自分もメンバーも研究の自由を満喫するラボ・マネジメント
肥山 詠美子 室長 (D.Sci.)
理化学研究所 仁科加速器科学研究センター 少数多体系物理研究室
略歴
1993年 | 九州大学 理学部 物理学科卒業 |
1995年 | 九州大学院 理学研究科 修士課程修了 |
1998年 | 同大学院 理学研究科 博士課程修了 博士号取得 |
1995年4月―1998年3月 | 日本学術振興会 特別研究員(DC1) |
1998年 | 理化学研究所 ミュオン科学研究室 基礎科学特別研究員 |
2000年 | 高エネルギー加速器研究機構 助手 |
2004年 | 奈良女子大学 理学部 物理科学科 助教授 |
2007年 | 奈良女子大学 理学部 准教授 |
2008年 | 理化学研究所 仁科加速器研究センター 肥山ストレンジネス核物理研究室 准主任研究員 |
2017年 | 九州大学 理学研究院 教授 |
2017年 | 理化学研究所 仁科加速器研究センター(2018年にセンター名称変更)ストレンジネス核物理研究室 室長 |
2021年 | 東北大学 理学研究科 教授 |
2023年 | 理化学研究所 仁科加速器科学研究センター 少数多体系物理研究室 室長 |
博士号取得時のキャリアビジョン
足立:本プロジェクトは、前理事でいらっしゃった原山先生のご縁で、Elsevier Foundationから支援をいただいて進めているプロジェクトになります。本日はサイエンティフィックなお話というよりも、ラボのマネジメントや新しくリーダーになった方に何か参考になるようなお話が伺えればと思っております。よろしくお願いします。先生の経歴書を拝見しながらご質問させていただきます。先生は1998年に九州大学で博士号を取得されたということですが、その時どのような将来を思い描いておられましたか。
肥山:98年で博士を取った瞬間ですか。何と言ったらいいのかなぁ。あまり考えてなかったです。理研のポスドクで、基礎特研(基礎科学特別研究員)でこちらに行くというのは決まってたんですけれども。ドクターを取ったら、研究者の卵。自分の好きな研究をこれからやれるんだ、ということぐらいしか考えてなかったです。3年間頑張ってみて、その後、次のポストが決まらなかった場合は、また次の道があるんだろうな、と。すごく先を考えるよりも、まずその3年間一生懸命研究をして、その先無理だったらまた次という感じで、まず自分の目先のことを一生懸命頑張ることで精一杯だったなと思っています。
足立:アカデミアの研究者として、一生やっていくという思いは、その時点でお持ちでしたか。
肥山:もちろん漠然となんですが、もしなれたらいいなと思っていました。ただアカデミアの研究者になりたいというのは98年の段階でもやっぱり難しいというか、そんなに簡単になれるものではなかったです。やっぱり人生をもう少し幅広く持てたらいいな、と思ってました。もちろんアカデミアに残るというのも一つの候補ではあったけれど、いろいろな人生があると思ったので、まずは研究を楽しもうとしました。One of them、研究者になりたい、そういうふうには思ってました。
ポスドク・助手時代
足立:そして、基礎特研で3年間理研に。
肥山:1年10か月です。
足立:失礼しました。2000年に高エネ研に助手で行かれたのですね。3年間の任期があったと思いますが、途中で出られたのは何かきっかけがありましたか。
肥山:3年間全部使うというよりは、チャンスがあれば、パーマネントの(任期の定めのない)職があれば、もちろんそこにトライするのが重要だったので、3年の中でどこかあればと思ってました。ちょうど運が良くて、高エネ研(高エネルギー加速器研究機構)の助手のポストが公募になったので、もちろんこれを受けるべきだし、元々高エネ研は実験の関係が自分の研究と非常に近かったので、行きたいポジションの一つでした。それで、アプライ(応募)をしたら非常に運が良いことに受かったので、行かせていただきました。
足立:テニュア(終身雇用ポスト)の助手という形でしたか。
肥山:その当時はオフィシャルにはテニュアなんだけれど、非常に良いポストなので、「7年ぐらいをめどに、どこか別のいい所にプロモート(移籍)しなさい」というような紳士協定がありました。非常に良いポストだから(ずっと居続けるのではなく)人的交流をちゃんと回す(自分は移籍し新しい人にポストを回す)というのは、我々のコミュニティで重要なことだったので、そういうふうに言われて入りました。
足立:ボスの教授がいて、その下の助手でしたか。
肥山:研究室に教授が1人、准教授が3人ぐらい。あと、その当時は助手という職名でしたが、助手が2人から3人いるという、結構大所帯な研究室です。そこの助手として入りました。
足立:その時の研究スタイルは、上司にあたる教授や、准教授の皆さんとのプロジェクトの中という形でしたか。それとも自分のプロジェクトをやっていたのですか。
肥山:自分のプロジェクトを自由にやって良かったです。研究室の雰囲気やポリシーとして、私がいた所は、むしろ皆自由にやって良かったです。教授自身が非常に良い方で、好きにやったらいいという形でした。もし私がその教授とディスカッションで合えば、一緒の共同研究もできるし、というふうな感じで、皆職位はバラバラなんだけど、それぞれが独立した研究者として自由に研究ができるような状況でした。
奈良女子大学の助教授に
足立:先ほど7年間の紳士協定と仰っていましたが、ここも4年後、2004年に奈良女子大の助教授で出られました。どのようなきっかけでしたか。
肥山:紳士協定で7年という中で、良い所があれば出るということで、次のステップは准教授。当時は助教授でしたけれど。私としては大学院生のいる国立大学に行きたいと思っていて、その当時はいくつか候補がありました。ちょうど2004年あたりに、これも巡り合わせみたいなもので、公募があると出すという形でした。たまたま奈良女子大学でちょうど公募が出ていたので、ちょっと早いかなと思ったのですが、そういうご縁がいつどこで出てくるかわからないので、とりあえず出してみた。そうすると、まあこう言うのあれなんですけど、受かっちゃったという感じです。
足立:複数、色々な所に出していた中で、先に一番?
