2020年8月21日
理化学研究所
匂いオブジェクトの脳内表現を生成する情報処理の解明
-さまざまな匂いが異なる個体で同じように認識される仕組みを発見-
理化学研究所(理研)脳神経科学研究センター知覚神経回路機構研究チームの遠藤啓太研究員、高木(槌本)佳子研究員、風間北斗チームリーダーは、「匂いオブジェクト」の脳内表現を生成する情報処理を解明しました。
本研究成果は、自然界の多様な匂いをそれぞれ固有の匂いオブジェクトとして知覚するための普遍的な脳内情報処理の理解に貢献すると期待できます。
匂いは一般的に複数の揮発性分子の混合物ですが、動物はそれらの分子一つ一つを認識するのではなく、混合物全体を単一の匂いオブジェクトとして認識します。例えば、カレーに含まれるスパイス一つ一つではなく、全体を単一の「カレーの匂い」として認識します。また、異なる匂い分子であっても化学的な性質が似ていれば、例えば「柑橘類の匂い」のように、同一の匂いオブジェクトとして認識します。しかし、匂いオブジェクトの脳内表現がどのような演算とメカニズムによって生成されるのかは、良く分かっていませんでした。
今回、研究チームは、ショウジョウバエの脳内の嗅覚一次中枢「触角葉[1]」と二次中枢「キノコ体[2]」から網羅的に神経活動を計測する技術を確立し、それらの匂い応答を比較解析した結果、キノコ体において匂い分子の混合物や似た匂い分子のグループが、それぞれ独立したオブジェクトとして表現されていることを発見しました。また、数理モデルを用いて、匂いオブジェクトの神経表現を生み出す情報処理のメカニズムを提示しました。さらに、キノコ体における匂いの神経表現が個体間で類似していることも発見し、個体が異なってもさまざまな匂いが同様に認識される仕組みを明らかにしました。
本研究は、科学雑誌『Neuron』(10月28日号)の掲載に先立ち、オンライン版(8月18日付、日本時間8月19日)に掲載されました。
「匂いオブジェクト」を生み出すキノコ体での情報処理とそれを説明する数理モデル
背景
昆虫を含む多くの動物は、自然界の多種多様な匂い分子を検出し識別することで、その匂いの源である餌や天敵、配偶相手を認識し、その情報に従って個体の生存や種の維持に必要な行動を起こします。多くの匂いは複数の揮発性分子の混合物であるため、生物が匂いの源を認識するためには、匂いを構成する分子一つ一つを認識するのではなく、混合物全体を「餌の匂い」、「天敵の匂い」といった単一の「匂いオブジェクト」として認識する必要があります。また、異なる匂い分子であっても化学的性質が似た匂いグループは、例えば「柑橘類の匂い」といった匂いオブジェクトとして認識することで、同じ生物学的意味を持つ匂い間での汎化[3]が容易になり、生存に有利に働きます。
私たちの経験や行動実験から、ヒトや動物は実際に揮発性分子の混合物を匂いオブジェクトとして認識することが示唆されており、また、匂いオブジェクトに対応するような神経活動が、ヒトやマウスの脳の嗅覚二次中枢で観察されていました。しかし、この脳内表現がどのような演算とメカニズムによって生成されるのかは分かっていませんでした。
演算を理解するためには、入力情報と出力情報を比較解析する必要があり、それには脳の複数領域において、匂いの情報処理に関わる神経細胞の活動を網羅的に記録する必要があります。また、メカニズムを理解するためには、入力細胞と出力細胞をつなぐシナプスの性質や配線パターンを知る必要があります。しかし、これらはともに技術的に大変な困難を伴います。
そこで研究チームは、哺乳類よりもはるかに少数の神経細胞で、哺乳類と類似した神経回路構造を持つキイロショウジョウバエ成虫(ハエ)の嗅覚神経系に着目し、匂いオブジェクトの脳内表現を生み出す仕組みの解明を試みました。
研究手法と成果
