ポイント
- 「嫌な出来事の記憶」「楽しい出来事の記憶」は海馬歯状回と扁桃体に保存される
- 「嫌な出来事の記憶」を「楽しい出来事の記憶」に置き換えることができる
- 海馬歯状回のシナプスの可塑性が記憶の書き換えに重要
要旨
理化学研究所(理研、野依良治理事長)は、マウスの海馬[1]の特定の神経細胞群を光で操作して「嫌な出来事の記憶」を「楽しい出来事の記憶」にスイッチさせることに成功し、その脳内での神経メカニズムを解明しました。この発見は、うつ病患者の心理療法に科学的根拠を与え、将来の医学的療法の開発に寄与することが期待されます。これは、理研脳科学総合研究センターRIKEN-MIT神経回路遺伝学研究センター利根川研究室の利根川進センター長、ロジャー・レドンド(Roger L. Redondo)研究員、ジョシュア・キム(Joshua Kim)大学院生らの成果です。
私たちの記憶は、周りで起こる出来事がどのように情緒に訴えるかに大きく左右されます。例えば、今まで「嫌な出来事の記憶」と結びついていた場所で、楽しい出来事を体験すると、「嫌な出来事の記憶」が薄れて「楽しい出来事の記憶」に代わる場合があります。この記憶の書き換えが脳のどの領域でどのように行われるのか、そのメカニズムは明らかではありませんでした。
記憶は、記憶痕跡(エングラム)[2]と呼ばれる、神経細胞群とそれらのつながりに蓄えられます。研究チームは、海馬と扁桃体[3]という2つの脳領域とそのつながりに蓄えられた「嫌な出来事の記憶」のエングラムが「楽しい出来事の記憶」のエングラムに取って代わられるかどうかを、最先端の光遺伝学[4]を使って調べました。
実験動物のオスのマウスを小部屋に入れ、その脚に弱い電気ショックを与えます。マウスは「この小部屋は怖い所だ」という「嫌な出来事の記憶」を脳内に作ります。その際に、活性化する海馬の神経細胞群を、「嫌な出来事の記憶」エングラムとして光感受性タンパク質[5]で標識しました[6](図1A)。
その後、この標識された細胞群に青い光を照射すると、マウスは怖い経験を思い出して「すくみ」ます。しかしこのように処理したオスのマウスの海馬に光を照射しながら、メスのマウスを部屋の中に入れて1時間ほど一緒に遊ばせてやると、今度は「楽しい出来事の記憶」が作られました(図1A)。つまり、「嫌な出来事の記憶」に使われた海馬のエングラムをそのまま使って、異性に会えたという「楽しい出来事の記憶」にスイッチすることができるということが証明されました。逆に、同様の光遺伝学の方法を用いて、「楽しい出来事の記憶」を「嫌な出来事の記憶」にスイッチさせることも可能だということを示されました(図1B)。
この現象は、単に後から経験する出来事の情緒的側面(嫌いか楽しいか)が、先行する経験のそれに置き替わるということではありません。その証拠に、海馬のエングラムのかわりに、脳ネットワークとして海馬の下流にある扁桃体のエングラムを同じように処理した場合、「嫌な出来事の記憶」も「楽しい出来事の記憶」も、それぞれ作り出すことができますが、同じ細胞でそのスイッチは起こりません(図2A, B)。すなわち、扁桃体のエングラム細胞の場合は、一度「嫌な出来事の記憶」に関わると、マウスに楽しいはずの出来事を与えても、「嫌な出来事の記憶」のままですし、逆のケースでは「楽しい出来事の記憶」のままです(図3)。
「この研究の最も重要な結論は、海馬から扁桃体への脳細胞のつながりの可塑性が、体験する出来事の記憶の情緒面の制御に重要な働きをしているということだ」と利根川進センター長は述べています。
うつ病の患者では、嫌な出来事が積み重なり、楽しい出来事を思い出すのが難しい状態になっているケースが多いことが知られていますが、海馬と扁桃体のつながりの可塑性の異常が一つの原因になっている可能性が考えられます。
本研究成果は、科学雑誌『Nature』(9月17日号)に掲載されるに先立ち、オンライン版(8月27日付け:日本時間8月28日)に掲載されます。
背景
私たちは遠い過去のことをある程度明確に思い出すことができます。そのため、記憶は固定的なものと考えがちです。しかし実際には、記憶は、体験している出来事がどのように私たちの情緒に訴えるかに大きく左右されます。例えば、いつも先生に怒られてばかりで「嫌な出来事の記憶」と結びついていた学校に、一人の転校生がやって来て、その人と楽しい毎日を体験するようになると、学校に行くことがいつの間にか「楽しい出来事の記憶」に書き換えられていたり、逆に「楽しい出来事の記憶」と結びついていた店で嫌な経験をすると、「楽しい出来事の記憶」は薄れて「嫌な出来事の記憶」に書き換えられ、その店から足が遠のいたりします。ところが、このような記憶の書き換えが、脳のどの領域でどのように行われているか、その神経メカニズムは明らかではありませんでした。