肥山:先に決まった所に行ったという形です。それは私に限らずに、このコミュニティではいくつかこういった、国立大学で大学院生のいる所に当然我々は行きたいので、公募があれば皆さん出します。出して、通った所から順次はまっていく。私もずっと(応募書類を)出してたんですけど、奈良女子大が先に決まったので、奈良女子大の方に先に行くということで決めました。
足立:この助教授というポストは、研究室を1人で持つ、独立したポジションでしたか。
肥山:いえいえ、違いますね。助教授の時は上に教授がおられて、2人体制。教授の下で研究室をマネージするという意味では研究所、高エネ研とは全く違った研究室だったと思います。
足立:今回は上司の方は教授であるということが明確になっていたと。
肥山:そうですね。
自分なりのマネジメント・ルール
足立:高エネ研時代と奈良女子大で、何か研究スタイルが変わりましたか。
肥山:基本的には研究のスタイルはそこまで変わらなかったです。違いは、研究所はあくまで研究をメインにするけれど、大学は教育が入ってきます。講義が入ってきますし、大学院生を持つということは、新たに大学院生と一緒に研究を行うということ。つまり共同研究者で対等だったのが、今度はやはりある程度上下関係が出てきます。そうすると、自分一人でプロとしてワーッと走るだけじゃなく、教えて一緒に伴走する。今まではもうダッシュで、全て頑張るみたいに、世界の最前線に向かって誰が一番に、ってしてたけど、そんなことしてたら学生さんは置いていかれるので、そういうわけにいかない。ある程度歩みを止めながら一緒にやっていく。そういう意味では変わったと言えば、そうですね。どのように変わったかというと、課題を二つに分けました。一つは、高エネ研時代のように、まず自分が最先端で突っ走れるようなものを考える。これは学生さんにやらせると酷なので、自分で持ちます。もう一個はもう少しレベルを下げるという言い方はあれですけれども、やはりある程度ペースを下げ、ゆっくり論文になるような課題を探して、学生さんと一緒にするという形を探す、それを見ながら学生さんを育てる。そういうふうに分けたと言えば、そうなりますね。結構大変でした。
足立:そのようにご自身のルールを作り上げるまでに、結構時間がかかったり、トライ・アンド・エラーをしたりとかありましたか。
肥山:自分が学生だった頃にどうだったかを考えて、当然そうせざるを得ないなと思いました。自分の経験からだったので、そんなに時間がかかることはなかったと思います。私が2004年に奈良女に行った時、まだ32~33歳だったので、まだ学生の時の経験を持ってたんですよね。それもあったので、そんなに時間かからずに、自分が大学院生だった時にどういう気持ちだったかを考えて、やはりある程度ゆっくりやるペースの課題を探さないと次にいけないなという、そういう経験が基だったと思っています。
足立:奈良女子大に移られて、学生さんを持ちますとなった時に、ご自身で考えられて、それで学生さんに対応されていったと。
肥山:はい、そうですね。
PIとして研究室を構えて
足立:奈良女には4年間いらっしゃって、2008年に理研の准主任ポストに応募されたきっかけは、どうでしょう。
肥山:もうこれは、奈良女子大の先生、ごめんなさいという感じです。4年間は頑張ってみたんですが、やっぱり自分もまだ若くて、30代後半にさしかかった時に自分で考えました。研究の方が忘れられない。学生さんを指導する時は、さっき言ったようにペースダウンをして、ある程度我慢をするのは当然だけれども、それに集中すると、もう一方で最先端を走って行きたい自分がある。それを抑えるというのか、最初は我慢していたのですが、段々バランスが取れなくなってしまった。そしてもう一回でいいから、もう一回走ってみたい自分だけで精一杯。いずれ、もう一回大学に戻って教育をすることにはなると思うので、もう一回夢を見させてほしいという思いが強くなっていったんです。そういうポジションがないのかなと思っていたら、2006年か2007年に理研が准主任研究員制度のシステムをちょうど立ち上げる頃でした。その前に、独立主幹研究員制度のシステムがあって、その後に准主任ができて、チラッと見たんですよ。最初、准主任の制度がよく分からなくて、何だろうなと思っていたら、ちょうど森田浩介さんという先輩が准主任で入って楽しそうだったんで、いてもたってもいられなくて、私も応募してみようと思いました。准主任研究員はものすごく応募者が多くて、しかも分野がとても広いです。その中で選ばれるわけだから、相当可能性は低いけど、試してみる価値はある。出したら、まな板の鯉のように、一応審査はされるわけだから、駄目なら駄目でいいかなと思って出してみました。そしたら受かっちゃって、私はあの時一番嬉しかったです。オーディションみたいですよね、戦って勝ち取るみたいで。もう1回チャンスができたんだ、なんだか良いなと思ったので、まずは自分がやりたいことをやってみたいと思ったので、トライする。そうして運が開けたという形で准主任になることができました。
足立:その時初めてご自身の研究室を構えたのですか。
肥山:そうですね。はい。
足立:どんな研究室にしたいと思いましたか。
肥山:私は理論なので、高エネ研の時の雰囲気が忘れられなかったんですよ。職位はバラバラだけれども、物理やサイエンスの前では皆イコール、平等だと思っています。誰が来ても、皆で議論をして、面白いことなら一緒に共同研究をして、物理を盛り上げていくというような研究室にしたいなと思っていたのです。なので自分の研究室は3部屋あると最初に聞いたのですが、一つは絶対にディスカッション部屋を作る。そこでどんな人が来ても自由に研究がやれるように。フラッとやってきて、お茶を飲んで、議論をして、何かインスパイアされて共同研究できるんだったら、それは非常に面白い。そのようなスタイルにする。ポスドクは雇いはするんだけれども、マネージャーとして上下の差はあるかもしれないけれど、責任を持ってはんこを押すだけで、物理ではもう本当にポスドクも皆一緒と思っている。皆も同じように思って、私のことを肥山先生じゃなくて肥山さんと言う。常にイコールで、いろんな物理に関しては一緒に議論をしたい人は議論する。必ずポスドクは私とディスカッションをして、共同研究しなければいけないというルールは作らない。外でもし共同研究したいのであれば、そういう人とすればいいし、必ずそうしなければいけないってわけではない。そういうふうにすることで、きっと面白い物理ができるんじゃないかなと思った。それが当初、私が持った夢で、まさに今もうそういう状態で実現しているように思います。
足立:肥山先生の分野では、ラボのメンバーが出した論文に、肥山先生の名前が載ってないことはありますか。
肥山:しょっちゅうあります、はい。逆に私も、ラボのメンバーとは関係ない人と共同研究をしている。インスパイアされたら一緒にラボのメンバーと共同研究をする。そういう感じで、我々本当に自由なんですよ。結局、自由にならないと面白い物理が出てこないと思います。我々はとにかくアイデア勝負なので、常に気持ちをリラックスさせる。ストレスは与えない。その中で面白い物理が入ってきた時には、良い物理ができると思うから、何々をしなきゃいけないというルールは一切入れない形でやっています。
足立:新しくポスドクを採用する時に、指導とかそういう感じではなく?
