理事長から皆さまへ
第5期中長期計画2年目を迎えて― 基礎科学の力で未来を拓く ―(2026年4月1日)
いま、人類社会は歴史的な転換点に立っています。
生成AIに象徴される技術革新が急速に進む一方で、気候変動、エネルギー・資源制約、国際紛争、社会の分断など、地球規模で解決すべき課題はますます深刻化しています。
課題の克服には、国籍や文化、世代の違いを超え、人類が協働することが不可欠です。科学の普遍性、知への信頼、新たな可能性の発見がもたらす感動と共感こそが、その確かな基盤となります。
2026年度を迎え、理化学研究所(理研)は第5期中長期計画の2年目に入りました。本計画は、卓越した基礎科学の探究をより良い社会の形成へとつなげることを目的としています。理研は、未知に挑む研究の中で生まれる発見を、研究者だけの喜びにとどめることなく、社会の皆さまと分かち合い、共に生きる未来への希望として育てていきたいと考えています。そのため、分野や組織の壁を越えて、世界の研究機関や産業界、国民の皆さまとの協働をさらに進化させてまいります。
「Computation」に立ち返る
人類が直面している問題はいずれも、要因が複雑に絡み合っています。これらを高次の視点から解きほぐし、新たな次元での解決を探ろうとする方法論が、地球規模で求められています。
いま改めて立ち返りたい概念が"Computation"です。
"Computation"の語源はラテン語の"computare"に遡ります。その語根である"putare"は「整える」「剪定する」「考える」を意味しました。木の未来のありようを想像して枝を剪定するように、不要なものを削ぎ、複雑さから本質を把握し、構造を明確にして理解や必要性の判断が可能な形へ整える思考の営みを指します。そこに接頭辞の"com"がつくことで、「共有できる形に整え、共に考える」という意味が加わります。これに対し、計算を意味するもうひとつの英語 "Calculation"は、古代ローマの算盤に使われた石灰石"calx"や小石"calculus"に由来し、石を並べて数える操作を表しました。
その意味で、Computationは単に規格化された計算ではなく、創造的な実践です。複雑な世界の本質を固有の関係構造として明晰に対象化し、共有可能で活用可能な普遍的な知へと昇華するプロセスです。実験・観測・理論を横断して統合する、科学の実践そのものだと言えるでしょう。
理研が掲げる「つなぐ科学」は、培ってきた総合基礎科学の蓄積の上にComputationの横断軸を加え、分野を越えて新たな知識と学理を創成する挑戦にほかなりません。
計算基盤の進化と量子×HPC
その挑戦の中核にあるのが、次世代スーパーコンピュータ「富岳NEXT」の開発です。ハードウェアからソフトウェア、アルゴリズムにまでいたる革新の総合により、「富岳」の100倍の計算性能を目指しています。この開発は多様な研究分野を横断的に支える基盤となります。
量子技術との融合も"Computation"の重要な柱です。理研では国産量子コンピュータ「叡」を富士通株式会社をはじめとする国内協力機関との連携のもとで開発してきました。2023年11月からは、経済産業省のNEDOプロジェクトとして方式の異なる二つの商用量子計算機を導入し、「富岳」と接続したハイブリッド計算法の研究開発を進めています。
2025年2月にはQuantinuum製イオントラップ型量子コンピュータ「黎明」が和光で本格稼働し、高忠実度量子計算を活用した実証研究が始まりました。同年6月には「IBM Quantum System Two」が神戸の理研 計算科学研究センターに設置され、「富岳」と直接接続した量子・古典融合ワークフローの開発が進められています。10月には創薬や材料科学など具体的応用を目指す量子-HPC連携のテストユーザプログラムが始動し、11月には量子-HPC連携を前提とした次世代スーパーコンピュータの設計構成を決定しました。
2026年度は、こうした基盤を活用し、成果を創出する段階に入ります。量子-HPC統合環境の安定運用と利用拡大を図るとともに、誤り抑制技術の向上やハイブリッドアルゴリズムの高度化を進めます。創薬、材料設計、最適化問題などの具体的テーマで、基礎科学および産業応用につながる成果を目指します。量子と古典が相乗的に機能する次世代計算基盤の実装に向け、準備を加速してまいります。
日米連携の深化とAI for Science
生成AIは、大規模言語モデルを中心にかつてない速度で進化して社会実装が進みましたが、その基盤をなす言語データはいずれ飽和局面に達します。一方で、科学計測から生み出される非言語データは無尽蔵であり、飛躍的に拡大しています。これらを取り込むAI技術の進展こそが、AIの次の段階を切り拓きます。
