ポイント
- 薬剤の標的酵素の働きだけを抑制した「細胞内イノシトール枯渇マウス」を探索
- このマウスに気分安定薬のリチウム投与時の行動変化と顎の形成不全が出現
- 細胞内イノシトール枯渇マウスは新規薬剤の開発や顔面形成メカニズムの解明に有用
要旨
理化学研究所(理研、野依良治理事長)は、躁うつ病(双極性障害)の治療に用いられるリチウム(気分安定薬[1])のビタミン様物質「イノシトール」を介した作用メカニズムの一端を解明しました。また、イノシトールの合成経路が哺乳類の下顎の形成に関わることを発見しました。これは、理研脳科学総合研究センター(利根川進センター長)分子精神科学研究チームの大西哲生研究員と吉川武男チームリーダー、理研バイオリソースセンター(BRC小幡裕一センター長)新規変異マウス研究開発チームの権藤洋一チームリーダー、国立精神・神経医療研究センター(樋口輝彦理事長)精神保健研究所精神生理研究部の三島和夫部長らの共同研究グループの成果です。
2大精神病の1つとされる躁うつ病では、一生の間に躁状態とうつ状態の極端な気分の「波」が繰り返し起きる疾患です。治療には、気分の波を穏やかにする気分安定薬が用いられます。リチウムは、気分安定薬として最も古い歴史を持ち、ある種の酵素の働きを抑える効果があることが分かっています。しかし、その作用メカニズムは分かっていませんでした。
共同研究グループは、栄養ドリンクにも添加されるイノシトールを合成する酵素「イノシトールモノフォスファターゼ」に着目しました。そして、理研BRCの遺伝子変異マウスライブラリー[2]から遺伝子レベルでこの酵素の働きを抑制した「細胞内イノシトール枯渇マウス」を発見し、どのような変化が現れるかを観察しました。その結果、動きが活発になり、1日の活動リズム(概日リズム[3])が延びました。これは、正常マウスにリチウムを投与した際に現れるものとよく似た変化でした。この結果から、気分安定薬としてのリチウムの作用は、イノシトールモノフォスファターゼの働きを抑えることによるものと推察できました。また、細胞内イノシトール枯渇マウスでは、下顎の形成が極めて不良であることが分かり、細胞内でイノシトールを合成する生化学的経路は顎の発育にも関与していることが判明しました。今後、細胞内イノシトール枯渇マウスを利用することで、新規薬剤開発や顔面形成のメカニズムの解明が進むと期待できます。本研究成果は、米国の科学雑誌『Journal of Biological Chemistry』に掲載されるに先立ち、オンラインに近日掲載されます。
背景
精神疾患の1つである気分障害は患者数が多く、罹患すると患者の生活の質(QOL:Quality of Life)の低下に加え、医療コストも増加するため、社会問題化しています。気分障害の中でも躁うつ病は、約1%の人が罹患する可能性のある比較的ありふれた疾患で、「うつ」状態と「躁」状態が周期的に繰り返されることから双極性障害とも呼ばれています。治療には「気分安定薬」が使われています(図1上)。気分安定薬は、抗うつ薬だけでは治療効果が十分でない難治性のうつ病(躁うつ病とは異なり、躁状態は現れない)の患者に対しても用いられることがあります。
リチウムは半世紀以上にわたって使われてきた代表的な気分安定薬ですが、気分安定効果がどのような仕組みによって発揮されるのか分かっていませんでした。ただ、「リチウムが細胞内の酵素の働きを抑制し細胞内の情報のやりとりを調節することが重要」とする仮説がいくつかあります。その1つが「イノシトール枯渇仮説[4]」です(図1下)。ビタミン様物質「イノシトール」を作り出す酵素「イノシトールモノフォスファターゼ」は、リチウムによって直接その働きが抑制されます。その結果、細胞内のイノシトールの量が減少し、この学説ではこれがリチウムの薬効に重要だとしています。しかし、最近では、「GSK3(グリコーゲン合成酵素リン酸化酵素3)と呼ばれる酵素の働きを抑制することが重要」とする説も出てきており、議論になっています。