肥山:共同研究者です。当然雇用はするし、出勤簿などにはんこは押します。出張する時には承認しないといけないなどいろいろあり、理研のルールとしてのPIはちゃんとやるけれど、それ以外に関してはもう自由にやっていただく。自由になってきなさいと。ご飯を食べながら「自由だよ」と言ってるし、私自身が自由ですから。勝手にどこかに、いろいろな所に共同研究に出かけていくので、「なるほど。肥山さん、ああいうふうにしているんだから、自分もやっていいんだ」と見てもらう。だから、私の背中を見て!そんな感じです。
足立:ポスドクを採用する時の肥山先生の基準、ここだけは満たしていないと採れないな、というのはどこでしょう。
肥山:それはもうはっきりと言えるのは、自立した研究者であること。私はこういうふうに自由なので。一番怖いのは、入ってきたはいいけれど、主従関係で、「課題ください」と言われるのは一番嫌。むしろそれより、「自分はこういうアイデアがあるんだけど、どう?」と言ってくれるようなポスドク、本当にインディペンデントな、独立した研究者を常に雇用したいと思う。そういう人を雇用するからこそ、任期の中で必ず外に出ていけます。そうじゃない人達はずっとそのままいちゃうので、そういうことを常に考えて見てます。この人はキャリアパスとして次に行けそうな人か、というのを見て雇用しています。それに関しては、絶対に譲れないです。
足立:そういう基準で見ていても、どうしても難しかったことはありましたか。
肥山:それはあります。やはり人間は、人を見る目はないなというのもあります。採ってみたはいいんだけれど、「なんか難しいな」と言いながら、なかなか論文は書いてくれないなというようなことはありました。その場合は人それぞれなので、採った自分の責任でもあるわけで、ちゃんと卒業していただかないといけないですから、かなり面倒を見ました。そういう人の次のポストもちゃんと考えながら、共同研究もしました。皆が皆、そういうわけにはいかないところが、なかなか辛いです。
足立:かなり面倒を見られたという部分は、先生からより具体的な課題を出したのですか。
肥山:そうですね、こういうのを、と。だけど、こうしなさいと言うのはよろしくないので、「こういう面白い課題があるんだけど、一緒にやらない?」というような形で持っていって、その人メインで計算をしてもらって、一緒に論文を書くという形で業績を作って、ということはしました。
九州大学へ
足立:理研専任で9年間いらっしゃった後、2017年に九大の教授になられたきっかけを教えていただけますか。
肥山:なかなか難しいところではあるんですけれども。前任の九大の先生からお声がけがありました。リタイアされるにあたって、「次に来てもらえないか」というオファーをされました。何と言ったらいいのかな。理研にも長くいたので、そのままいてもいいんですが、実際、悩んだのは悩んだのです。ちょうど年齢的にもどこかの教授に移って、教育ということもそろそろ考えなきゃいけない時期であったのは確かです。それをちょうど考えていた頃にタイミングがいいというのか、九大の方からオファーがありました。どうしようか悩みましたが、せっかくのオファーだし、母校でもあるので、お断りするということはできないなと思い、お引き受けする形で九大に行くことにしました。
足立:引き続き理研側のラボも非常勤で続けられていて、地理的にも離れていますし、かなり大変な決断をされたのではないかなと思うのですが。
肥山:そうですね。まだ准主任だったので、あの時のルールでは他大学に移るとラボを解散・クローズする、それに当てはまって2年間は引き続き在籍できる。その後は、九大を本務にするという形が、元々のルールでした。(移籍の)少し前に新しい理事長に代わり、いろいろなシステムが変わった頃で、私としても招聘という形で両方を二足の草鞋でできないかと考えました。それで、(所属していた)仁科センターに二足の草鞋ができないかと伺ったところ、それは可能であると(言われました)。九大は国立大学でもありますし、旧帝大でもあるので、良い大学院生を教育することができます。一方で、理研は研究の最先端を行くような場所で、両方の棲み分けがかなりちゃんとできそうだった。確かに地理的に大変だったんですが、可能であればぜひとも私は理研が好きなので手放したくないなと思ったから、そういう形で頑張ろうと思った次第なんです。実際それがワークしていたと思っています。身体的にはかなり大変だったと思いますが、うちの主人がちょうど関東にいるので、もしうまい具合に理研に二足の草鞋を持ってくると、プライベートでもありがたいなと思ったので、私としては非常にハッピーでした。
足立:九大での教育方針は、奈良女の時代と変わらずという感じでしたか。
肥山:方針は同じなのですが、奈良女子大の学生さんは、当時は大学院に行くよりは、むしろ学校の先生になったり就職する人がそれなりにいました。九大の方はほぼ9割が大学院に行く形で、研究職に特化する、したいという興味のある学生さんがいたと思うんです。なので、もう少しレベルの高い考えで行けるので、一緒に走れるような学生さんがいた、レベルを上げていたという意味では、多少変えれたなと思っています。
足立:九大にいらっしゃる時間があるということで、理研側のラボのマネジメントは、どんな工夫をされましたか。
肥山:これはなかなか大変でした。私のラボは、その当時テニュアの室員がいなかったので、全て任期制職員でカバーしなきゃいけないので、誰かに私の代わりをお願いすることができなかったんです。ちょうど定年された先生を客員主管研究員としてお呼びして、私が不在時に私の研究室をマネージしていただけるような方を一人アサインして、研究室を動かすことを考えつきました。東工大をちょうどリタイアされた先生がおられたので、その先生にお願いしたところ、事情を察して承諾していただきました。今もそういう状況で、私が不在の時は、そのように研究室の人達と一緒に、マネージという形でしていただいています。
足立:研究室の皆さんとのコミュニケーション、ディスカッションの面ではいかがですか。リモート活用など。
肥山:もちろんメールベースだったり、オンラインベースだったりします。ディスカッションは、私はどこに行っても、九大時代でも今でもそうですが、月に少なくとも4日は理研にいます。週に1回ペースでは対面で議論ができるので、ディスカッションで非常に難しいと考えたことはないです。結構スムーズに普通にやれていると思います。
足立:九大に移られた後も、研究の質と言いますか、研究上のコミュニケーションの質は保たれていますか?
