理化学研究所(理研)脳神経科学研究センター 知覚神経回路機構研究チームの染谷 真琴 特別研究員、太田 和美 テクニカルスタッフⅠ、風間 北斗 チームディレクターらの研究チームは、生まれつき持っている(生得的な)匂いの価値(快・不快)を計算する脳内の細胞を同定し、さらに快・不快の情報は異なる回路メカニズムによって生成されることを発見しました。
本研究成果は、感覚刺激の物理化学的情報が価値情報に変換される神経回路の仕組みに関する新たな知見を提供するとともに、脳のデジタルツイン[1]の実現に貢献すると期待されます。
ヒトを含む多くの動物は、初めて嗅いだ匂いであったとしてもそれを快いまたは不快と感じて、匂いの元(発生源)を追従したり回避したりしますが、この生得的な匂いの価値に関する情報が脳のどこでどのように計算されるのかは未知でした。研究チームはショウジョウバエ[2]を使い、カルシウムイメージング法[3]、コネクトーム[4]を活用したシミュレーション、および仮想空間での行動解析を組み合わせて、側角[5]と呼ばれる高次嗅覚中枢において生得的な匂いの価値が計算され、快・不快の価値情報が異なる回路構造によって生成されることを示しました。
本研究は、科学雑誌『Cell』オンライン版(9月17日付:日本時間9月18日)に掲載されました。

本研究の概要
背景
動物は感覚刺激の価値に基づいて適切な行動を選択します。例えば、快い食べ物の匂いを感じれば接近行動を取り、不快な天敵や腐敗した食べ物の匂いを感じれば忌避行動を取ります。このような感覚刺激の価値を認識する機能とそれに基づく行動選択は生存に必須であり、ヒトを含む多くの動物に生得的に備わっています。
哺乳類の脳の嗅覚回路では、一次中枢で匂いの物理化学的な性質が符号化[6]され、その情報を受け取る高次中枢において匂いの価値情報が抽出されることが示唆されています。しかしこれまで、高次中枢において匂いの価値を符号化する細胞は確認されていません。
哺乳類と類似した構造と機能を持つショウジョウバエの嗅覚回路においても同様の仮説が提唱されていますが、検証は進んでいません。行動遺伝学[7]的な研究は、側角と呼ばれる高次中枢が生得的な匂いの価値情報を符号化することを示唆していますが、生理学的な実験を通した実証はされていません。
そこで本研究では、快・不快という生得的な匂いの価値を計算する細胞の同定と、その回路メカニズムを明らかにすることを目指しました。
研究手法と成果
研究チームは、ショウジョウバエを対象に研究を行いました。ショウジョウバエを用いる利点は主に三つあります。第一に匂いに対して明確な忌避や誘引行動を示すため、その動物にとっての生得的な匂いの価値を評価できます。第二に、種々の遺伝学的技術が確立されているため、細胞の活動を計測したり操作したりできます。第三に、脳が小さいため、各脳領域に存在する細胞群の活動を網羅的に記録できます。
しかしながら、側角の神経細胞(側角細胞)の活動を網羅的かつ特異的に記録する手法は存在していませんでした。そこで、研究チームはカルシウムイメージング法と光遺伝学[8]を組み合わせた新規計測技術を開発しました(図1)。空間解像度が高い2光子顕微鏡[9]下においてこの手法を適用することで、快から不快までのさまざまな価値を持った匂いに対する応答を全ての側角細胞から計測しました。比較対象として、もう一つの高次嗅覚中枢であるキノコ体[10]の細胞集団からも匂い応答を計測しました。

図1 カルシウムイメージング法と光遺伝学による新規計測技術
新技術の模式図(左)とこの手法により標識された側角細胞集団(右:光照射により活性化した蛍光タンパク質(緑)と全神経細胞を標識する核局在型の蛍光タンパク質(紫))。新技術では、まず空間解像度が高い2光子励起カルシウムイメージング法を用いて、個々の神経細胞の匂い刺激に対する活動を脳全体から計測する。次に、特定の波長の光によって活性化される蛍光タンパク質を側角においてのみ活性化させ、その結果標識された神経細胞を側角細胞として同定する。
その結果、側角の二つの異なる神経細胞集団が、それぞれ特定の匂いの価値を符号化していることが分かりました。一つは、快い匂いにのみ応答し、その応答の大きさが快の度合いと相関する集団であり、もう一つは不快な匂いにのみ応答し、その強さが不快の度合いと相関する集団でした(図2)。また、神経細胞集団の活動から匂いの価値を予測する数理モデルを作成したところ、キノコ体よりも側角の活動を用いた方が予測精度が高いことが分かりました。さらに、この精度は一次嗅覚中枢の神経応答を用いた場合よりも高いことから、側角が生得的な匂い価値を計算する中枢であることが示唆されました。