そのなかで、AI for Scienceの進展が加速しています。それは単なる研究の効率化ではありません。知識創出の主体や方法、スケールそのものにパラダイムシフトをもたらすものです。こうした変化は科学の研究にとどまらず、その成果を活用する社会経済全体の構造転換へと直結するでしょう。
この大変革を正しく捉え、いかに次の時代を主導する立場を確立することができるか。それが、いまの日本の産業戦略・科学技術政策の核心であり、理研として責任をもって貢献していきたいと考えています。
しかし、この変化への対応は一国の努力だけでは完結しません。米国は昨年11月、大統領令として「Genesis Mission」を発表し、科学研究の生産性の倍増を掲げました。その中核に位置づけられているのがAI for Scienceであり、それを支える最先端の計算基盤を国家規模で整備する構想が示されています。
2026年1月27日、理研は米国エネルギー省(DOE)傘下のアルゴンヌ国立研究所、富士通、NVIDIA Corporationとの間で、AIおよびHPC分野における協力協定を締結しました(2026年1月27日お知らせ「理化学研究所、アルゴンヌ国立研究所、富士通、NVIDIAが先端的HPC/AIの推進で協力」)。本協定は、次世代計算基盤の構築と活用、システムソフトウェアや科学・工学アプリケーションの高度化、科学分野におけるAI活用の推進を目的としています。
科学研究にAIという強力な加速装置が組み込まれたいま、基礎研究の成果を待ってから産業が動く時代は過ぎ去りつつあります。研究現場そのものが産業の最前線となり、産業の現場で直面する課題を、基礎科学が新たに問わなければならない局面になっているのです。
日米両国は、国家戦略として推進する「AI for Science」を中核に据え、グローバルな「科学のプラットフォーム」を共に構築するというビジョンを共有しています。理研はこれまでも「富岳」を中核に、計算科学・データ科学・AIの融合を推進し、その基盤としてTRIP(Transformative Research Innovation Platform of RIKEN platforms)事業を展開してきました。気候、防災、創薬、材料科学などで具体的成果が生まれています。
2026年度からは、前述の量子HPCハイブリット環境で導入したGPUと合わせて最新GPU約2000基規模のAIスーパーコンピュータを本格運用します。計算資源の段階的拡充を通じて、「富岳NEXT」や量子基盤と連携した統合的次世代計算環境の構築を目指します。
HPC、AI、量子技術を統合し、科学の方法論そのものを高度化する挑戦は、「つなぐ科学」を世界規模で展開する歩みであり、「Made with Japan」の理念を体現するものです。
地球規模課題と科学の責任
2025年、ブラジル・ベレンで開催されたCOP30では、温暖化対策に関する国際的議論が抑制から適応へと重心を移しつつあることが示されました。排出削減工程表が合意されなかったことに対し、強い懸念や失望の声も上がっていますが、レジリエンスの強化は人類共通の急務です。抑制・緩和策と適応策はいずれも欠かせません。
その両立には、自然と社会の複雑系を理解し、リスクを定量化し、長期的影響を予測する科学的基盤が不可欠です。科学的知見なくして合理的で公正な政策判断の正義は成り立ちません。
理研は、気候、環境、生態系、資源循環、防災などを横断し、「グローバル・コモンズ」の持続可能性確保に資する研究を推進しています。大気・海洋・陸域を統合した高精度シミュレーション、極端気象予測の高度化、都市スケールでの災害リスク評価など、ここでも計算科学が重要な役割を果たします。
未来へ
量子科学技術、スーパーコンピューティング、AI for Scienceを結び、総合基礎科学をさらに前進させる一年が始まります。
それを担うのは「人」です。
若手研究者の育成のため手厚い支援を行うRIKEN Early Career Leaders Program(理研ECL制度)は2023年度に開始され、2025年度公募では応募倍率約70倍という高い関心を集めました。国内外の優れた若手研究者が理研を挑戦の場として志望していることは、私たちの責任の重さを示しています。
理研は、科学の普遍的価値を礎に、アカデミア・産業界との連携を深化させ、未来を担う人材を育て、その総合力で世界規模課題の解決に挑み続けます。
本年度も皆さまのご支援とご協力を心よりお願い申し上げます。
理事長 五神 真