そこで共同研究グループは、遺伝子操作によりイノシトールモノフォスファターゼの働きだけを抑えた「細胞内イノシトール枯渇マウス」を使用し、どのような変化が現れるか観察しました。
研究手法と成果
共同研究グループは、理研バイオリソースセンター(BRC)が保持・管理する、遺伝子変異マウスライブラリーから2つあるイノシトールモノフォスファターゼ遺伝子の1つ「Impa1」に変異を持つ系統を探索しました。その結果、イノシトールモノフォスファターゼの酵素活性が検出できないほど弱くなるマウス「細胞内イノシトール枯渇マウス(T95K変異体:95番目のスレオニンというアミノ酸がリジンに変化)」を発見しました。このマウスを含む遺伝子変異マウスライブラリーは、BRC新規変異マウス研究開発チームの権藤洋一チームリーダーらが作製したものです。
まず、成長後の細胞内イノシトール枯渇マウスの行動を観察したところ、野生型マウスと比較して、動きが活発になり、概日リズムが延びることを発見しました(図2)。こうした行動変化は、リチウムを正常マウスに投与した場合に起きる変化と類似していました。リチウムを投与した正常マウスと、細胞内イノシトール枯渇マウスの双方が、類似の行動変化を起こすことから、気分安定薬としてのリチウムの働きが、イノシトールモノフォスファターゼの働きを抑えることによるものであると推察できました。
続いて、妊娠中の母マウスから出産直前(胎生18.5日)の段階で細胞内イノシトール枯渇マウスを取り出して調べたところ、下顎がほとんど形成されていませんでした(図3)。顎の形作りがダイナミックに起きる胎生14.5日の段階でも、下顎の形成不全をはっきり観察できることから、下顎の形成の初期段階ですでに何らかの異常が起こっていることが分かりました。細胞内イノシトール枯渇マウスを妊娠中の母マウスにイノシトール溶液を飲ませたところ、その異常は回復しました。これらのことから、顎の形成異常は、Impa1遺伝子の変異による細胞内イノシトールの減少のためだと結論付けました。この知見は顎の形成に対するイノシトールの役割を示した最初の成果です。
通常の遺伝子破壊方法であるノックアウトの手法では、多くの場合、遺伝子を含む染色体の大きな領域が欠損していたり、外部から別の遺伝子の断片が挿入されていたりすることで、別の遺伝子の働きにも影響を与える懸念があります。一方、今回の細胞内イノシトール枯渇マウスは、1つのアミノ酸だけが変化したものなので、Impa1遺伝子の機能欠損による特異的な現象を見ていると明確に結論できます。
今後の期待
リチウムの気分安定薬としての薬効はさまざまな検証結果に基づく確かなもので、実際に多くの患者を救ってきました。しかし、薬の有効性が発揮される量と中毒を起こしてしまう量が近接しているため、血中濃度の頻繁な測定が必要です。有効な濃度範囲を保っていても、口の渇き、手の震えといった副作用が現れます。これはリチウムが多様な作用をもつ薬剤であることを示しています。これに対し、イノシトールモノフォスファターゼの働き「だけ」を抑えることが可能な薬剤ができれば、副作用の問題を回避できる可能性があります。
今回の研究で使用した細胞内イノシトール枯渇マウスは、イノシトール枯渇がどのようにして気分の安定につながるのかを分子レベル、神経のネットワークのレベルで理解するのに役立ちます。こうした研究を進め、画期的な治療薬の標的の発見、気分障害そのものの成り立ちの解明につなげていきます。その場合に、同じイノシトール枯渇で起きる顎の形態形成異常の原因を分子レベルで理解することが両者に共通する分子メカニズム解明に迫る手段になると考えています。一連の研究がさらに加速し、効果的な治療薬の開発につながるようにするため、使用したマウスは理研バイオリソースセンターから近日提供を開始する予定です。
原論文情報
- Tetsuo Ohnishi, Takuya Murata, Akiko Watanabe, Akiko Hida, Hisako Ohba, Yoshimi Iwayama, Kazuo Mishima, Yoichi Gondo, Takeo Yoshikawa.
