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2009年10月1日

独立行政法人 理化学研究所
財団法人高輝度光科学研究センター

軟X線を活用、水溶液中の分子の電子状態を初めて観測

-pHに合わせて変化する酢酸の構造を直接キャッチ-

ポイント

  • 照射する軟X線のエネルギーを酢酸の吸収に合わせ、水溶液中の分子を選択的に観測
  • 電離した酢酸と電離していない酢酸の電子状態の違いを見分ける分析法を確立
  • 水溶液中での溶質分子の変化を詳細に研究することが可能に

要旨

独立行政法人理化学研究所(野依良治理事長)は、大型放射光施設SPring-8※1が発する軟X線を使って、常温常圧の水溶液中の分子の電子状態を選択的に観測することに世界で初めて成功しました。これは、理研放射光科学総合研究センター(石川哲也センター長)量子秩序研究グループ励起秩序研究チームの辛埴チームリーダー(国立大学法人東京大学物性研究所教授兼任)、堀川裕加ジュニアリサーチアソシエイト(JRA)※2、徳島高研究員、原田慈久客員研究員(東京大学大学院工学系研究科特任准教授兼任)、国立大学法人広島大学理学部の高橋修助教、励起秩序研究チームのチャイナニ・アシシ専任研究員、財団法人高輝度光科学研究センターの仙波泰徳研究員、大橋治彦副主席研究員、国立大学法人広島大学理学部の平谷篤也教授らによる共同研究の成果です。

水溶液は、水の中に物質が溶け込んだ液体で、飲料から、海洋の水、細胞の中の水に至るまで、さまざまな形で身近に存在しています。化学の用語では、溶け込んだ物質のことを「溶質」、物質を溶かしている液体を「溶媒」と呼びます。水溶液中では、溶質の分子が溶媒の水分子やほかの溶質分子との間で、相互に影響を及ぼし合いながら動き回っていると考えられています。分子の性質は、分子を構成する原子核の配置や電子がどのような状態にあるかによって決まるため、溶質の分子の電子状態を観測することができると、溶質分子が水溶液中で水分子から受ける影響、つまり分子間の相互作用を詳細に調べることが可能になります。このような相互作用は、溶液における化学反応、液体の粘性など物理的な性質だけでなく、生物の細胞内の化学反応やタンパク質の構造などにも関係し、幅広い分野での応用研究の進展が期待できます。研究グループは、身近な食品の酢の成分である酢酸※3を使って、水溶液中の分子の電子状態が選択的に観測できることを確認しました。酢酸は、水溶液のpH※4を酸性から塩基性(アルカリ性)へと変化させると、電離※5によって構造変化を起こすことが知られています。本研究では、この構造変化を測定することで電子状態を観測できることを立証しました。

本研究成果は、英国の科学誌『Physical Chemistry Chemical Physics』Vol. 11, Issue 39に掲載され、本研究成果を基に描いたイラストが表紙を飾るのに先立ち、オンライン版(9月30日付け:日本時間10月1日)に掲載されます。

背景

水溶液は、水の中に物質が溶け込んだ液体で、身近な飲料から、地球表面の7割を占める海洋の水、細胞の中の水に至るまで、さまざまな形で身近に存在しています。化学の用語では、溶け込んだ物質のことを「溶質」、また、物質を溶かしている液体を「溶媒」と呼びます。

分子レベルでは、溶液の中に溶けている溶質の分子は、孤立している気体の分子などとは違い、その周りを取り囲んでいる溶媒の分子から影響を受けていると考えられています。例えば、同じ物質の反応でも、水溶液と有機溶媒を使った溶液では、溶質分子の周りを取り囲んでいる溶媒分子の違いによって、異なる化学反応が引き起こされたり、反応が起こらなかったりすることがあります。

水溶液は、大量の水分子に少量の溶質分子が溶け込んでいる状態なので、一般的には、特定の溶質分子の電子状態の情報を取り出すのは困難です。しかし、電子がどのような状態にあるかによって分子の性質が左右されるため、水溶液中の溶質分子の電子状態を観測することができると、水の中に溶けることによって起こる分子の変化を詳細にとらえ、複雑な反応の過程などを研究することが可能になります。