研究チームはこれまでに、マウスの脳の海馬の特定の神経細胞群を人為的に操作し、誤った記憶である過誤記憶[7]が形成されるメカニズムを明らかにしています。「過誤記憶の研究では、中立的な記憶が嫌な出来事の記憶に人為的に作り変えられることを示したが、一歩進んで、一度刻まれた情緒的な記憶がそれと全く逆の記憶に書き換えられるのか、という疑問がこの研究の出発点だった。さらに、脳のどの領域が記憶を書き換えることができ、どの領域ができないのか、関連する脳内ネットワークを明確にしていくことが大きな課題だった」とロジャー・レドンド研究員は振り返ります。
記憶は、記憶痕跡(エングラム)と呼ばれる、神経細胞群とそれらのつながりに蓄えられます。出来事が起こった時の状況や、嫌い・楽しいなどの情緒面、といった記憶の要素は、脳の海馬歯状回と扁桃体の基底部外側に、それぞれ保存されることが知られています。この海馬と扁桃体は、脳内ネットワークとしてつながっており、どのような状況でどのような体験をしたかという記憶は、それぞれの領域の神経細胞群とそのつながりで、エングラムという形で保存されていることが予想されていました。研究チームは、海馬と扁桃体という二つの脳領域とそのつながりに蓄えられた「嫌な出来事の記憶」のエングラムが、「楽しい出来事の記憶」のエングラムに取って代わられるかどうかを、最先端の光遺伝学を使って調べました。
研究手法と成果
小部屋に入れたオスのマウスの脚に弱い電気ショックを与えると、マウスは「この小部屋は怖いところだ」という「嫌な出来事の記憶」を脳内に作ります。その際に活性化する海馬の神経細胞群を、「嫌な出来事の記憶」エングラムとして光感受性タンパク質で標識しました(図1A)。その後、この標識された細胞群に青い光を照射して活性化すると、マウスは怖い経験を思い出して「すくみ」ます。しかし、このように処理したオスのマウスの海馬に光を照射し嫌な記憶の出来事のエングラムを活性化させながら、メスのマウスをケージの中に入れて1時間ほど一緒に遊ばせてやると、これは楽しい出来事ですから、今度は「楽しい出来事の記憶」が作られることを突き止めました(図1A)。
つまり、「嫌な出来事の記憶」に使われた海馬のエングラムをそのまま使って、異性に会えたという「楽しい出来事の記憶」にスイッチすることができる、ということが証明されました。逆に、同様の光遺伝学の方法を用いて、「楽しい出来事の記憶」を「嫌な出来事の記憶」にスイッチさせることも可能だということが示されました(図1B)。
この現象は、単に後から経験する出来事の情緒的な側面(嫌いか楽しいか)が、先行する経験のそれに置き替わるということではありません。その証拠に、海馬のエングラムの代わりに、脳ネットワークとして海馬の下流にある扁桃体のエングラムを同じように処理した場合、「嫌な出来事の記憶」も「楽しい出来事の記憶」も、それぞれ作り出すことができますが、同じ細胞でそのスイッチは起こりません(図2A, B)。すなわち、扁桃体のエングラム細胞の場合は、一度「嫌な出来事の記憶」にかかわると、マウスに楽しいはずの出来事を与えても、「嫌な出来事の記憶」のままですし、逆のケースでは「楽しい出来事の記憶」のままです(図3)。利根川進センター長は「この研究の最も重要な結論は、海馬から扁桃体への脳細胞のつながりの可塑性が、体験する出来事の記憶の情緒面の制御に重要な働きをしているということだ」と述べています。
今後の期待
うつ病の患者では、嫌な出来事の記憶が積もって、楽しい出来事を思い出すことがなかなかできない状態になっているケースが多いことが知られていますが、海馬と扁桃体のつながりの可塑性の異常が一つの原因になっている可能性が考えられます。今回の成果は、うつ病患者の心理療法に科学的根拠を与えると共に、今後の治療法の開発に寄与することが期待されます。
原論文情報
- Roger L Redondo, Joshua Kim, Autumn L Arons, Steve Ramirez, Xu Liu, Susumu Tonegawa. "Bidirectional reversal of the valence associated with the hippocampal memory engram." Nature, 2014, doi:10.1038/nature13725.
