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2014年12月9日

理化学研究所

怖い体験が記憶として脳に刻まれるメカニズムの解明へ

-扁桃体ニューロンの活動とノルアドレナリンの活性が鍵-

要旨

理化学研究所(理研)脳科学総合研究センター記憶神経回路チームのジョシュア・ジョハンセンチームリーダーらの研究チームは、ラットを使った実験で、恐怖体験の記憶形成において従来の仮説は有力であるものの、それだけでは十分ではなく、神経修飾物質の活性化も重要であることを示しました。

私たちは、日常のささいな出来事は簡単に忘れてしまいます。一方、恐怖を感じた体験は記憶として残ります。これまで、記憶の形成は「ヘッブ型可塑性[1]」によって形成されるという説が有力でした。互いにつながった2つの神経細胞(ニューロン)が同時に活動し、その結合(つながり)が強化されることによって記憶が形成される、という仮説です。しかし、この仮説は、実際に記憶を形成している最中の脳内においては、未だ検証されていませんでした。

研究チームは、光遺伝学[2]とよばれる神経活動を操作する技術を用いて、ラット脳内の扁桃体の神経活動を抑制しました。その結果、実際に恐怖記憶の形成が阻害されただけでなく、扁桃体[3]でのニューロン同士のつながりの強化も妨げられ、ヘッブ仮説を支持する結果が得られました。また、光遺伝学によって扁桃体のニューロンを人工的に活性化しても、怖い体験は与えずに音刺激を与えるだけでは、恐怖記憶は形成されないことが分かりました。しかし、扁桃体のニューロンの人工的な活性化に加えて、覚醒や注意に作用する神経修飾物質[4]ノルアドレナリン[5]」の受容体を同時に活性化させると、怖い体験を与えなくても、恐怖記憶が形成されることが明らかになりました。この結果は、恐怖体験の記憶形成においてヘッブ型可塑性は有力な仮説であるものの、それだけでは十分ではなく、神経修飾物質の活性化も重要であることを示唆しています。

本研究成果は、恐怖記憶が作られる仕組みを理解することで、心的外傷後ストレス障害(PTSD)など恐怖記憶が有害に働いている疾患を、軽減させる治療への応用が期待できます。

本研究は、米国科学アカデミー紀要『Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America』オンライン版(12月8日付け:日本時間12月9日)に掲載されます。

※研究チーム

理化学研究所 脳科学総合研究センター 記憶神経回路チーム
チームリーダー Joshua P. Johansen (ジョシュア・ジョハンセン)

ニューヨーク大学 神経科学センター
教授 Joseph E. LeDoux (ジョゼフ・ルドゥー)

背景

私たちは、日常のささいな出来事は簡単に忘れてしまいます。しかし、恐怖を感じた体験は比較的鮮明に覚えています。例えば、幼少の頃に怖い犬に追いかけられたなど、恐怖を伴う記憶は、その時自分がどこで何をしたか、鮮明に思い出せる人も多いと思います。1949年、カナダの心理学者ドナルド・ヘッブは「互いにつながった2つのニューロンが同時に活動することでそのつながりが強化され、記憶が形成される」(ヘッブ型可塑性による記憶形成)という仮説を提唱しました。恐怖の記憶の形成に関しても、これまではヘッブ型可塑性によって説明されてきました(図1)。

実際、摘出脳サンプルにおける少数のニューロンを用いた実験系によって、このようなヘッブ型可塑性が2つのニューロン間のつながりを強化することが示されています。しかし、この仮説は、実際に記憶を形成している最中の脳内では、未だ検証されていませんでした。

今回、研究チームは、怖い体験によって引き起こされる扁桃体ニューロンの活動が、直接恐怖記憶を形成するのかどうかを実験的に調べることで、ヘッブ仮説の検証を試みました。

研究手法と成果

実験動物モデルであるラットに、何の反応も誘発しない中性的な刺激である音と、怖い体験である弱い電気ショックを同時に与えると、ラットは音に対して「すくみ行動」という恐怖反応を示すようになります(図2)。これを恐怖条件付けと呼びます。

研究チームは、最新の神経活動操作技術である光遺伝学を用いて、弱い電気ショックが引き起こすはずの扁桃体ニューロンの活動を抑制しました。その結果、恐怖記憶の形成が阻害されました(図3A)。また、扁桃体ニューロンの音刺激に対する反応の増強も妨げられました。これは、ニューロン同士のつながりの強化が妨げられたことを意味します。これらは従来のヘッブの仮説を支持する結果です。

ところが、怖い体験としての弱い電気ショックを与える代わりに、光遺伝学によって扁桃体ニューロンを人工的に活性化しながら音刺激を与えたところ、恐怖記憶は形成されませんでした(図3B)。

研究チームは、恐怖記憶の形成に関わる別の因子として、覚醒や注意に重要な役割を果たすと考えられている、神経修飾物質「ノルアドレナリン」に注目しました。扁桃体ニューロンを人工的に活性化しながら、ノルアドレナリン受容体の活性化を同時に起こす実験を行ったところ、怖い体験を与えなくても恐怖記憶が形成されました(図3C)。

これらの結果は、恐怖記憶の形成には、ヘッブ仮説で示されたニューロン間のつながりが強化されるメカニズムが重要だが、それだけでは十分ではなく、注意を喚起する際に働く神経修飾物質の活性化も重要であることを示しています(図4)。

