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2020年8月21日

理化学研究所

アトモーラーセンシングを実現

-東京ドーム10個分の水から目薬1滴分の物質を検出-

理化学研究所(理研)光量子工学研究センター先端レーザー加工研究チームの杉岡幸次チームリーダー、白石(バイ・シ)基礎科学特別研究員らの研究チームは、表面増強ラマン散乱(SERS)[1]分析の新しい手法である「液界面支援SERS分光法」を開発し、濃度10アトモーラー[2](aM、1aMは100京分の1[10-18]モーラー)以下の超微量物質の検出に成功しました。これは東京ドーム10個分の水に、目薬1滴分の液体を滴下した濃度に相当します。

本研究成果は、超高感度で迅速な物質分析、病理診断、環境測定、食品安全管理などを実現させ、COVID-19などのウイルス感染検査への応用も期待できます。

今回、研究チームは、これまでに開発した3次元マイクロ流体SERSチップを用い、従来の手法に比べてラマン散乱増強度[3]を6桁向上する新しい手法を提案しました。まず、作製したチップに染料のローダミン6G[4]溶液を導入し、流体チャネル内に形成されたSERS基板にラマン分光用のレーザーを集光照射することで、SERS測定を行います。測定開始時は、SERS基板全体が液体試料に覆われているため、従来のSERS測定(ラマン散乱増強度7.3×108倍)が行えます。時間経過に伴い液体試料の蒸発が進むと、レーザー光が照射されている領域に、液体と空気の界面が形成されます。この状態でSERS分析を行うと、急激にラマン信号が増大し、1.5×1014倍のラマン散乱増強度が得られました(液界面支援SERS: LI-SERS)。その結果、濃度10-17M(10aM)のローダミン分子の検出に成功しました。

本研究は、科学雑誌『ACS Applied Materials & Interfaces』に近日掲載予定です。

背景

「表面増強ラマン散乱(SERS)」は、ナノスケールの構造を持つ貴金属の表面に分子が吸着したとき、バルク基板上と比べてラマン散乱の強度が大きく増幅される現象であり、高感度分析手法として、微量物質分析、病理診断、環境測定、食品安全管理など広い分野で利用されています。

理論上は、従来のバルク基板上のラマン散乱と比較して、一兆(1012)倍以上ラマン散乱の強度が増強されると考えられていますが、実際のSERS分析においてはほとんどの場合、増強度は100万~1億(106~108)倍程度であり、フェムトモーラー[2](fM、1fMは1000兆分の1[10-15]モーラー)レベル以下の濃度の物質を検出することは困難でした。

fM以下の検出を行う手法として、溶液中に高密度で金属のナノ粒子を分散させ、溶液が蒸発することで金属のナノ粒子同士の自己組織化によって形成されるナノギャップを利用したSERS分析法が開発されました。しかしこの手法では、溶液が完全に蒸発してしまうと金属ナノ粒子同士は完全に凝集してしまい、大きな増強度は得られなくなります。この手法は、測定中の一定の間だけfM以下の検出ができるため、「ダイナミックSERS」と呼ばれています。

今回研究チームは、ナノ周期構造を持つ金属薄膜上での新しい形態のSERS分析方法(液界面支援SERS: LI-SERS)を提案し、10アトモーラー(aM、1aMは100京分の1[10-18]モーラー)以下の濃度の超微量物質の検出を試みました。

研究手法と成果

研究チームは、LI-SERSを実行するために、これまでに開発した全フェムト秒レーザー加工技術で作製した3次元マイクロ流体SERSチップ注1)を用いました。チップの作製では、まず感光性ガラスのフェムト秒レーザー直描[5]後、フッ酸エッチングを行い、3次元流体構造を形成しました(図1(a)(b))。その後、同じフェムト秒レーザーを用いて、流体構造内部を選択的にアブレーション[6]し、無電解メッキを施すことにより、アブレーション領域のみに選択的に金属薄膜を堆積させました(図1(c)(d))。まず銅を堆積し、その後銅を銀で被覆しました。銅の堆積は、ガラス基板と金属の強い接合強度を得るために必要であり、銀はSERSに一般的に用いられる金属の一つです。その後、直線偏向[7]のフェムト秒レーザー光を、堆積した金属薄膜にアブレーション閾値程度の強度で照射し、周期的ナノリップル構造[8]を形成し、SERS基板として用いました(図1(e))。

