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2010年10月11日

独立行政法人 理化学研究所

進化的に保存された恐怖反応を制御する仕組みを解明

-脳の手綱核は、恐怖経験に基づく行動の選択に欠かせない-

ポイント

  • 情動に関係する神経回路の機能を分子生物学的手法で解析
  • ゼブラフィッシュを用い、恐怖反応制御における生物共通の神経回路を発見
  • 心的外傷後ストレス障害(PTSD)などの精神疾患における治療の手がかりに

要旨

独立行政法人理化学研究所(野依良治理事長)は、モデル動物ゼブラフィッシュ※1を用いて、脊椎動物に共通して保存されている「手綱核(たづなかく)」と呼ばれる脳部位が、過去の恐怖経験に基づく行動の選択に重要な役割を果たしていることを発見しました。脳科学総合研究センター(利根川進センター長)発生遺伝子制御研究チームの岡本仁チームリーダー、揚妻正和研究員と大学共同利用機関法人情報・システム研究機構国立遺伝学研究所、および大学共同利用機関法人自然科学研究機構生理学研究所との共同研究による研究成果です。

捕食者の出現など恐怖条件下での行動の選択は、動物の生死を左右する非常に重要な反応です。人間社会でも、恐怖やストレスへの応答に関する脳機能とその障害は、心的外傷後ストレス障害(PTSD)などの精神疾患の研究で活発な議論の対象となっています。これまでの研究によって、恐怖経験から学習してその後の行動に反映させる能力は、進化的に広く保存されていることが明らかになってきています。そこで、研究チームは、手綱核と呼ばれる魚類からヒトまで広く保存されている神経核に着目して、脊椎動物の中で最も単純な脳を持つゼブラフィッシュを用いて、手綱核と恐怖経験に基づく行動との関係解明に取り組みました。遺伝子組み換えゼブラフィッシュを用いて手綱核の外側亜核という脳部位の活動だけを神経回路特異的に阻害した結果、驚くべきことに、恐怖経験に対して通常の逃避様行動ではなく、過剰なすくみ行動という異常な行動を示すことを見いだしました。すなわち、過去の恐怖経験に対して再度それを想起させるような状況に遭遇した際、手綱核の外側亜核が、「防御的反応の選択」に重要な機能を果たすことを明らかにしました。

今回の成果は、過去に経験した恐怖やストレスに対する行動の選択に重要な役割を果たす神経回路を解明した世界初の発見となりました。今後、精神疾患の治療へも貢献していくと期待されます。

本研究成果は、米国の科学雑誌『Nature Neuroscience』オンライン版(10月10日付け:日本時間10月11日)に掲載されます。成果の一部は科学研究費補助金とJST 戦略的創造研究推進事業 チーム型研究(CREST)「脳神経回路の形成・動作原理の解明と制御技術の創出」研究領域における研究課題「手綱核による行動・学習の選択機構の解明」(研究代表者:岡本仁)によって得られました。

背景

捕食者の出現など恐怖条件下での行動の選択は、動物の生死を左右する非常に重要な反応です。人間の社会でも、恐怖やストレスへの応答に関する脳機能とその障害は、心的外傷後ストレス障害(PTSD)をはじめとした多くの精神疾患の研究で活発な議論の対象となっています。

これまでの研究で、恐怖に対する記憶やそれに基づいた行動は、扁桃体と呼ばれる脳部位をはじめとするさまざまな脳領域が重要であることが示されてきました。一方で、行動の「選択」そのものを担う神経回路は、今までほとんど知られていませんでした。例えば、その場に凍りつくように動かなくなる「すくみ」行動と、それとは正反対の「逃避」行動では、自然界での生存に関してはまったく異なる結果をもたらしかねません。これまでに、「すくみ」と「逃避」それぞれの行動を担う回路が別々に存在することまでは明らかにされてきましたが、この2つの行動のどちらを選ぶか、という選択にかかわるメカニズムは解明されていませんでした。

恐怖経験についての記憶を獲得する能力は、魚類からほ乳類まで広く保存されています。このため研究チームは、脊椎動物の中で最も単純な脳を持つゼブラフィッシュという魚を用いて、手綱核(たづなかく)という脳の部位について着目して研究を進めてきました(図1)。手綱核は、間脳の神経核で、魚類からヒトまで共通して保存されており、大脳辺縁系の一部と密接につながっています。また、意欲や気分などの調節に重要なセロトニンやドーパミンがかかわる神経系への投射があるほか、中脳の脚間核と呼ばれる部位へと接続しています(図1)。そのため、この手綱核の障害は、PTSDなどの恐怖やストレスへの応答の異常や、統合失調症の発症などに関与するのでないかと推測されていました。

