理化学研究所(理研)脳神経科学研究センター 時空間認知神経生理学研究チームの大内 彩子 基礎科学特別研究員らの共同研究グループは、機械学習と電気生理学的手法を組み合わせることで、わずか五つの苔状(たいじょう)細胞[1]の膜電位変化[2]から、海馬[1]で生じる「鋭波リップル(SWR)[3]」という脳波のおよそ30%を再構築できることを発見しました。これにより、海馬の情報が効率的に、苔状細胞に分散して符号化[4]されることを明らかにしました。
本研究成果は、脳内の情報処理において、記憶に関わる情報が失われずに保持・伝達されることを明らかにしたもので、記憶メカニズムのさらなる理解に貢献することが期待されます。
今回、共同研究グループは、海馬スライス標本において最大五つの苔状細胞からホールセルパッチクランプ記録[5]という電気生理学的な記録を行い、同時に海馬CA3野[1]で生じるSWRの記録を行いました。加えて、苔状細胞の膜電位変化に基づいてSWRを予測する機械学習モデルを開発し、SWRに関連する情報が苔状細胞で、発火に至らない「揺らぎ」といったレベルの閾値(いきち)下活動[2]に符号化されていることを示しました。
本研究は、科学雑誌『eLife』オンライン版(10月7日付:日本時間10月7日)に掲載されました。
少数の細胞層を介する情報伝達において情報損失を最小化する仕組み
背景
脳の情報処理において、神経が伝達する情報は神経回路のさまざまな細胞層を通過する過程で処理されます。しかし、各層の細胞数は層ごとに異なるため、とりわけ細胞数の大きな細胞層から小さな細胞層へ、どのようにして効率的に情報が符号化されるのかはほとんど解明されていませんでした。この問題に取り組むため、共同研究グループは記憶や学習を担う海馬に存在する苔状細胞に着目しました。苔状細胞は数が非常に少ないにもかかわらず、神経情報を中継する神経細胞として知られていますが、その詳細は明らかではありませんでした。この小さな細胞集団がどのようにして情報を失わずに処理できるかを理解することは、記憶の仕組みを解き明かす上で重要です。
海馬では、睡眠や休息時に「鋭波リップル(SWR)」と呼ばれる神経活動が生じます。これは過去の体験を短い時間スケールで再生し、記憶を固定化するために重要な現象です。しかし、この現象に苔状細胞がどのように関与し、記憶に影響を与えるのかは不明でした。
研究手法と成果
今回、共同研究グループは、海馬CA3野と歯状回(しじょうかい)[1]の間に存在する苔状細胞が、少ない細胞数でどのように神経情報を処理しているのかを明らかにすることを目的としました。マウスを対象として、海馬スライス標本および生きたマウスからホールセルパッチクランプ記録を行い(図1)、海馬において最大五つの苔状細胞から発火に至らない膜電位変化(閾値下活動)を記録し、同時に海馬CA3野から生じるSWRを記録しました。また、機械学習を応用して、苔状細胞の閾値下活動からSWRを予測できることを示しました。その結果、少数の苔状細胞であっても、互いに独立して情報を分担することで効率的に記憶関連情報を保持・伝達することが明らかになりました。具体的には次の通りです。
図1 海馬スライス標本および生体マウスからのホールセルパッチクランプ記録
- A:マウスの海馬スライス標本で、最大五つの苔状細胞の膜電位変化とCA3野のSWRをそれぞれ記録した。
- B:生きたマウスで、海馬の苔状細胞の膜電位変化とCA1野のSWRをそれぞれ記録した。
まず、海馬スライス標本を用いた電気生理学実験では、最大で五つの苔状細胞の膜電位変化を同時に記録することに成功しました。並行して、海馬CA3野の局所場電位を記録し、記憶再生に関与する特徴的な神経活動であるSWRとの対応関係を解析しました。さらに、麻酔下のマウスにおいても苔状細胞の膜電位変化を捉え、生体環境下でも海馬スライス標本と同様の現象が見られるかを確かめました。
次に、同時に記録した苔状細胞の膜電位変化とそれに対応するSWRを組み合わせてシステムに学習させ、苔状細胞の活動からSWRを予測できるかを検証しました。ニューラルネットワーク(ヒトの脳を模倣する目的で考案された数理モデル)を用いた解析により、苔状細胞の膜電位変化が保持する情報の量と質を統計的に評価しました。その結果、たった一つの苔状細胞の記録からでも、記録された全体のおよそ9%のSWRを有意に予測できることが示されました。これは単一の苔状細胞が予想以上に豊富な情報を保持していることを意味します。さらに、複数の苔状細胞を組み合わせると予測精度は大きく向上し、五つの苔状細胞を同時に記録した場合には、全体の30%以上のSWRを予測できることを確認しました(図2)。
図2 機械学習モデルを用いた膜電位変化からのSWRの予測
- A:SWRと同時に記録した苔状細胞の膜電位変化を入力層に入れることによって、SWRを予測する機械学習モデルを開発した。FC(full connected layer:全結合層)は、ニューラルネットワークにおいて、その層内の全てのニューロンが前層の全てのニューロンと接続されている層を表す。数字はサイズを表す。
- B:全SWRのうち、各苔状細胞から予測できる範囲のイメージ図。
- C:苔状細胞の数が増えるにつれて、予測されるSWRの割合はほぼ直線的に上昇する。