肥山:全然問題ないです。それは実際、理由があります。別に九大に移ってなくても、理研時代は海外出張が多かったので、(理研に)いなかったんです。彼らにとっては、私が九大に行こうがどこにいようが、多分あまり関係なかったと思います。必要であれば今はZoomがあるけど、昔はSkypeがありました。それを使ってディスカッションも普通に可能。メールも全然何の問題もなくやっています。
東北大学へ
足立:4年後に九大は完全にクローズされて、東北大学に移られたきっかけは何でしょうか?
肥山:本当にアクシデンタルでした。元々私は九大に行くと決めた時、九大で骨を埋めるつもりでいたんです。なので、九大に移った後いろいろな公募があっても、出さなかったです。ところが、本当にアクシデンタルで、東北大学教授の公募が出てしまったんです。これは私の中で想定外で、出ると思っていませんでした。東北大は私の憧れの大学で、自分のやっている研究がハイパー核という原子核についてなのですが、その実験の中心、世界的な中心の研究室があります。自分が九大の大学院生の時からほとんど毎年、東北大の実験室に出かけて議論しています。本当に毎年。論文は一緒に書いてなかったですが、いろいろな実験のプロジェクトを一緒に議論したりしていました。学生の時から、もしそこにポジションがあったら行きたいなと漠然と憧れてたんですよ。でも、そういうことはないだろうなと思っていたら、本当にあった。そうすると、気持ちが抑えきれない。こういう人間なんで、一生懸命理性ではこれは出しちゃいけないんだろうなと思いましたが、これを出さなかったら一生後悔してお墓に入りそうな気がしました。これは無理だ、後悔はしてはいけない。出しても駄目だったら、後悔ではない、これはこれでしょうがない。なので後悔のないように出したいなと思って、出しました。そうしたら通っちゃったんです。どうしていいか分からなかった。皆さんから大変叱られました。私は嬉しかったんです、通ったことは。周りにとっては大迷惑だったと思いますが、今回ばかりはごめんなさいと。そういう理由があって、東北大に行っちゃいました。
足立:九州大学から転出する際は結構いろいろありましたか?
肥山:怒られました、いろいろな方から。そりゃそうですよね。しかも、(在籍期間が)短すぎた。そうは言っても、どういう巡り合わせでくるか分からないですし、ここで諦めたら多分もうチャンスはないでしょうから。皆さんに怒られる理由も重々承知していましたが、皆に怒られても、私は一生後悔する方が絶対無理と思ったので、怒られても出すと決めました。そこはもう分かってた上でした。
足立:東北大学に移られて、非常にハッピーに研究してますか?