理研の励起秩序研究チームは、これまでにも軟X線発光分光という実験手法(図1)を使って、液体の分子構造の解明や性質そのものを見極める研究を進めてきました。今回、この軟X線発光分光を使って、常温常圧の水溶液中の酢酸分子の電子状態を観測することに挑みました。酢酸は、食品の酢の成分で、古くから知られているありふれた分子ですが、水溶液のpHを酸性~中性~塩基性と変化させると、酢酸分子中の水素原子が分離し、構造変化を引き起こすことが知られています。研究グループは、このように性質がよく調べられた分子を用いることで、電子状態を観測する新たな実験手法の有効性を確認できると考えました。

研究手法

軟X線は、物質を透過してしまう医療用などのエネルギーの高いX線と異なり、透過性が低く、さまざまな原子や分子によって容易に吸収されます。軟X線発光分光法は、このような軟X線領域の光の性質を活用し、物質に照射することで生じる発光のエネルギー分布を観測する手法です。軟X線発光のエネルギー分布(スペクトルと呼ばれます)は、物質の性質に関係する価電子※6の情報をほぼそのまま反映しているため、軟X線発光のスペクトルを調べることで電子状態を観測することが可能になります。

研究グループは、代表的な水溶液として酢の主成分である酢酸の水溶液を選びました。酢酸は、酸性~中性~塩基性と水溶液のpHを変化させると、特定の部位にある水素原子が酢酸分子から外れてしまう、電離と呼ばれる構造変化を引き起こします。電離は、高校の化学の教科書にも記載があるようなよく知られている現象で、酢酸のように構造が単純な分子では、どのような割合で電離が起こるかについて理論式がすでに知られています。このため、pHと軟X線発光の観測結果の関係を理論式による予測と照らし合わせると、軟X線発光分光法で水溶液中の酢酸の電子状態を観測可能であることが立証できます。

研究成果

酢酸分子を選択的に観測するためには、酢酸分子によって吸収されやすい軟X線のエネルギーを知る必要があります。軟X線発光は、軟X線の吸収によって引き起こされる現象なので、効率的に酢酸分子だけに軟X線を吸収させることができれば、酢酸からの軟X線発光を選択的に観測することが可能になります。そこで、SPring-8の理研物理科学ビームライン(BL17SU)を用いて、照射した軟X線のエネルギーがどれだけ試料に吸収されたかを測る軟X線吸収分光法で測定を行いました。その結果、酢酸水溶液の軟X線の吸収スペクトルには、水に由来する構造とははっきりと区別できる酢酸分子に固有なピーク構造を観測しました(図2)。従って、このピーク構造に軟X線のエネルギーを合わせることで、酢酸からの軟X線発光を選択的に観測することができることが分かりました。

照射する軟X線のエネルギーを酢酸の吸収ピーク構造に合わせ、軟X線発光が酢酸のpHによってどのように変化するかを測定した結果、酸性の溶液と塩基性の溶液ではまったく異なる形状のスペクトルを観測しました(図3)。これは、電離していない状態 (酢酸:CH3COOHの形)と電離した状態(酢酸イオン:CH3COO-の形)の電子状態の違いが見分けられたことを意味し、密度汎関数法(DFT法)※7による電子状態の計算でも、電子状態の変化によって軟X線発光スペクトルが変化することを支持する結果を得ました。さらに、pHを変化させるとスペクトルの形状が変化するにもかかわらず、「等発光点」と呼ばれる強度が変化しない点が観測できることが分かりました(図4)。等発光点は、スペクトルが2成分から成り立っていて、その2成分の比率だけが条件の変化によって変わるときに観測できる点です。可視光などを使った分析手法では、解析に利用されていますが、軟X線の発光スペクトルで観測されたのは初めてです。実際に、軟X線発光で得た、電離していない酢酸と電離した酢酸イオンに対応する、酸性と塩基性でのスペクトルを使って、中間のpHのスペクトルを再現できるかどうかを確認しました。すると、例えば、pH=4.73のスペクトルは、酢酸のスペクトルを48%、酢酸イオンのスペクトルを52%の割合で足し合わせると再現できることが分かりました(図5左)。この方法で、ほかのpHでのスペクトルについても、酢酸と酢酸イオンのスペクトルの比率を求め、pHとの関係を調べると、理論式(Henderson-Hasselbalch 式)による酢酸と酢酸イオンの比率の予測と正確に一致しました(図5右)。従って、逆に酢酸と酢酸イオンのスペクトルの比率を使うことで、酢酸と酢酸イオンの比率を分析できることが分かりました。このように、水溶液中の分子の価電子状態の明確な変化を直接かつ明確にとらえることができたのは、世界で初めてです。