"Defective Craniofacial Development and Brain Function in a Mouse Model for Depletion of Intracellular Inositol Synthesis"
Journal of Biological Chemistry, 2014
発表者
理化学研究所
脳科学総合研究センター 分子精神科学研究チーム
チームリーダー 吉川 武男 (よしかわ たけお)
研究員 大西 哲生 (おおにし てつお)
お問い合わせ先
脳科学研究推進室
Tel: 048-467-9757 / Fax: 048-467-4914
報道担当
理化学研究所 広報室 報道担当
Tel: 048-467-9272 / Fax: 048-462-4715
補足説明
- 1.気分安定薬
気分障害による気分の「波」を治療し、将来の再発を予防するために処方される薬剤。リチウム製剤(日本では炭酸リチウムが使われる)に加え、バルプロ酸、カルバマゼピン、ラモトリギンといった抗てんかん薬も気分安定薬として使われている。バルプロ酸、カルバマゼピンについてもイノシトール枯渇を介して気分安定効果を発揮するとの説があるが、詳細は不明。 - 2.変異マウスライブラリー
理研では、突然変異誘発剤(エチルニトロソウレア:ENU)の投与によって、ランダムに染色体に遺伝子変異が入った(主に一塩基の置換)マウス系統を多数保持しており、そこから効率的に特定の遺伝子に変異をもつものを発見するシステムを整えている。これをRGDMS (RIKEN ENU-based gene- driven mutagenesis system)と名付け、研究者からの依頼による特定遺伝子変異系統の探索と分与を行っている。 - 3.概日リズム
人を含む動物を継続的に完全な暗黒状態に置くと、その動物の持つ独自の周期(ほぼ24時間周期)で活動し始める。このリズムを概日リズムという。概日リズムが24時間より長いもの(例:ヒト)や短いもの(例:マウス)も存在する。このリズムは光の入力によってリセットされる。リチウムを投与すると、概日リズムが長くなることが多くの動物で知られている。 - 4.イノシトール枯渇仮説
1989年に、英国のベリッジ(Berridge)博士により提唱された、リチウムの作用のメカニズムを分子レベルで説明するための仮説。この説では、リチウムがリン酸化されたイノシトールからリン酸を取り除きイノシトールにする酵素(イノシトールモノフォスファターゼを含む)の働きを妨げることで細胞内からイノシトールを減少させ、イノシトールをもとに作られる細胞膜の成分と、そこから刺激に反応して生み出される二次メッセンジャーと呼ばれる細胞の中で情報のやりとりに関わる分子の量を減少させることで、細胞の興奮性を抑制することが重要であるとした。
図1 気分安定薬の治療効果(上)とイノシトール枯渇仮説(下)
- 上: 気分安定薬の投与により「うつ」状態と「躁」状態の気分の波が穏やかになる。
- 下: イノシトール枯渇仮説の概略。イノシトールモノリン酸からイノシトールを作り出す酵素「イノシトールモノフォスファターゼ」はリチウムによって働きを抑制される。その結果、細胞内のイノシトールの量が減少(枯渇)(図中番号1)、続いて図中番号2、3で示す効果をひき起こし、結果として細胞の興奮性を抑制する(図中番号4)。しかし、最近ではリチウムの気分安定効果にはGSK3(グリコーゲン合成酵素リン酸化酵素3)と呼ばれる酵素の働きを抑制することが重要とする説も出てきており、議論になっている。
図2 細胞内イノシトール枯渇マウスにみられる行動変化
細胞内イノシトール枯渇マウス(変異体)は、正常マウスと比較して活動量が高く(オープンフィールド試験、強制水泳試験)、活動周期が長くなる(輪回し活動量)など、通常のマウスにリチウムを投与したときに見られる行動変化が起きる。
上の折線グラフ縦軸:移動距離(cm/5分間)、下の折線グラフ縦軸:輪回し回数(回/60分間)
図3 細胞内イノシトール枯渇マウス(胎生18.5日)
腹部方向から顔面の電子顕微鏡写真。上顎の形成は認められるが、下顎の形成が極端に悪く、口内の構造(口蓋)が露出している。