肥山:はい。今、楽しくてしょうがないですね。思った通りの人生が歩めてる。私の研究室は建物の10階で、実験の方々がおられるのは6階です。アイデアが浮かぶと、もういても立ってもいられない。10階から6階に降りていって、空いてる部屋に遊びに行くみたいなことをしています。忙しいのは分かっていますが、そういう形であってもちょっと議論したい。とりあえずメールとか電話をかけて、「空いてますか」と。そして、いろいろな話をする。あとは月に1回、合同勉強会を開いていて、そこで思いの丈を一人ずつ喋るみたいな感じで、一人ずつ講師を決めるんです。大体1回2時間ぐらい。そこでいろいろな議論、実験の話をしたり、いろいろな話をしたりします。そうすると、いろいろな面白いアイデアが出てきて、すごい面白いんですよ。もう2時間なんて、私の中では10分で終わるような感じがして毎月楽しい。今度は10月ですが、今からカレンダーを見て、いつかな?みたいに(楽しみにしている)。議論もすごく楽しいです。
足立:東北大でも学生さんを教えつつ、自分の研究も進めつつですか。
肥山:そうですね。ただ、まだ学生さんは持っていないです。今度10月から一人、博士課程の学生さんが来ます、自分の研究室に。そういう人と一緒にこれから共同研究できるのが、すごく楽しいかなと思っています。
自分の研究室を立ち上げたタイミング
足立:先生の経歴を振り返ってみますと、どの時点で自分の研究室を立ち上げる準備ができたり、持ちたいと思われましたか。
肥山:それは奈良女の時ですね。奈良女子大で初めて、研究室の中で教授、准教授という形で、教授と一緒に、教授をサポートしながら研究室を運営していくことになりました。多分これが普通だと思うんですけれども。その前は自由過ぎたというのもありますが、助手なのに自分で勝手に研究をやっていいというか、自由でした。教授は教授だけど、あまり偉い人と思ってないみたいなところがあった。非常に自由にさせてもらった後、そうでないというか、多分ノーマルな所に行ったんでしょうね。それがこう言っちゃあれなんですけれど、窮屈に感じる。もちろん、その先生はすごく良い先生なんです。私の自由なこういう性格を知っているので、自由にやってほしいというのがあるけれど、やはり学生の指導や研究室の中で指導もしなきゃいけないので、そういうわけにいかないことがあります。そのような一つ一つがなんとなく窮屈に感じたので、自分がヘッドに立って全ての責任を持つので、自分の思った通りの研究室を作れないかなとその時に思いました。ちょうど准主任が、まさに「ゼロから立ち上げていいですよ、自分で」という公募でした。その代わり結構厳しいです、お金を獲ってきてポスドクも自分で雇って、すべて自分の責任の下にやりなさいと。だけど、自分の好きなようにやっていい、という自由度がすごくあったので、もしかすると自分の好きな研究室、自分が描いていた夢ができるんじゃないかなと、一つの可能性を考えていました。そうすると、思った通りの研究室が自分で描けたので、非常に理研っていい所だなと思いました。当然、厳しいですよ。厳しいけれど、工夫次第でなんとでもなるから、そういう意味では非常に良かったなと思います。
PIとして嬉しかったこと
足立:PIとして一番嬉しかったことは何でしょうか。自分の研究室を立ち上げて良かったなということは。
肥山:それは多分、こういうことかな。自由を満喫できる(笑)。責任と自由は、ある意味一緒でペアだと思います。自由で他に責任を押しつけるっていうことは、多分ないですよね。だけど、責任をちゃんと持つから、自分の思った通りに自由で、誰に「何しろ」と言われない。その自由が満喫できる。今もそうなんですけど、そういうところかもしれないです。
PIとしての試練
足立:逆に、PIになられて、辛かったこと、苦しかったことは何でしょうか。
肥山:思った通りに人が育ってくれないこと。自立してほしいというのが私の願いですが、必ずしもそうじゃない時に、どういうふうにその人を育てたらいいんだろうと考えると、人それぞれなので、それに自分が合わせて育てていく感じでしょうか。人によるので、毎日が違うんですよ。人によって違うから。だから試行錯誤で、「この人はこういうふうな育て方じゃないと育てない、育たない。でも、この人はこっち」というのは、なかなか難しい。多分子どもと一緒だと思いますが、やはり人は生身なので、育て方、持って行き方、まさに人のマネジメント、人との付き合いが一番難しいなと思います。今後もそういうことは常に起きるんだろうなあと思います。過去でなくて今これから出てくることだろうなと思います。
足立:育て方の中で一番、肥山先生がいろいろ考えて気をつけてされたことは、コミュニケーションや課題の与え方などなのでしょうか。
肥山:できるだけ、私はその人の自尊心やその人となりを傷つけないようにしなきゃいけない。やはり一人の大人なのでそこら辺を気をつけながら、だからと言って、ある程度迎合してはいけない。人と人との距離感を取るのが一番難しいです。それは日本人に限らず、海外の人もそう。世界中から人、ポスドクも来るので、この人に一番合う、マッチするものが何なのかというのを考えなきゃいけない。そこがすごい大変です。
足立:何がマッチするかなというのは、日々の反応を見ながらですか。
肥山:そうですね、コミュニケーションだったりします。だから、実はランチタイムがすごく重要だと思っています。何気なく会話をする中で、この人は何に興味があって、今何に困っているのかが、一番ストレスフリーで聞きやすいです。ディスカッションをしている時は、物理のことで頭がいっぱいで私もついつい夢中になってしまうので、人となりとか性格とか考慮できず、非常に厳しい口調になったりすることがあります。本当はそんなつもりじゃないんですよ。だけど、ランチタイムやお茶をする時は何気ない話で観察をして、この人の性格はどうなのかなとか、こういう言い方だと多分聞いてくれるんじゃないかな、などを考えながら見ていきます。そういう意味で、意識を切り替えるのとランチタイムなどをすごく大切にしています。
足立:育ってほしい人に対する対応方法というのは、経験を積まれるにつれて変わってきたことはありますか。
肥山:それはあります。最初は全然わからなくて、失敗の連続でした。最初はやはり自分が若いのもあり、こうあるべきという理想が頭の中にあって、なんでこの人はしないんだろうと思って、最初は強く言ってしまった。ありがたいことに来なくなる人はいなかったんですけれど、皆さん強いので言い合うこともありました。言い合う中で、「ここは良くない」とはっきり私に言ってくださる。そうすると私もまずいのだと感じて、失敗をしたのだと認識する。そして自分がどうあるべきかインプルーブしながら、修正していきながら今に至る。じゃあこれが完璧かというとそうではないし、どんどん若い人達は世界が変わっていきます。そうすると、価値観も変わってくると思うんですよ。だから、時代の流れと共に私も変わっていかなきゃいけない。ただし、私が絶対に変えちゃいけないことは迎合しないということだけ。PIなので、やはりある程度距離感を持たなければいけない。お友達ではないので、そこはちゃんと考えながら、だけどその人がどうやって成長するのか考え、模索します。そのような感じで考えています。