図2 快い・不快な匂い特異的に応答する側角細胞
側角には、不快な匂い特異的に応答する神経細胞集団(左)と快い匂い特異的に応答する神経細胞集団(右)が存在することが分かった。
次に、こうした快・不快特異的な応答がどのような神経回路メカニズムによって生み出されるのかを、コネクトームを用いて解析しました。一次嗅覚中枢には、快い・不快な匂いに対する行動選択に貢献する神経細胞が存在しますが、これらの神経細胞は特定の側角細胞と選択的に結合することが分かりました(図3)。さらに、この側角内部の結合を解析すると、快い匂いに関する入力を受け取る側角細胞集団において、側角細胞同士の抑制性結合が顕著に観察されました。これは、「快い」という情報が、一次嗅覚中枢からの入力に加え、局所的な抑制性回路によってさらに処理されることで初めて生成されることを示唆します。

図3 快・不快の情報処理に関わる神経回路
不快な匂いの情報は一次嗅覚中枢の投射細胞により一部の側角細胞に伝達される(ピンクで示される経路)。快い匂いに関しても同様であるが(緑で示される経路)、側角細胞間で顕著な抑制性の結合が見られる。
この仮説を検証するために、研究チームはコネクトームに基づく神経ネットワークモデルを構築しました。このモデルに実際の一次嗅覚中枢の匂い応答を入力すると、快・不快の匂いに特異的に応答する側角細胞の活動が再現されました。さらに、モデルから局所抑制を除くと、不快な匂いに応答する側角細胞は残るものの、快い匂いに応答する側角細胞が消失しました。これは、不快な情報の符号化には一次嗅覚中枢からの入力で十分なのに対して、快い情報の符号化には一次嗅覚中枢からの入力に加え、局所抑制が必須であることを意味します。さらに、この局所抑制の大きさは興奮性入力の大きさと一致しており、この興奮・抑制のバランスが快の度合いに比例した応答を生成することが示唆されました(図4)。一方で、不快な匂いに特異的に応答する側角細胞では、興奮性入力と一致した抑制は見られませんでした。