今後の期待

本研究は、実際に行動している動物の脳内で起こる記憶形成について、従来主流であったヘッブ仮説を初めて検証したものです。今回の結果はヘッブ仮説を基本的に支持するものですが、ノルアドレナリンのような他の要素の働きも記憶の形成においては、重要であることも示しています。これは、犬に追いかけられる、といったような恐怖を感じる出来事が、脳内で感情を伴った恐怖記憶へと変換されていくプロセスを理解するための重要な一歩です。また、この恐怖記憶を引き起こす脳内プロセスは、ほかのさまざまな学習プロセスに共通した、普遍的な記憶形成制御メカニズムの典型といえるかもしれません。心的外傷後ストレス障害(PTSD)は、生命を脅かすような非常に強い恐怖の記憶が残り、何気ない状況でも恐怖記憶がフラッシュバックすることにより、日常生活に支障をきたしてしまう精神疾患です。恐怖記憶が形成される仕組みを理解することで、このような疾患において有害に働いている恐怖記憶を、軽減させるような治療へと応用できる可能性があります。

原論文情報

  • Joshua P. Johansen, Lorenzo Diaz-Mataix, Hiroki Hamanaka, Takaaki Ozawa, Edgar Ycu, Jenny Koivumaa, Ashwani Kumar, Mian Hou, Karl Deisseroth, Edward Boyden and Joseph E. LeDoux, "Hebbian and neuromodulatory mechanisms interact to trigger associative memory formation", Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America, 2014, doi: 10.1073/pnas.1421304111

発表者

理化学研究所
脳科学総合研究センター 記憶神経回路研究チーム
チームリーダー Joshua P. Johansen (ジョシュア・ジョハンセン)

お問い合わせ先

理化学研究所 脳科学研究推進室
Tel: 048-467-9757 / Fax: 048-467-4914
pr [at] brain.riken.jp (※[at]は@に置き換えてください。)

報道担当

理化学研究所 広報室 報道担当
Tel: 048-467-9272 / Fax: 048-462-4715

補足説明

  • 1.ヘッブ型可塑性
    Hebbian plasticity。ニューロン同士をつなげるシナプスにおいて、上流のニューロンの活動の直後に下流のニューロンの活動が起きることが繰り返されると、そのシナプス結合は増強され、逆にそのような活動が長時間起きないと、そのシナプス結合は減弱するという現象。カナダの心理学者であるドナルド・ヘッブが提唱し、その後ブリス、ロモなどの生理実験で検証された。
  • 2.光遺伝学
    別名はオプトジェネティクス(光を意味するOptoと遺伝学を意味するgeneticsを合わせた言葉)。神経回路機能を光と遺伝子操作を使って調べる研究分野または手法。ミリ秒単位の時間的精度をもった制御を特徴とする。2005年に発表された論文が注目され神経科学の革命と言われた。
  • 3.扁桃体
    側頭葉の奥に存在する、アーモンド形のニューロンの集まり。恐怖、喜び、といった情動に伴う反応と、その記憶の形成に重要な役割を果たしている。大脳辺縁系の一部。
  • 4.神経修飾物質
    ニューロンから分泌される物質で、ほかの多数のニューロンの活動を変化させる作用を持つ。作用時間は比較的長いものが多い。代表はドーパミン、セロトニン、ノルアドレナリンなど。
  • 5.ノルアドレナリン
    注意や覚醒に関わる神経修飾物質で、脳内では、脳幹の青斑核という領域からほぼ脳全域に投射している、ノルアドレナリン作動性ニューロンから分泌される。
ヘッブ型可塑性による記憶形成仮説の図

図1 ヘッブ型可塑性による記憶形成仮説

痛みなどの怖い体験は扁桃体のニューロンを強く活性化する。同時に知覚・認識された音刺激や視覚刺激などは、別なルートをたどって扁桃体の同じニューロンを活性化する。このように互いにつながった2つのニューロン(扁桃体ニューロンと知覚刺激を伝えるニューロン)が同時活動すると、そのつながりが強化されて、恐怖記憶が形成されるとする仮説。

恐怖条件付けの図

図2 恐怖条件付け

ラットにそれだけでは何の反応も誘発しない音刺激と同時に弱い電気ショックを与えると、恐怖記憶が形成されることで音刺激のみに対しても恐怖反応であるすくみ行動を示すようになる。

光遺伝学を用いた検証実験の図

図3 光遺伝学を用いた検証実験

  • A.怖い体験によって本来活性化される扁桃体ニューロンを光遺伝学によって不活性化すると、恐怖記憶が形成されなくなる。
  • B.怖い体験を与える代わりに、扁桃体のニューロンを光遺伝学で活性化しながら音刺激を与えても、恐怖記憶は形成されない。
  • C.Bと同じ条件で、さらにノルアドレナリンを活性化すると、恐怖記憶が形成される。
本研究によって明らかになった恐怖記憶形成のメカニズムの図

図4 本研究によって明らかになった恐怖記憶形成のメカニズム

扁桃体のニューロンが同時に怖い体験による活性化と音刺激による活性化を受けて、そのつながりを強化する(ヘッブ型可塑性)だけでなく、恐怖を引き起こすような事象に反応して分泌される神経修飾物質ノルアドレナリンが働くことにより、恐怖記憶が形成される。

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