足立:模索する時に、何かヒントにしていたり、昔のラボの上司を参考にしたりすることはありますか。
肥山:私はないですね、性格も全然違いますので。やはり男女は違う気がします。例えば、私は女性同士だとすごく話しやすいけれど、男性となると、例えばちょっと性格も違うし、考え方も違うような気がするんです。多分、逆もあると思います。多分男性のPIは男性の部下の方がやりやすいけれど、女性の部下に対してはやりづらいなど。多分、差別ではないと思います。区別と言ったらいいのか分からないですが、そのような性差はあると思います。私の知っているPI、上司は全員男性だから、男性がやってきたようにやってしまうと多分駄目だと思います。やはり私は私でやっていかなきゃいけないだろうと思っていて、自分なりに工夫をしてやっています。だから試行錯誤です。だから失敗もするし、成功もしたかもしれない。そう感じることはあります。自分は今、成功しているかどうか分からないですね。
足立:失敗した後のフォローアップは、良い方向に持っていこうと、その時点でどうにかされると思うのですが、どのような形でされますか。
肥山:最終的に彼らが別の所にうまく卒業してもらうことを成功と思うのであれば、そんなに間違ったことはしていないと思います。ただ、どう定義付けるかということなんですよね。例えば、けんかしたことがよくあると思いますが、それが失敗と言うのであれば、次の日は適当にお茶出しに行ってきて、一緒にお茶して、適当にそれはなかったことにする。そういうことはします。私達PIは、ちゃんと次のキャリアパスに皆が到達することを最終地点だと思っている。パーマネント(ポジション)をうまく取ることは本当に素晴らしいけれども、皆が皆そういうわけにいかない。2008年に理研にラボを作ってからもう約10数年になりますけれど、(メンバーの)半分はパーマネントに移って、半分は次の違うポスドクに移って行きました。皆さんどうにかちゃんと生きてくれているし、連絡はついている。これを成功と言って良いのかどうか悩みますが、失敗って何だろうとなりますよね。
研究者としての「ジャンプ」
足立:肥山先生の研究者人生を振り返って、一番の転換点、ビッグジャンプをした所はどこですか。
肥山:それは理研の准主任になった時ですね。そこが全てが変わったなと思いました。PIになって自由にやらせてもらえる自由が本当にあった。自分が変わったと思います。そこから、どうやって共同研究をするかとか意識がものすごく変わりました。
足立:その時にいろいろ模索されたのですか。
肥山:そうですね。自分の予算をどうやって獲ってくるか、自分で勉強しなきゃいけない。ポスドクにどういう人を雇用するか、自分で考えないといけない。私は、誰に相談するわけでもなくて、やはり模索をしていった。最初の2008年から2~3年間は、増えなかったんです、ポスドクの数が。2~3人くらいの体制でやっていた。なかなか増えないのはなんでなんだろうなと思っていたら、気づきました。知られていない、私は。なんで知られてないのかというと、「そうだ、海外にちゃんと行ってないよね」と。私は海外で認知されてないのかもしれないと気づいて、それから海外にガンガン行くようにしました。海外のワークショップでも無理してでも喋る。国際会議だけじゃなくて、国際コラボレーションとか、バーッとエクスパンドするようにしたんです。そうすると、海外から「ポスドク行きたいんですけど」という問い合わせが来るようになって、そこからはワーッと、ポスドクの数が増えていきました。マックスで12人まで増えたのかな、私達のラボ全体が。ここのラボではスペースが足りなくなり、セミナー室を一回崩して、そこにも机を置きました。皆任期制の職員だったので、人数はガタガタ変化がありました。そのように、転換期でどう工夫するか色々と試行錯誤をした理研時代だったかなと思います。
足立:先生自身が海外で研究室を構えようと思ったことはありますか。
肥山:今でもありますよ(笑)。今でももしオファーがあれば行きたいと思っています。だけど、ここにせっかくあるポストなので、ここは維持しておいて、兼任で行きたいなと思っています。そんなこと許してくれるわけないですよね(笑)、という感じですね。
足立:先生の経歴を検索して東工大のホームページを見つけましたが、東工大にもポストをお持ちだったんですか。
肥山:あれは兼任で、ちょうど准主任だった時に、東工大でも学生を受け入れたいと思っていて、連携准教授のポストをいただきました。大学院生に講義をする。それから「学生さんも持てますよ」というチャンスがあったということです。
足立:連携大学院の仕切りの中でですか。
肥山:そうです。
足立:ひとまず私からの質問は以上です。ありがとうございます。
PIとしてラボを構える意義
松尾:肥山先生にとって、PIとしてラボを持つ意味を伺いたいです。例えば、ラボメンバーを共同研究者と仰っていましたが、必ずしもラボを持たなくても共同研究で研究を進めていくということはできるのかなと思いました。肥山先生にとって自分のラボを持つことの意味は何でしょうか。
肥山:夢があって、これを言ってなかったんですけれど。私が自分自身で開発したメソッド、方法があるんです。その方法を武器にして、共同研究を広げていきたいなと思ったんですよ。既に高エネ研や奈良女子大でも、個人ベースでは共同研究をできたけれど、そのメソッドを世界中の人に使ってほしいなと思った時、それだと草の根運動的に一部のローカルには広がるけれど、それ以上広がらないのです。だけど、自分がラボを持ったら、世界中の人達が注目してくれます。なんとか研究室というのがあるわけだから。自分自身の名前が知れ渡る、有名になれば、さらに注目を浴びるんです。そうすると、「このメソッドは面白いに違いない」と思って出かけてくるんじゃないかと考えたんです。だからどうしてもラボを持つ必要があると思った。奈良女の時に感じていて、理研の准主任は何をやってもいいから、自分の夢が叶えられるんじゃないかと思いました。それで、応募したら(合格)できたので、それを今実現すべくやっていて、今まさにそれが開花しつつある。色々な所と共同研究ができて、色々な人が声をかけてくれる。それが私にとってはすごく幸せです。色々な人に私のメソッドに興味を持ってもらい、共同研究してくれる。私も計算をするけれど、いろいろな人が私のコードをもっと発展してくれる。一人でやることは小さいけれど、いっぱい人が集まればいっぱいやれますよね。それが、すごく楽しくて、今もそういうことができるから、リアルタイムでやれるのがすごく楽しいなと思っています。今すごい楽しいですよ。