そこで、研究チームは最新の分子生物学的手法を取り入れ、手綱核における神経回路の機能の解明に着手しました。

研究手法

(1)手綱核からの神経回路の可視化方法

手綱核が結合する標的は、脚間核と呼ばれる部位で、正中線上(左右半球の真ん中)に1つだけ存在します。研究チームは2005年に、手綱核から脚間核への神経回路が左右半球間で非対称であることを明らかにしました。手綱核は外側亜核(図1赤の部分)と内側亜核(図1緑の部分)というさらに細かい領域に分けられ、左の手綱核では外側亜核が内側亜核より大きく、右ではその比率が逆転する、というような左右非対称な神経系が構成されています。さらに、手綱核の外側亜核は、主に脚間核の背側と結合し、内側亜核は主に脚間核の腹側と結合して、左右の手綱核からの情報が脚間核へ伝わる過程で背腹方向へ変換されていきます(図1)

研究チームは今回、手綱核から脚間核への神経結合の様子を生きた動物で可視化するために、手綱核の外側亜核と内側亜核の神経細胞でそれぞれ特異的に発現する蛍光タンパク質の遺伝子を組み込んだ遺伝子組み換えゼブラフィッシュを作製し、これらの神経細胞が連絡している脳の領域を観察する系を構築しました。この系を用いることで、手綱核の非対称な神経回路を確認することができます(図2)

さらに、脚間核の背側と腹側のそれぞれが、その先のどの脳部位に接続しているかを観察するために、神経軸索を染めることのできる色素「Neurobiotin」を背側と腹側を区別して注入し、これらの回路の機能を推察する手掛かりとしました。

(2)遺伝子組み換えゼブラフィッシュによる特定の神経回路活動の抑制

これまで、特定の神経回路の機能を解析するには、外科的切除や神経毒素の注入によって神経系を破壊された動物がどのように行動するかを観察する方法が用いられていました。しかしこのような方法では、隣接するほかの脳部位への影響を完全に回避することができず、また破壊の度合いをそろえることが困難なため、その脳部位と行動異常との因果関係がはっきりしませんでした。特に手綱核に関しては、外側亜核、内側亜核という投射先のまったく異なる部位が隣接しているため(図12)、従来の手法ではそれぞれの機能を区別して観察することができませんでした。仮に外・内側亜核それぞれが反対の機能を持つ場合には、両方を破壊してしまうと破壊効果を打ち消し合う状況にもなりかねません。そこで、研究チームは遺伝子組み換え技術を応用し、手綱核外側亜核の神経回路だけに破傷風毒素の遺伝子を発現させることによって、この神経回路の情報の伝達を特異的に阻害する手法を確立しました。

(3)ゼブラフィッシュを用いた恐怖条件付け学習の実験系を確立

手綱核の機能を解析するために、ゼブラフィッシュの恐怖条件付け学習の実験系を新たに確立しました。この実験は、10cm四方の水槽の中にゼブラフィッシュを入れ、赤い光と侵害刺激(恐怖)である弱い電気刺激を同時に与えます(図3)。するとゼブラフィッシュは、次第に赤い光を見ただけで電気刺激が来ることを予想するようになり、この一連の恐怖条件付け学習が成立した魚では、逃避様行動を示すようになります。これは予測される嫌な刺激に対する1つの防御反応であると考えられ、学習前ではほとんど見られません。研究チームはこの実験系を用いることで、手綱核の機能を調べました。

研究成果

(1)手綱核の外側亜核は恐怖やストレス応答に重要な神経系へとつながっている

脚間核の背側に特異的に色素「Neurobiotin」を注入したところ、ここからの結合が明らかになった部位は、ほ乳類の「背側被蓋部」に相当する部位でした(図1右)。背側被蓋部は、脅威や性的衝動に基づく本能的行動の中枢で、恐怖やストレスに対して「逃避行動」や「すくみ反応」といったさまざまな防御反応に関与することが知られています。興味深いことに、「逃避行動」と「すくみ反応」は、動物の行動としては正反対の反応であり、自然界ではこの選択によってまったく異なる結果をもたらしかねません。従って、「手綱核の外側亜核 → 背側の脚間核 →背側被蓋部」の経路が、この「行動の選択」に重要ではないかと考えました。

一方、腹側の脚間核は、「縫線核」と呼ばれるセロトニン神経細胞を含んだ戦略的行動プログラムの成立にかかわる脳部位に投射しており、背側被蓋部へはほとんどつながっていませんでした(図1右)。従って、手綱核内側亜核からの神経回路は、外側亜核からの経路とはっきり区別された経路を持つことが分かりました。