全フェムト秒レーザー加工技術によるマイクロ流体SERSチップの作製手順の図

図1 全フェムト秒レーザー加工技術によるマイクロ流体SERSチップの作製手順

まず、(a)感光性ガラスにフェムト秒レーザー直描後、(b)フッ酸エッチングにより3次元流体構造を形成する。(c)同じフェムト秒レーザーを用いて、流体構造内部を選択的にアブレーションし、(d)無電解メッキを行うことにより、アブレーション領域のみに選択的に金属薄膜(銅と銀)を堆積させる。(e)直線偏向のフェムト秒レーザー光を、堆積した金属薄膜にアブレーション閾値程度の強度で照射し、周期的ナノリップル構造を形成する。

作製した3次元マイクロ流体SERSチップに、テスト試料として染料の一種であるローダミン6G(R6G)溶液を導入し、SERS測定を行いました。SERS測定は、ラマン分光用のレーザーを流体チャネル内に形成されたSERS基板上に集光照射して行いますが、測定開始時はSERS基板全体が液体試料に覆われているため、従来のSERS測定ができます。1次元の周期的ナノリップル構造を用いた従来のSERS測定におけるラマン散乱増強度は1.1×108倍ですが、R6Gの検出限界が10-9Mのため、濃度が10-11MのR6Gからのラマン信号は検出できません(図2横軸0~30秒)。時間の経過に伴い液体試料の蒸発が進み、SERS基板上のレーザー光が照射されている領域に、液体と空気の界面が形成されます(図3)。

この状態でSERS測定(LI-SERS)を行うと、急激にラマン信号強度が増大し、一定の間(図2横軸100~280秒)増大した安定なラマン信号強度が得られます(ダイナミックモード)。このときのラマン散乱増強度は、3.2×1013倍と見積もられました。さらに時間が進むと、界面がレーザー光の集光領域から徐々に離れていくため(図3の左側方向)、ラマン信号強度も徐々に減少しますが、完全にレーザー光照射領域の溶液が蒸発した後(図2横軸450秒以降)は、再びほぼ一定の信号強度を示します(スタティックモード)。このときのラマン散乱増強度は1.5×1012倍となり、ダイナミックモードより1桁小さくなりますが、それでも従来のSERS測定の場合よりはるかに強い信号強度を得ることができます。

濃度10-11 Mのローダミン6(R6G)のラマン測定における信号強度の経時変化の図

図2 濃度10-11Mのローダミン6(R6G)のラマン測定における信号強度の経時変化

3次元マイクロ流体SERSチップ中で、濃度10-11MのR6Gのラマン測定を行った。測定時間0~30秒においては、SERS基板全体が液体試料に覆われているため、従来のSERS測定モードとなり、R6Gからのラマン信号は検出されない。時間の経過に伴い液体試料の蒸発が進み、液体と空気の界面がレーザー光の照射されている領域に到達すると、急激にラマン信号強度が増大し(測定時間30~100秒)、その後一定時間増大した安定なラマン信号強度が得られる(測定時間100~280秒)。さらに時間が進むと、界面がレーザー光の集光領域から徐々に離れていくため、ラマン信号強度も徐々に減少するが(測定時間280~450秒)、完全にレーザー光照射領域の溶液が蒸発した後(測定時間450秒以降)は再びほぼ一定の信号強度を示す。