図4 抑制による匂い応答の変化
快い匂い(緑)特異的に応答する側角細胞(右)は、興奮性入力と大きさが一致した抑制(青矢印)を受けることで初めて快い匂いに特異的に、かつ快さに比例して応答するようになる(なお、抑制がない場合は灰色のような応答になる)。一方、不快な匂い(ピンク)特異的に応答する側角細胞(左)では、一次嗅覚中枢からの入力によって主に応答が決まるため、抑制の影響は小さい(灰色とピンクの差は小さい)。
これらの脳のメカニズムに関する結果はネットワークモデルから推測されたもので、実際のショウジョウバエを用いて検証する必要があります。そこで研究チームは次の三つの実験を行いました。
まず、ネットワークモデルで生成された神経活動の予測精度を検証しました。カルシウムイメージング法により個々の側角細胞の匂い応答を計測して、モデルで生成された応答と比較したところ、有意に一致する結果が得られました。次に、局所抑制回路を人為的に操作した際の神経活動の変化を検証しました。モデルでは、局所抑制を弱めると快い匂いに強く応答する側角細胞が減少し、不快な匂いに応答する側角細胞が増加することが予測されました。薬理的に抑制を減衰させて側角の活動をカルシウムイメージング法で計測したところ、予測と一致した結果が得られました。この神経活動の変化は匂いで引き起こされる行動にも反映されると考えられます。そこで最後に、局所抑制を操作した際の行動出力への影響を検証しました。モデルでは、側角における一部の抑制性介在神経細胞の活動を弱めると、全ての匂いに対する行動がより忌避性にシフトすることが予測されました。そこで、光遺伝学的手法によりこの抑制性介在神経細胞の活動を人為的に低下させた際の匂いに対する行動を、仮想空間上で計測しました。計測された匂い応答は予測と一致し、全ての匂いにおいて忌避性が増していました。
これらの結果から、ショウジョウバエの側角が、生得的な匂いの価値を計算する中枢であり、快と不快の情報が異なる神経回路構造によって生成されることが明らかになりました。この知見は、感覚刺激がどのように脳内で処理されることで情動や行動が生み出されるのかという根本的な問いに対して重要な示唆を与えるものです。
今後の期待
嗅覚系の構造と機能は、哺乳類と昆虫で高度に共通していることが知られています。そのため、本研究の成果は、生得的な匂いの価値を認識し、適応的な行動を取るために必要な、普遍的な脳内情報処理の理解につながると期待されます。
本研究では、網羅的な神経活動計測とコネクトームを活用したネットワークモデルを組み合わせることで、神経活動および行動出力の予測と再現に成功しました。これは、複雑な脳の機能を仮想空間上に再構築する脳のデジタルツインの実装に向けて、大きな前進を意味します。
本研究の手法と知見を他の脳領域や動物種に適用することで、脳の情報処理とその仕組みの解明が一層進展し、将来的には既存の人工知能(AI)とは異なる動作原理に基づく脳型AIの開発への波及効果も期待されます。
補足説明
- 1.デジタルツイン
現実空間のシステムをサイバー空間上に再現すること。現実世界と対になる双子(ツイン)をデジタル空間上に構築することで、モニタリングやシミュレーションが可能になる。 - 2.ショウジョウバエ
およそ100年前から生物学のモデル動物として用いられてきたハエで、特にキイロショウジョウバエがよく用いられている。さまざまな遺伝学的手法を適用できる。 - 3.カルシウムイメージング法
カルシウムイオンの濃度に応じて明るさが変化する蛍光分子を用いて、細胞内のカルシウムイオン濃度を計測する方法。神経細胞が興奮するとカルシウム濃度が上昇するので、神経細胞の活動を調べる方法として広く用いられている。 - 4.コネクトーム
動物の神経系内の各要素(神経細胞、神経細胞群、脳領域など)の間の詳細な接続を表した神経回路の地図。本研究で用いたデータベースは、ショウジョウバエの脳の片半球を対象に、電子顕微鏡のデータを用いて神経細胞同士の接続パターンや細胞間につくられたシナプスの数などの情報を格納している。 - 5.側角
匂い情報を処理する高次脳領域の一つ。個体間で保存された結合様式で一次嗅覚中枢の触角葉から直接入力を受ける。生得的な匂い行動に関わるとされている。 - 6.符号化
情報を一定の規則に従って表現すること。神経科学においては、例えば感覚刺激の変化に伴って神経活動が変化するとき、神経細胞・活動はその情報を符号化しているという。 - 7.行動遺伝学
遺伝子の機能と行動との因果関係を解明することに焦点を当てている学問。ショウジョウバエでは遺伝的な変異を持つ多数の変異体の中から特定の行動に異常をもたらすものを単離することで、遺伝子の機能と行動との因果関係が解明されてきた。 - 8.光遺伝学
光によって活性化されるタンパク質を遺伝学的手法を用いて特定の細胞に発現させ、その機能を光で操作する技術。神経科学では、特定の神経細胞を興奮、あるいは抑制する目的で使われることが多い。 - 9.2光子顕微鏡
近赤外線超短パルスレーザーを用いることで、生体深部にある蛍光分子を観察できる顕微鏡。一つの蛍光分子が二つの光子(近赤外光)を同時に吸収して励起状態となる非線形光学現象を利用している。 - 10.キノコ体
匂い情報を処理する高次脳領域の一つ。ランダムに近い結合様式で一次嗅覚中枢の触角葉から直接入力を受ける。匂いと報酬または罰とを関連付ける連合学習に関わる。
研究チーム
理化学研究所 脳神経科学研究センター
知覚神経回路機構研究チーム
特別研究員 染谷 真琴(ソメヤ・マコト)
テクニカルスタッフⅠ 太田 和美(オオタ・カズミ)
チームディレクター 風間 北斗(カザマ・ホクト)
神経幹細胞研究チーム
上級研究員(研究当時)カユエット・リゥ(Ka-Yuet Liu)
研究支援
本研究は、日本学術振興会(JSPS)科学研究費助成事業特別研究員奨励費「匂いに基づき快・不快の情動を生み出す神経回路メカニズムの解明(研究代表者:染谷真琴)」、同基盤研究(B)「高次嗅覚中枢における匂い嗜好の情報処理と回路メカニズム(研究代表者:風間北斗)」、同挑戦的研究(萌芽)「発光計測技術の開発による求愛学習中のドーパミン細胞のダイナミクスと機能の解明(研究代表者:風間北斗)」、同基盤研究(A)「睡眠と覚醒状態における匂いの脳内表現の差異とそのメカニズムの解明(研究代表者:風間北斗)」、科学技術振興機構(JST)戦略的創造研究推進事業「VR多次元計測による生存戦略の脳回路動態解明(研究代表者:佐々木亮、主たる共同研究者:風間北斗)」、公益財団法人東レ科学振興会(代表研究者:風間北斗、協力研究者:染谷真琴)、花王株式会社、アサヒクオリティーアンドイノベーションズ株式会社の支援を受けて行われました。
原論文情報
- Makoto Someya, Ka-Yuet Liu, Kazumi Ohta, Hokto Kazama, "Distinct circuit motifs evaluate opposing innate values of odors", Cell, 10.1016/j.cell.2025.08.032
発表者
理化学研究所
脳神経科学研究センター 知覚神経回路機構研究チーム
特別研究員 染谷 真琴(ソメヤ・マコト)
テクニカルスタッフⅠ 太田 和美(オオタ・カズミ)
チームディレクター 風間 北斗(カザマ・ホクト)

報道担当
理化学研究所 広報部 報道担当
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