また、各苔状細胞が予測できるSWRは部分的に重複が見られるものの、細胞ごとに異なる情報を分担していることが明らかになりました。言い換えれば、苔状細胞の集団は分散的かつ独立的に情報を符号化しており、効率的に記憶に関連する情報を扱える仕組みを備えていると考えられます。
加えて、生体内の記録においても単一の苔状細胞からSWRを有意に予測できることが確認できました。これは、スライス標本で得られた結果が生きた脳の中でも成立することを裏付ける重要な証拠です。また、全体のSWRを50%符号化するには、およそ8細胞、90%を符号化するには27細胞が必要であるとの推定結果も得られました。
以上の成果から、苔状細胞は数が少ないにもかかわらず、互いに独立して情報を分担することで効率的に記憶に関連する情報を保持・伝達できることが明らかになりました。
今後の期待
本研究ではこれまで十分に理解されてこなかった「小規模な神経細胞層がどのように情報を効率的に処理しているのか」を初めて実験的に示しました。苔状細胞が少数であっても記憶に関わる情報を失わずに保持・伝達できることを明らかにしたことは、脳が情報損失を極力回避して情報を圧縮する仕組みを持っていることを示しています。本研究成果により、海馬の情報処理メカニズムを理解する新しい視点を提供するとともに、脳の効率的な情報処理の仕組みの一端を解明しました。今後は、生きた動物を用いた行動実験を行うことで、実際にどのような記憶が選別され符号化されるのかを明らかにすることを目指します。
補足説明
- 1.苔状(たいじょう)細胞、海馬、海馬CA3野、歯状回(しじょうかい)
海馬は脳の中で、記憶や学習をつかさどる領域。解剖学的には大脳新皮質の内側に位置し、タツノオトシゴに似た形をしていることから「海馬」(タツノオトシゴの別名)と呼ばれる。海馬は主にCA1野、CA3野、歯状回の亜領域に分かれている。苔状細胞は、海馬のCA3野と歯状回の間に散在する興奮性の神経細胞。 - 2.膜電位変化、閾値(いきち)下活動
個々の神経細胞へのシナプス入力が膜電位(細胞の内外の電位差)の変化として観察され、神経細胞の膜電位は常に揺らいでいる。これらの入力が閾値を超えると発火活動として観察されるため、発火活動が起こる前のこのような揺らぎは閾値下活動とも呼ばれる。 - 3.鋭波リップル(SWR)
ノンレム睡眠時や休息時に主に海馬で観察される約200Hzの脳波。SWRの発生時には、直前の学習や経験で観察された発火シークエンスが圧縮して再生され、記憶の固定化に重要な役割を果たすと考えられている。SWRはsharp wave-ripplesの略。 - 4.符号化
外界からの刺激や体験した出来事の情報がシナプス入力や膜電位変化などの神経活動パターンとして表現される過程を指す。記憶は符号化(獲得)・固定化(貯蔵)・想起の3段階で成立し、その最初の基盤が符号化である。 - 5.ホールセルパッチクランプ記録
単一細胞の膜電位変化および発火活動を記録できる電気生理学的手法。
共同研究グループ
理化学研究所 脳神経科学研究センター
時空間認知神経生理学研究チーム
基礎科学特別研究員 大内 彩子(オオウチ・アヤコ)
数理脳科学研究チーム
チームディレクター 豊泉 太郎(トヨイズミ・タロウ)
東京大学 大学院薬学系研究科 薬品作用学教室
助教 松本 信圭(マツモト・ノブヨシ)
教授 池谷 裕二(イケガヤ・ユウジ)
研究支援
本研究は、科学技術振興機構(JST)戦略的創造研究推進事業(ERATO)「池谷脳AI融合プロジェクト(研究代表者:池谷裕二)」、同戦略的創造研究推進事業(CREST)「データ駆動・AI駆動を中心としたデジタルトランスフォーメーションによる生命科学研究の革新(研究総括:岡田康志)」の研究課題「多階層の神経活動データ駆動による睡眠脳の機能解明(研究代表者:井ノ口馨)」、日本医療研究開発機構(AMED)脳神経科学統合プログラム(個別重点研究課題)「生成AIを用いた脳情報の逆相関探索と外部デジタル化(研究開発代表者:池谷裕二)」、日本学術振興会(JSPS)科学研究費助成事業特別研究員奨励費「海馬歯状回におけるリバース伝播の生理的意義の解明(研究代表者:大内彩子)」、同若手研究「空間ナビゲーションにおいて未来の経路を予測する神経メカニズムの解明(研究代表者:大内彩子)」、Beyond AI研究推進機構などによる助成を受けて行われました。
原論文情報
- Ayako Ouchi, Taro Toyoizumi, Nobuyoshi Matsumoto, Yuji Ikegaya, "Distributed subthreshold representation of sharp wave-ripples by hilar mossy cells", eLife, 10.7554/eLife.97270
発表者
理化学研究所
脳神経科学研究センター 時空間認知神経生理学研究チーム
基礎科学特別研究員 大内 彩子(オオウチ・アヤコ)
大内 彩子
発表者のコメント
近年、神経科学研究では出力である「発火活動」に焦点を当てる傾向が強いですが、本研究は、SWRという海馬の特徴的な脳活動に着目し、発火に至らない閾値下活動においても精緻な情報符号化が行われることを明らかにしました。この成果は、発火活動のみならず閾値下活動の意義を再評価する契機となり、記憶メカニズムの理解を一層深めることが期待されます。(大内 彩子)
報道担当
理化学研究所 広報部 報道担当
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