LI-SERS実施形態の模式図の画像

図3 LI-SERS実施形態の模式図

3次元マイクロ流体SERSチップに液体試料を導入した直後は、チャネル内に形成されたSERS基板は完全に液体試料で覆われている。時間の経過に伴い液体試料の蒸発が進み、SERS基板上でレーザー光が照射されている領域に、液体と空気の界面が形成される。この状態でSERS測定を行うのがLI-SERSである。

LI-SERSにおけるラマン信号強度の増強メカニズムは、まだ完全には分かっていませんが、ダイナミックモードでは、レーザー光が金属に照射されたことで熱が生まれ、その温度勾配によって溶液中でマランゴニ対流[9]が生成され(図4)、R6G分子がSERS基板上のレーザー光が照射されている付近に凝集するからではないかと考えられます。一方、SERS基板付近に集まった一部のR6G分子は、液が蒸発した後もSERS基板上にとどまり、スタティックモードによる分析を可能にすると考えられます。実際、LI-SERS測定終了後、レーザー照射領域に残存堆積物があることを確認しています。

LI-SERSメカニズムのシミュレーションによる解析の図

図4 LI-SERSメカニズムのシミュレーションによる解析

  • (a)マイクロチャネル内に形成されたSERS基板上で、液体と空気の界面が形成される様子を観察した光学顕微鏡写真。左側がR6G溶液。
  • (b)界面近傍のSERS基板上X-Y平面(チャネル底面に平行な面)における溶液中の温度分布、および温度勾配によって生じる対流(マランゴニ対流)のシミュレーション結果。

ラマン散乱増強度をさらに上げるために、SERS基板として用いた金属の周期的ナノリップル構造に偏向方向を90°回転したフェムト秒レーザー光を再び照射し、2次元の周期的ナノドット構造を形成しました(図5)。形成されたナノドットの平均サイズは約200ナノメートル(nm、1nmは10億分の1メートル)で、各ドット間の間隔(ギャップ)は約50nmです。

直交する直線偏向のフェムト秒レーザー光照射により形成した周期的ナノドット構造の図

図5 直交する直線偏向のフェムト秒レーザー光照射により形成した周期的ナノドット構造

試料(銀/銅薄膜)を真上から観察した走査型電子顕微鏡写真。ナノドットの平均サイズは約200nm、各ドット間の間隔(ギャップ)は約50nmである。

2次元の周期的ナノドット構造を用いた従来のSERS測定におけるラマン散乱増強度は7.3×108倍ですが、LI-SERS測定では、1.5×1014倍のラマン散乱増強度を達成しました。その結果、濃度10-17M(10aM)のR6Gの検出に成功しました(図6)。得られたラマン散乱増強度は、これまで行われたSERS分析と比較して最大で、R6Gの検出限界は最小の濃度を達成しました。

周期的ナノドット構造を用いた10-17MのR6G溶液のLI-SERS分析結果の図

図6 周期的ナノドット構造を用いた10-17MのR6G溶液のLI-SERS分析結果

2次元の周期的ナノドット構造を用いたLI-SERS測定(赤線)では、10-17MのR6G溶液に対して、1365cm-1および1510cm-1にR6Gに起因したラマン信号が観察される。一方、1次元のナノリップル構造(黒線)では、10-16MのR6Gに対しても明確なラマン信号は検出されない。

LI-SERSは、他の物質でも超高感度の分析ができることを確認しています。今回のLI-SERS分析は、マイクロ流体チップを用いて行いましたが、マイクロ流体チップは必須ではなく、多様なSERSチップを用いて行うことができます。一方、高い増強度を得るためには、液体試料の厚さを制御することが重要であり、マイクロ流体チップを用いれば、マイクロチャネルの高さで液の厚さを容易に制御できるため、LI-SERSには有効なツールであると考えられます。