発表者
理化学研究所
脳科学総合研究センター 理研-MIT神経回路遺伝学研究センター
センター長 利根川 進 (とねがわ すすむ)
報道担当
理化学研究所 広報室 報道担当
Tel: 048-467-9272 / Fax: 048-462-4715
補足説明
- 1.海馬
記憶を司る脳の領域。 - 2.記憶痕跡(エングラム)
ヒトや動物の脳内に蓄えられていると仮定されている記憶の痕跡。ある特定の神経細胞群の活動パターンやそれらのつながりの中に蓄積されていると考えられている。 - 3.扁桃体
情動(嫌だ、楽しい、報酬をもらって嬉しいなど)の記憶に関わる脳の領域。また、本能的な好き・嫌いの判断をすることも知られている。 - 4.光遺伝学
光感受性タンパク質を、遺伝学を用いて特定の神経細胞群に発現させ、その神経細胞群に局所的に光を当てて活性化させたり、抑制したりする技術。 - 5.光感受性タンパク質
特定の波長の光が当たると開くイオンチャネルの一種であるタンパク質。このイオンチャンネルを、狙ったタイミングで光を照射して開けたり閉じたりすることで、神経細胞の活動を人為的に制御できる。この研究ではChR2(チャネルロドプシン2)という、光照射により神経細胞の活動が誘発されるものを用いている。 - 6.標識する
神経が活動するとその発現が誘導される性質の遺伝子(この研究では、c-fos遺伝子)の調節領域と標識する期間を限定させる特殊な誘導システム(Tet-offシステム)を用いて、実験者が標識したい期間に活動した神経細胞でのみ、特定の遺伝子(この場合は光感受性タンパク質遺伝子ChR2)を発現させることができる。 - 7.過誤記憶
曖昧な断片的な記憶を思い出す時に、その一部を変化させてしまい、実際にはなかった出来事を記憶として思い出してしまうもの。

図1
- 上: 実験結果をまとめた図
- 下:
- (A) 海馬では「嫌な出来事の記憶」が「楽しい出来事の記憶」に書き換えられる。光感受性タンパク質が発現していないオスのマウスの海馬に光を照射しても何も起こらない(左)。このマウスの脚に軽い電気ショックを与えて、マウスが嫌な出来事を体験している最中に活動する海馬の神経細胞群を光感受性タンパク質で標識する。標識した海馬の「嫌な出来事」エングラムを光照射により活性化させると、オスのマウスは嫌な出来事を思い出しすくむ。しかし、同じ細胞群を光照射により活性化させながら、同じケージにメスのマウスを入れ、一時間ほど一緒に遊ばせて楽しい体験をさせると、この細胞群は今度は楽しい出来事の記憶と結びつくようになり、小部屋の特定の場所で光照射をすると、その場所に長くいるようになる。
- (B) 同様に海馬では「楽しい出来事の記憶」は「嫌な出来事の記憶」に書き換えられる。

図2
- (A) 扁桃体では「嫌な出来事の記憶」は「楽しい出来事の記憶」に書き換えられない。扁桃体の細胞群を図1と同様な手順で処理しても、「嫌な出来事の記憶」のままで書き換えられない。
- (B) 同様に扁桃体では「楽しい出来事の記憶」は「嫌な出来事の記憶」に書き換えらられない。

図3
海馬から扁桃体のつながりの可塑性が、記憶をスイッチさせることを可能にしている。扁桃体の細胞群は一度「嫌な出来事の記憶」「楽しい出来事の記憶」を保存したら、それらの記憶はそのまま書き換えられない。