今後の期待

今回、水溶液中の分子の電子状態を観測する新たな実験方法を確立できたことで、水の中に溶け込んで変化する分子の状況を、詳細に研究することが可能になります。特に、液体中の分子の間に働く水素結合※8のような相互作用が、分子の電子状態へどのような影響を及ぼすかなど、これまで理論計算によって推測していた情報を直接観測することが可能になります。これにより、溶液中の化学反応、液体の粘性など、分子間の相互作用が重要な現象に対する研究の進展が期待できます。また、酢酸分子と類似の分子構造は、アミノ酸やタンパク質などの生体分子にも含まれており、軟X線発光分光法による観測手法は、さまざまな生体分子への応用が可能となります。特に、今回の研究で軟X線発光分光法を使って、電離している酢酸分子の比率をスペクトルから直接、定量的に測定できることが分かり、従来の手法では観測できない、生体分子の構造変化を電子状態から調べるための手段としての発展も期待できます。

発表者

理化学研究所
放射光科学総合研究センター 利用技術開拓研究部門 量子秩序研究グループ 励起秩序研究チーム
チームリーダー 辛 埴(しん しぎ)
Tel: 0791-58-2933

研究員 徳島 高(とくしま たかし)
Tel: 0791-58-2933

お問い合わせ先

播磨研究所 研究推進部 企画課
Tel: 0791-58-0900 / Fax: 0791-58-0800

(ビームラインに関すること)
放射光科学総合研究センター 石川X線干渉光学研究室
専任研究員 大浦 正樹(おおうら まさき)
Tel: 0791-58-2933 (内線3812)