今後の期待

今回開発したLI-SERSは、これまでのSERS分析では達成できなかった桁違いに大きいラマン散乱増強度や超微量の検出限界を実現します。LI-SERSは、SERS分析の形態を提供するものであり、ラマン散乱増強度や検出限界は用いるSERS基板の性能に依存します。従って、金属ナノ構造のギャップ間隔をさらに短くしたSERS基板や、3次元の金属ナノ構造を持つSERS基板を用いることで、ラマン散乱増強度と検出限界のさらなる向上を図ることが可能です。

本研究成果は、これまでにない超高感度のSERS分析を実現し、迅速な超微量物質の検出、病理診断、環境測定、食品安全管理などへの応用が考えられます。さらに、COVID-19などのウイルス感染検査への応用も期待できます。

補足説明

  • 1.表面増強ラマン散乱(SERS)
    ナノスケールの構造を持つ貴金属などの表面に分子が吸着したとき、バルク基板上と比べてラマン散乱の強度が大きく増幅される現象。SERSは、Surface-Enhanced Raman Scatteringの略。
  • 2.アトモーラー(aM)、フェムトモーラー(fM)
    モーラー(M)は濃度を表す単位で、1Mは1mol/L。アト(a)、フェムト(f)は大きさを表す単位で、それぞれ10-18、10-15
  • 3.ラマン散乱増強度
    通常のラマン測定に対して、SERS基板上で得られるラマン散乱信号の増大の割合。モル濃度Corの試料に対する通常のラマン測定で得られる信号強度をIor、モル濃度CSERSの試料に対するSERS基板上での信号強度をISERSとすると、ラマン散乱増強度EFは、EF=(ISERS/IOR)/(CSERS/COR)で与えられる。
  • 4.ローダミン6G
    アミノフェノール類と無水フタル酸を縮合して得られる鮮紅色の塩基性染料。蛍光性があり、蛍光色素やレーザー色素として用いられるほか、分析のテスト試料としても広く用いられている。
  • 5.フェムト秒レーザー直描
    フェムト秒レーザーは、パルス幅が数十~数百フェムト秒のレーザー。パルス幅が極めて短いため、非常に高いピークパワー(パルスエネルギーをパルス幅で割ったもの)を持ち、その結果、透明材料に多光子吸収を誘起でき、透明材料内部の3次元加工を実現する。レーザー直描とは、マスクを使用せずに、集光したレーザー光を走査することにより、一筆書きの要領で任意のパターンを直接描画する照射方法。
  • 6.アブレーション
    固体の表面がプラズマ化し、原子、分子、クラスターが蒸発して固体表面が削り取られる現象。
  • 7.直線偏向
    光などの電磁波は、電場と磁場とが振動しながら進む横波である。電場や磁場が一周期進む間に、電場の向きが光の進行方向の軸の周りを一回転しながら進む光を円偏光、一方、電場の振動面が一方向に限られている光を直線偏光と呼ぶ。
  • 8.周期的ナノリップル構造
    ナノ周期の凹凸の線上の構造。アブレーション閾値程度の直線偏向のフェムト秒レーザーを物質表面に照射すると、波長の1/2~1/10程度の周期構造が形成される。形成される線上の構造は、レーザーの偏向方向に対して垂直である。
  • 9.マランゴニ対流
    温度差などにより、流体表面の表面張力が不均質になることが原因で引き起こされる対流のこと。

原論文情報

  • Shi Bai, Daniela Serien, Ying Ma, Kotaro Obata, Koji Sugioka, "Attomolar Sensing Based on Liquid-Interface Assisted Surface Enhanced Raman Scattering in Microfluidic Chip by Femtosecond Laser Processing", ACS Applied Materials & Interfaces, 10.1021/acsami.0c11322

発表者

理化学研究所
光量子工学研究センター 先端レーザー加工研究チーム
チームリーダー 杉岡 幸次(すぎおか こうじ)
基礎科学特別研究員 白 石(バイ・シ)

杉岡 幸次チームリーダーの写真 杉岡 幸次
白 石基礎科学特別研究員の写真 白 石

報道担当

理化学研究所 広報室 報道担当
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