松尾:よく伝わりました。ありがとうございます。インディペンデントな研究者が条件だと仰っていたんですが、インディペンデントな研究者になるのと、なかなかそこに行けないのと、どういう所で分かれ道があると感じますか。
肥山:多分それは研究が好きかどうか、プロフェッショナルであると自分に自覚があるかどうかじゃないかなと思います。見ていて私は思うんだけれど、物理も他人任せな人、自分の頭で考えない人は、いつまでたっても独立できないなと思います。本当に楽しいのかな物理が、となんとなく感じる。パッションが感じられない。独立している研究者に非常に多いのは、やはり3度の食事よりも物理が面白いというのがなんか出てくるんですよ、影で、オーラで出てくるんです。話していてもすごく楽しいし、そういうのが見えてる。プライドをしっかり持っている、自分はこうあるべきと。何よりもやはりインディペンデントした物理がすごく楽しい。それは第三者からも非常に見えているので、話してみると匂いでもう分かりますよ。「この人は危ない」、「この人は・・・」。たまに間違えますけど、「あれっ」とか。そういうのを感じますね。そこで見分けています。
足立:そのあたりは、採用面接の時点で分かるものですか。
肥山:それは難しいですね。もうちょっと話してみて、例えばお茶をしたりとか、飲んでみたりとか、そういう時になんとなく分かる。面接では隠すんですよ。分かる時もあるけれど、質問とかする時になんとなく分かるけれど、やっぱり分からないこともある。それで失敗するんですよ。一番いいのはやっぱり飲みに行くことかな(笑)。
キャリア選択におけるジェンダーの観点
松尾:先ほど、奈良女子大の人は大学院に進むことはあまり考えていないというお話があったと思いますが、ジェンダーに関する課題で何かお感じでしょうか。
肥山:これがね、難しいんですよ。ジェンダーなのかどうなのか分からない。奈良女子大は、九大もそうですが、歴史があります。特に奈良女子大は元々師範学校、師範大学、学校の先生のための養成大学で、歴史的な背景もあるから、一概に何とも言えないと思います。ただし、一つ言えると思うのは、九大も奈良女も東北大も女子は皆しっかりしてます、生き方に関して。自分のキャリアとして、どうしようということをしっかり考えている。だから就職をする時も、自分の能力をある程度理解して、自分はこうするというのをしっかり立てていってるなと思います。男の人は夢追い人が多い。好きだからやる、みたいな。なので研究者になりたいなと漠然と思うのは、男子が多い。女子は研究者になりたいという人もいるけれど、その前に「待てよ、結婚して、子供もいたら、就職しないとご飯が食べれない」と考え、多分そこでストップがかかっているんじゃないかなと思います。聞いていても、そのような話をするので。男子からはそんな話は聞かないです。「僕はこういうのがしたいんです。素粒子(を研究)したいんです」みたいな。「就職は?」と聞くと、「あ?」みたいな感じなので、そこら辺に性差を感じると思いました。
松尾:女性研究者のロールモデルと言われることが多いと思いますが、女性ならではのPIの在り様みたいなことでお考えがあるとしたら、どんなところでしょうか。
肥山:恐らくですが、きめ細やかさじゃないかなと思います。男性PIは、皆が皆じゃないんですけれども、やはり男性に多いなと思うのが夢追い人。こうしたいというのが、PIにしても(学生にしても)結局同じだと思います。なおかつ男性は、これが本当かどうか分からないんですけど、プロジェクトをやる時に、それを達成するためにはと考えた時に、プロジェクトを遂行することをまず第一の目的にするような気がします。私の場合はどう考えてるかと言うと、当然私もプロジェクトを遂行しなきゃいけないけれど、まず重要なのはそれを遂行するために人ありきだと思います。人に心地良く遂行してもらうには、どうしたらいいんだろう。人は、それぞれ違うじゃないですか。だから、性格を見て、その人に合った所にうまく配置する。当然、目的はプロジェクト遂行ですが、人をベースにしていくためにどうしようと思った時に、まず人の性格をウォッチして、うまく進めるにはどうしたらいいのか。まず私は、そのように考えます。それでうまくやっていきたいと考えています。それが女性じゃないかなと思うんだけど、間違っていたらごめんなさい。
松尾:ありがとうございます。
足立:今までの研究者キャリアで男女の差を突きつけられた場面はありましたか。例えば「女性だから、そのポジションは応募しなくてもいいんじゃない」など。
肥山:なかったですね。それは理由があって、私のやっている研究は主に理論なんですよ。だから体力勝負がほとんどないので、そういう意味で頭脳プレーだけです。そこに私は性差はないと思います。だから、あからさまに男女の差というようなことを言われたことはないです。もちろん、影で何かされているか分からないんだけれども、大っぴらに言われたことはないです。
ワークライフバランス
足立:肥山先生自身の私生活と仕事のバランスというのはどんな感じで、今までやってこられましたか。
肥山:おー、難しいことを。
足立:物理のことを一日中考えているみたいなご発言もありましたが。
肥山:はい、実際そうです。物理のことしか、ほとんど考えていません。本当にもう、うちの旦那に申し訳ないんですよ。よくぞうちの旦那は私を離縁せず、ここまで(一緒に)生きていて、感謝、感謝という感じです。本当なんですよ。うちの旦那の方が偉いなと思うんだけど、よく私に言うんですよ。「ちゃんとプライベートも重要だからね」と言われてるんだけど、つい考えると、ついパソコンに向かって、昨日作ったコードどうなってるかなぁと。「またパソコン開いている」って言って怒られます(笑)。
足立:ラボのメンバーの方々について、ワークライフバランスのケアはいかがでしょうか。
肥山:彼らは自由にやっていただいていいので、ちゃんと取るべき権利、休暇なり何なりはちゃんと取るように言ってますし、彼らは私が言わなくても意識して取ってくれているので、そこは問題ないと思っています。彼らが研究が大事だと思うんだったら(職場に)来るだろうし、プライベートが重要だというのであれば、それも重要だと思っているので、そこに関しては、私はタッチしないようにしています。
PIを目指す若手へ
足立:研究者を目指す若手の方、PIにチャレンジしてもいいのかどうか迷っている方へのメッセージをいただけますか?
