、近藤効果
局在した電子のスピンが周囲を動き回る伝導電子のスピンと結合して、互いに打ち消し合う現象を「近藤効果」と呼ぶ。近藤効果が起きているとき、それに寄与する伝導電子が局在スピンの周りに雲のように広がっていることから、近藤状態は「近藤雲」とも呼ばれる。 - 4.長距離スピン結合
空間的に離れた電子の間で働くスピンの相互作用。 - 5.量子情報処理技術
量子力学的な状態の重ね合わせを情報の単位として扱う技術。現在の情報処理(古典的な情報処理)は、0と1の2状態から定義される情報を単位としている。量子情報処理は、いくつかの問題において古典的な情報処理に比べて圧倒的に有利であり、その技術の開発競争が世界中で行われている。 - 6.人工原子
電子を微小空間に閉じ込め、天然の原子と同様に離散的なエネルギーを持つようにしたもの。 - 7.干渉計
重なり合った波が互いの位相に応じて、強め合ったり弱め合ったりする様子を観測するためのシステム。 - 8.近藤温度
局在スピンと伝導電子の間の量子力学的なスピン結合の強さを表す指標。温度が近藤温度よりも高いと、近藤効果は抑制される。磁性不純物を含む金属の電気抵抗が上昇に転じる温度は、近藤温度とおおむね一致する。 - 9.超伝導
電気抵抗がゼロ状態のこと。 - 10.量子干渉
量子力学的な粒子(電子)は、粒子と波の両方の性質を有している。この波の性質のために、観測量が古典的な粒子の場合と異なる現象を量子干渉と呼ぶ。 - 11.近藤格子
近藤効果を起こすような局在スピンを周期的に配列した物理系。現実の物質もこのようになっていることがある。 - 12.スピングラス
磁性のない金属に磁性体が混ざり、局在スピンが乱雑に存在するようになった物質。 - 13.高温超伝導体
超伝導が比較的高い温度まで起こる物質。 - 14.量子ビット
量子情報処理で用いられる情報の単位。0と1に加え、その重ね合わせが許される。 - 15.量子シミュレーション
量子力学の原理に従う系の状態を、それと類似した制御可能な量子系を用意してシミュレーションする手法。
国際共同研究グループ
理化学研究所 創発物性科学研究センター
量子電子デバイス研究ユニット
ユニットリーダー 山本 倫久(やまもと みちひさ)
量子機能システム研究グループ
グループディレクター 樽茶 清悟(たるちゃ せいご)
韓国科学技術院(KAIST) 物理学科
教授 ヒュンスン シム(Heung-Sun Sim)
香港城市大学 物理学科
助教授 イヴァン・ボルゼネッツ(Ivan V. Borzenets)
ルール大学ボーフム校 実験物理学科
教授 アンドレアス・ヴィーク(Andreas D. Wieck)
研究支援
本研究は、JST-CREST「半導体非局在量子ビットの量子制御(研究代表者:山本倫久)」、日本学術振興会(JSPS)科学研究費助成事業新学術領域研究(研究領域提案型)「ハイブリッド量子科学」の「固体の電子波の量子もつれ制御(研究代表者:山本倫久)」、同基盤研究S「量子対の空間制御による新規固体電子物性の研究(研究代表者:樽茶清悟)」、JST-CREST「スピン量子計算の基盤技術開発(研究代表者:樽茶清悟)」による支援を受けて行われました。
原論文情報
- I. V. Borzenets, J. Shim, J. Chen, A. Ludwig, A. Wieck, S. Tarucha, H.-S. Sim, M. Yamamoto, "Observation of the Kondo screening cloud", Nature, 10.1038/s41586-020-2058-6
発表者
理化学研究所
創発物性科学研究センター 量子電子デバイス研究ユニット
ユニットリーダー 山本 倫久(やまもと みちひさ)
量子機能システム研究グループ
グループディレクター 樽茶 清悟(たるちゃ せいご)
報道担当
理化学研究所 広報室 報道担当
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