ハエの脳内の嗅覚一次中枢「触角葉」からの入力をもとに、二次中枢の一つ「キノコ体」で行われる情報処理を解明するため、研究チームはカルシウムイメージング法[4]を用いて、各脳領域から網羅的に神経活動を計測する技術を確立しました。そして触角葉とキノコ体のほぼ全ての神経細胞から、さまざまな匂いに対する応答を記録しました(図1A-C)。それぞれの脳領域における細胞集団レベルでの匂い応答を神経応答空間[5]で比較解析したところ、キノコ体での方が神経応答空間の次元が高く、個々の匂いがより分離されやすい形で表現されていることが分かりました(図1D)。さらに、匂いの混合物や化学的性質が似た匂いグループも、それぞれクラスターとして表現されていることが分かりました(図1E,F)。これらのことから、匂いオブジェクトの脳内表現がキノコ体で生成されることが明らかになりました。
図1 触角葉とキノコ体の細胞集団レベルでの匂い応答
- A.カルシウムイメージング法を用いて、匂いに対する神経活動を記録するためのセットアップ。
- B,C.触角葉(B)とキノコ体(C)の蛍光イメージ。スケールバーは20マイクロメートル(μm、1μmは1,000分の1mm)。
- D.神経応答空間の次元の拡大の概念図。匂い1~6(青、赤、緑、紫、橙)は、1次元よりも2次元の空間においての方が、それぞれ、より分離されやすい形で表現される。
- E.匂いの混合物(赤+青)およびそのコンポーネント(赤、もしくは青)の触角葉(左)とキノコ体(右)の神経応答空間における分布の概念図。キノコ体では、混合物がその混合比によらずクラスターを形成しており、コンポーネントから分離されやすい形で表現されている。
- F.似た匂い分子グループの触角葉(左)とキノコ体(右)の神経応答空間における分布の概念図。グループ1(青)の匂いとグループ2(赤)の匂いは、キノコ体の神経応答空間で縦軸にそって分離されやすいようにそれぞれクラスターを作ることで、グループ内の汎化とグループ間の弁別が容易になる。一方、横軸にそった関係性は変わらないため、個々の匂いの弁別能力は維持される。
キノコ体においてこのように匂いオブジェクトが表現されるのであれば、匂いを汎化する能力が高くなっていることが予想されます。そこで、機械学習による線形分類器[6]を用いて、匂いの汎化能力を触角葉とキノコ体で比較しました。その結果、混合物を混合比に依らず汎化する能力も、新規の匂いを適切なグループに汎化する能力も、キノコ体の方が触角葉と比べて高いことが分かりました。
キノコ体の神経応答空間に、混合物や匂いグループがクラスターとして表現されていることは、それらの匂いに選択的に応答する神経細胞が存在することを示唆します。そこで、神経細胞の匂い応答の選択性を相互情報量[7]を用いて定量化したところ、実際に混合物やさまざまな匂いグループに対して高い選択性を示す細胞が、触角葉よりもキノコ体に多く存在することが分かりました。
続いて、この選択性の高い細胞がキノコ体で生まれるメカニズムを検証するため、過去に解析した触角葉とキノコ体神経細胞間のシナプスの性質注1)や既知の神経配線パターンのデータをもとに、触角葉の神経活動からキノコ体の神経活動を説明する数理モデルを作成しました。その結果、触角葉とキノコ体をつなぐ拡散・収束性の神経配線を通して、触角葉に表現された匂い情報がランダムに入力され足し合わされることで、キノコ体神経細胞の高い選択的応答性が生まれることが分かりました(図2)。
図2 キノコ体神経細胞の高い選択的応答性を生み出す情報処理のメカニズム
- A.触角葉の神経活動からキノコ体の神経活動を説明する数理モデル。個々のキノコ体神経細胞は、触角葉の神経細胞から平均七つのランダムな入力を受け(1)、入力の数に反比例した重みのシナプスを介して(2)、足し合わされ(3)、全ての神経細胞の活動に比例した抑制を受ける(4)。神経発火の閾値は、非線形なランプ関数で規定される(5)。
- B.実際のキノコ体神経細胞の匂い応答(左)と数理モデルで予測したキノコ体神経細胞の匂い応答(右)の比較。匂いの混合物とそのコンポーネントに対する124個の神経細胞それぞれの応答の大きさを、色温度で示している。匂いの混合物に選択的な応答が、数理モデルでも生み出される。
また、このように触角葉とキノコ体の間ではランダムな情報の選択と統合が行われているにもかかわらず、キノコ体におけるさまざまな匂いの表現は個体間で保たれていることを発見しました。つまり、個体が異なってもさまざまな匂いは、同様に脳内に表現されることが示されたのです(図3)。