(2)手綱核の外側亜核は、恐怖条件下での行動の選択に重要である

そこで、背側被蓋部の上流に位置する手綱核の外側亜核が「行動の選択」に重要ではないかと作業仮説をたて、通常の個体では逃避様行動を示す恐怖条件付け学習を、手綱核の外側亜核の活動を阻害した遺伝子組み換え体を用いて行いました。すると驚くべきことに、逃避様行動ではなく、過剰なすくみ行動を示すことが分かりました(図3下)。さらに詳細な解析から、このような行動の違いは条件付け学習を行う前では見られず、恐怖の経験に依存した反応であることが分かりました。一方、手綱核の外側亜核の活動を阻害しても、基本的な行動量や電気ショックへの感受性などへの影響はありませんでした。また、恐怖の感じやすさを示す指標でも顕著な異常は見られませんでした。これらの結果から、手綱核の外側亜核を介した左右非対称な神経回路は、恐怖やストレスの経験の後でそれらを示唆するような状況下に再度遭遇した際の行動選択に重要であることが明らかとなりました(図4)。このことは、手綱核の外側亜核が正常に機能しない場合には、恐怖の経験が通常とは異なる(異常な)反応をもたらしかねないことを示唆しており、もしかするとトラウマのようなものとも関係しているかもしれません。

今後の期待

今回の成果は、手綱核外側亜核とそれを介して処理される情報が、動物の恐怖条件下における行動の選択を制御していることを示しています。手綱核は魚類からヒトまで共通して保存された神経核であることから、研究チームが示したような手綱核の機能も進化的に広く保存されていると考えられます。過去の恐怖・ストレスへの応答という点から、心的外傷後ストレス障害(PTSD)のような精神疾患との関連性も推察でき、今後、手綱核とそれを取り巻く神経系研究を詳細に進めることで、精神障害に対する治療へも貢献すると考えられます。また、単純なモデル動物を用いた分子レベルでの研究により、手綱核の正常な機能が恐怖条件における行動の選択に重要であることを示したという点で、モデル動物としてのゼブラフィッシュの新たな可能性を切り開きました。

発表者

理化学研究所
脳科学総合研究センター 回路機能メカニズムコア 発生遺伝子制御研究チーム
チームリーダー 岡本 仁(おかもと ひとし)
Tel: 048-467-9712 / Fax: 048-467-9714

お問い合わせ先

脳科学研究推進部
Tel: 048-467-9757 / Fax: 048-462-4914

報道担当

理化学研究所 広報室 報道担当
Tel: 048-467-9272 / Fax: 048-462-4715

補足説明

  • 1.ゼブラフィッシュ

    ゼブラフィッシュ(Danio rerio)は小型熱帯魚で、飼育が容易、多産、世代交代期間が短いなどの特長を持ち、これまでは主に発生生物学の実験などにモデル実験動物として用いられてきた。

    ゼブラフィッシュの画像

手綱核から脚間核、およびその先への投射パターンの図

図1 手綱核から脚間核、およびその先への投射パターン

手綱核の外側亜核および内側亜核は、脚間核への投射を持ち、左右非対称な投射を示す。外側亜核は脚間核の背側を介して背側被蓋部へとつながっている(赤色の神経回路)。それに対し、内側亜核は脚間核の腹側を介して縫線核へとつながっている(緑色の神経回路)。これらの構造は、ゼブラフィッシュを含む魚類からほ乳類まで進化的に広く保存されている(相澤、岡本ら(2005)Current Biol.;相澤、岡本ら(2007)Developmental Cell;天羽、岡本ら (2010) J.Neurosci)。

遺伝子組み換えゼブラフィッシュの手綱核とその脚間核への投射の図

図2 遺伝子組み換えゼブラフィッシュの手綱核とその脚間核への投射

遺伝子組み換え技術により、手綱核の外側亜核と内側亜核のそれぞれに特異的な遺伝子の発現を誘導することを可能とした。外側亜核に赤色の蛍光タンパク質(DsRed)を、内側亜核には緑色の蛍光タンパク質(GFP)を発現させ(左)、それぞれの神経細胞が特異的に脚間核の背側、および腹側に投射していることを確認した(右)。

手綱核操作魚での恐怖行動選択の異常の図

図3 手綱核操作魚での恐怖行動選択の異常

上:ゼブラフィッシュ恐怖条件付け学習の装置。メッシュ状のステンレス電極を両側に持つ水槽に魚を入れ、赤い光(条件刺激)と弱い電気ショック(非条件刺激)を同時に与えることで、魚は赤い光は電気ショックを伴うことを次第に学習し、ついには赤い光を見ただけでも電気ショックが来るかのような反応を示すようになる。

下:上述の実験課題を野生型の(遺伝子組み換えをしていない)魚で行うと、赤い光に対して逃避様行動を示した(左)。しかし、遺伝子組み換え技術により手綱核の外側亜核の活動を阻害すると、まったく逆に動きを止めて、すくみ行動を示した(右)。これらはいずれも学習前には見られない行動である。

手綱核外側亜核から背側被蓋部への神経回路とその役割の図

図4 手綱核外側亜核から背側被蓋部への神経回路とその役割

恐怖条件付け学習を行った個体での、条件刺激(赤い光、電気ショックを連想させる)に対する行動の選択に、手綱核外側亜核を介した神経回路が重要であることが明らかになった。このような恐怖やストレスに対する応答を正しく制御することは、自然界や人間社会において非常に重要である。

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