肥山:まずPIになぜなりたいのかを考えるべきだと思います。漠然とPIになったところで、大変なだけだと思うんですよ。結局、PIになるってことは、いろんなその他のもろもろの、研究以外のマネージもいっぱいあります。人によっては、それに潰されちゃう人もいると思います。だから、まず最初になぜPIになりたいのか。私の場合は明確にあった。自由(を求めて)ということ。したいことが分かっていたから、PIになりたいと思った。私の場合は理研の准主任のポストを受けたいという、ちゃんとした理由があったので受けました。そういった明確な理由づけ、そしてただ単にやりたいだけじゃなくて、どこの大学か。大学にも色々あります。どこの大学の何になりたい、どうして、というのを考えないと多分潰れると思います。だから、そこを気をつけないといけない。もう一つあるのは、これは若手の人もかわいそうなんですが、年々やっぱりDutyが増える。だから年々大変なんですよね。准教授レベルの人でもやらないといけない雑用がものすごく増えていて、研究時間が本当に減らされる。変な話、ヒラのほうが良かったりするんですよ、本当に。その方が研究時間が確保できる。だから、何でそれをやりたいのかきっちり考えていかないと、研究を本当にしたい人はそこで潰れるので、しっかり考えてほしいなというのが私からメッセージです。
理論物理学の研究室のラボ・マネジメント
足立:理論物理の研究室は、多分生物系の実験をしている研究室とだいぶ様相が違って、生物系だとPIのプロジェクトがいくつもあって、それをこなすために人がこれだけいるとか、大きなラボで色々やる、小さなラボで焦点を絞ってやるみたいなパターンがあると思うのですが、理論物理の場合のラボの適正人数はどんな感じでしょうか。
肥山:私の場合は6人がマックスかなと、今、経験的に思います。まずこれは、分野にもよります。私のラボでは今、運良くパーマネントスタッフが1人いますが、パーマネントはせいぜい1人くらい。その周りが任期制で、うまく回すためには、やっぱり5~6人。この(パーマネント)1人に対して(任期制は)マックス5~6人くらいな感じです。今ぐらいがちょうどいいと思います。我々はプロジェクトといっても、自由にやってます。ただ、先ほど言いましたが、私のメソッドの計算法をさらに発展させるプロジェクトを実は今年から立ち上げました。それがラボ限定ではなく、外にも広く声をかけて、その中で有志を募って作っています。ある程度それが形になったら、興味があればうちの室員の人達もジョイントすればいいなというふうに思ってます。実はそれには理由があって、その計算法の開発は、必ずしも論文が書けるわけじゃないんです。ここのラボは任期制職員なので、外にうまくキャリアパスするためには、グローバルな業績が重要です。業績がカウントできないようなプロジェクトを入れてしまうと、潰れるんですよ。私が今考えているプロジェクト開発は、少し時間がかかって、1~2年のオーダーでかかり、ペーパー(論文)もできるかどうか分からないので、ハイリスクです。そういうプロジェクトに任期制の人を入れるわけにはいかない。なので、外の人とパーマネント職に就いている人や有志を募って、まず根幹の所をうまく作って、それをうまくベースにして、論文という業績が作れると思った時に(任期制の人も)入れたいと思っています。それを考えないと潰れる。人は宝なので、そこを考えながらプロジェクトを作らなきゃいけない。生物だとか、そういう人達はどうプロジェクトを作ってるか分からないですけど、普通PIは、そうやって(メンバーを)外にプロモートするためには業績をちゃんと作って、若手の研究者に業績を出してもらって、外に輩出することを当然考えなければいけないので、そういったプロジェクトでの回し方を考えています。
足立:先ほど最大12人いらっしゃった時期があったと仰っていましたが、最適と言われた2倍にあたります。どんな感じでしたか。
肥山:何て言ったらいいのかな、本当に大変でしたね。誰が誰か分かっていましたけど、プロジェクト、共同研究ごとに、もう毎日ディスカッションで、本当にマックスで大変でした。あの時にもうちょっと減らした方が良いと分かりました。それまでは分からなかった、自分の適性がどのくらいか。研究者を増やしていって、どんどん増えて、マックス12人になった時に、「あ、もう無理」と思いました。自分の中の一番良い人数は、大体6人。そうするとうまい具合に、誰がどのようなメンタルだとか、研究の進め方とかがちゃんと目が届くので、そのくらいがちょうどいいなとそこで経験しました。
足立:共同研究の人も結構たくさんいらっしゃると思うんですけど、どのくらいいらっしゃいますか。
肥山:数えられないくらい(笑)。今、私は12カ国の人と共同研究しています。いつもずっとその人達と継続的じゃなくて、例えばその人のアイデアで共同研究がいったん終わったら、いったんお休み。そして、次はこっちの人と、という感じです。ちょうど昨日も一つ論文を投稿しました。それは韓国の人達とで、いったんお休みになります。もう一つ、中国の人と共同研究していて、論文を書いたのがちょうど昨日戻ってきました。もう一つフランスの人と共同研究していて、それは私がちょうど今、計算しているところです。そんな感じで、それぞれケースバイケースです。
足立:ご自身のエフォートの割き方とか、大変そうですね。
肥山:いや、楽しいですよ(笑)。毎日、物理を考えられるので。私はすごく楽しいし、今日だってディスカッションして、なんか、ちょっと面白そう!みたいな感じになりました。今、いても立ってもいられない(笑)。単純に物理バカなんです。
足立:お時間いただきまして、ありがとうございました。
インタビュー実施:2023年9月8日
インタビュー場所:研究本館 2階211室
RIKEN Elsevier Foundation Partnership Project
撮影・編集 西山 朋子・小野田 愛子(脳神経科学研究センター)
インタビュアー・製作支援 松尾 寛子(ダイバーシティ推進課)
インタビュアー・製作 足立 枝実子(ダイバーシティ推進課)