図3 キノコ体におけるさまざまな匂い表現の関係性は個体間で保たれている
キノコ体神経細胞全体の15個の異なる匂いに対する応答を五つの個体で記録し、それぞれの個体で、全ての匂いの組み合わせについて、応答の相関係数を色温度で示したマトリックス。匂い表現の関係性が個体間で保たれている。
- 注1)2017年7月20日プレスリリース「匂いの素早い検出と濃度の弁別に優れた細胞タイプを発見」
今後の期待
嗅覚回路の機能やその基本的な配線図は、ハエからヒトまで共通であることとから、本成果は、自然界のさまざまな匂いをそれぞれ固有の匂いオブジェクトとして知覚するための普遍的な脳内情報処理の理解につながると期待できます。
また本研究は、直接結合した二つの脳領域に属するほぼ全ての神経細胞から、一細胞の分解能で網羅的に活動を計測した先駆的な成果です。本技術を適用することによって、今後さまざまな脳領域での情報処理の研究が、一細胞および細胞集団の双方のレベルで飛躍的に進展すると期待できます。
補足説明
- 1.触角葉
ハエの嗅覚一次中枢。匂い受容体を発現する嗅覚神経細胞から入力を受け、その情報を、二次中枢へと伝える。哺乳類の嗅球と相同な脳領域。 - 2.キノコ体
ハエの嗅覚二次中枢の一つ。嗅覚学習・記憶に関与することが知られている。哺乳類の梨状皮質と類似した機能を持つと考えられている。 - 3.汎化
ある特定の刺激と結びついた反応が、類似した別の刺激に対しても生ずる現象。 - 4.カルシウムイメージング法
カルシウムイオンの濃度に応じて明るさが変化する蛍光分子を用いて、細胞内のカルシウムイオン濃度を計測する方法。神経細胞が興奮するとカルシウム濃度が上昇するので、神経細胞の活動を調べる方法として広く用いられている。 - 5.神経応答空間
個々の神経細胞の活動を軸とした多次元空間。特定の刺激情報はその刺激に対する個々の神経活動に基づいて、この多次元空間の一点に位置付けることができる。 - 6.線形分類器
データを特徴量の線型結合の値に基づいて、異なるグループに分ける確率的分類器。機械学習によって、事前に与えたデータを異なるグループに分けるよう、それぞれの特徴量の重み付けを変化させる。こうして学習させた分類器に、新しいデータを分類させ、その正答率を評価することで、元のデータの線形分類のしやすさを検定する。ここでは、個々の神経細胞の匂い応答を特徴量として用いる。 - 7.相互情報量
二つの確率変数の相互依存の尺度を表す量であり、ここでは、匂いの選択性と、匂い応答の確率分布の類似度を示す。
研究支援
本研究は、日本学術振興会(JSPS)科学研究費補助金 基盤研究(C)「キイロショウジョウバエmushroom bodyにおける経験依存的な嗅覚情報認知(研究代表者:遠藤啓太)」、同若手研究(A)「匂い記憶を支える神経機構の解明(研究代表者:風間北斗)」、同新学術領域公募研究「メゾスコピック神経回路から探る脳の情報処理基盤(研究代表者:風間北斗)」、同基盤研究(B)「高次嗅覚中枢における匂い嗜好の情報処理と回路メカニズム(研究代表者:風間北斗)」、同挑戦的研究(萌芽)「発行計測技術の開発による求愛学習中のドーパミン細胞のダイナミクスと機能の解明(研究代表者:風間北斗)」、および花王株式会社の支援を受けて行われました。
原論文情報
- Keita Endo, Yoshiko Tsuchimoto, Hokto Kazama, "Synthesis of conserved odor object representations in a random, divergent-convergent network", Neuron, 10.1016/j.neuron.2020.07.029
発表者
理化学研究所
脳神経科学研究センター 知覚神経回路機構研究チーム
研究員 遠藤 啓太(えんどう けいた)
研究員 高木(槌本)佳子(たかぎ つちもと よしこ)
チームリーダー 風間 北斗(かざま ほくと)
報道担当
理化学研究所 広報室 報道担当
お問い合わせフォーム