(SPring-8に関すること)
財団法人高輝度光科学研究センター 広報室
Tel: 0791-58-2785 / Fax: 0791-58-2786

報道担当

独立行政法人理化学研究所 広報室 報道担当
Tel:048-467-9272 / Fax:048-462-4715

財団法人高輝度光科学研究センター 広報室
Tel: 0791-58-2785 / Fax: 0791-58-2786

補足説明

  • 1.大型放射光施設SPring-8
    SPring-8は兵庫県の播磨科学公園都市にある世界最高輝度の放射光を生み出す理研の施設で、その管理運営は高輝度光科学研究センターが行っている。SPring-8の名前はSuper Photon ring-8 GeVに由来。放射光とは、電子を光とほぼ等しい速度まで加速し、電磁石によって進行方向を曲げた時に発生する、細く強力な電磁波のこと。SPring-8では、この放射光を用いて、ナノテクノロジー、バイオテクノロジーや産業利用まで幅広い研究が行われている。
  • 2.ジュニアリサーチアソシエイト(JRA)
    研究現場において知識と経験を豊富に蓄積した研究者と、柔軟な発想と活力に富む若手研究者とが一体となって研究を進めるため、大学院博士課程に在籍する若手研究人材を非常勤として理研に採用し、研究活動に参加させる1996年に発足した理研の制度。
  • 3.酢酸
    酢の成分で、酢の酸っぱい味と香りのもとになっている物質。実験に使われた酢酸水溶液は、不純物の影響をなくすために、研究用の純度の高い酢酸を使って調製している。純度の高い酢酸は、17℃程度まで冷えると固まってしまうため、氷酢酸という別名もある。
  • 4.水溶液のpH
    pHは「ピーエイチ」または「ペーハー」と読み、酸性、塩基性(アルカリ性)の尺度である。純水はpH =7(中性)であり、pHが7よりも小さい場合は酸性、pHが7よりも大きい場合は塩基性である。酢酸は弱酸であるため水溶液を作るとpHは5付近の値になる。pHは0~14の範囲の値がよく使われているが、水素イオンの濃度から算出される値であるため、値の範囲に制限はない。濃度の高い酸の溶液では負の値になることもあるし、濃度の高い塩基の溶液ではpHが14を超えることもある。
  • 5.電離
    物質を溶媒に溶かしたときに陽イオンと陰イオンに分かれること。水に溶かしたときに電離する身近なものとしては、塩化ナトリウムなどの塩、酢酸、クエン酸などの酸、水酸化ナトリウム(苛性ソーダ)などの塩基がある。塩化ナトリウムの場合は、ナトリウムイオンと塩化物イオンに電離する。酢酸の場合には、酢酸イオンと水素イオンに電離するが、電離する性質が弱いため水溶液のpHを変えると、電離している割合が変化する。
  • 6.価電子
    分子は複数の原子核と電子で構成されていて、電子は複数の原子核の正電荷が作り出す分子軌道と呼ばれる状態に捕らえられている。分子軌道は分子によってその形やエネルギーが異なる。分子軌道のうち電子が入っている軌道は、軌道が電子によって占有されているということで占有軌道と呼び、電子が入っていない軌道は非占有軌道と呼ぶ。例えば、下図に示したのは水の分子軌道の形状とそのエネルギー準位である。分子の中の電子は基本的にエネルギーの低い分子軌道から詰まっていくため、エネルギーの低い側が占有分子軌道に、エネルギー準位の高い側が非占有軌道になる。占有軌道のうち、エネルギー準位が高い側にある軌道の一群に入っている電子を価電子と呼ぶ。もっともエネルギー準位が低い領域に分布した軌道の電子は内殻電子と呼ばれる。
    分子軌道の形状とそのエネルギー準位の図
  • 7.密度汎関数法(DFT法)
    電子状態計算に用いられる近似法の1つ。少ない計算労力でさまざまな物理量を定量的に計算できるため、特に大規模な分子系を対象とする場合に多く用いられる。
  • 8.水素結合
    酸素や窒素など、電子をひきつけやすい原子と共有結合した水素原子は電子を引っ張られて弱い正電荷を帯び、隣接する分子中の原子の持つ負電荷との間に共有結合の10分の1程度の弱い結合を生じる。これを水素結合と呼ぶ。水、アルコール、酢酸などの液体の性質には、水素結合が大きくかかわっていると考えられている。また、DNA(デオキシリボ核酸)が二重らせん構造を形成したり、タンパク質がまとまって形状を保っていることも、水素結合が関与していると考えられている。
軟X線発光分光の模式図の画像

図1 軟X線発光分光の模式図

分子軌道のエネルギー準位を示す横線上の塗りつぶされた丸は電子を、点線で表された丸は正孔(電子軌道に電子がない状態)を表す。十分に高いエネルギーの軟X線を物質に照射すると左の図のように軟X線のエネルギーを受け取った内殻電子が電子の入っていない非占有軌道に移動したり(軟X線吸収)、外へ叩きだされたりして、内殻に正孔(電子軌道に電子がない状態)が作られる。この正孔は不安定なため、数フェムト秒(フェムト秒=10-15秒、千兆分の1秒)という短い時間で、右の図のように結合や反応などに関与する価電子が正孔に遷移してより安定な状態になろうとする。その際に放出される光を分光するのが軟X線発光分光である。この軟X線発光の光エネルギーの強度分布を調べると、価電子の状態が分かる。

軟X線吸収スペクトル図

図2 軟X線吸収スペクトル

赤線が純酢酸、3本のピンク線が酢酸水溶液、青線が水の吸収スペクトル。純酢酸には532eV付近に特徴的なピーク構造があり、同じものが酢酸水溶液のスペクトルにも見られる(黄色で塗りつぶした領域)。このピーク構造は水では見られないので、このピークは酢酸由来であることが分かる。従って、このピーク構造に照射する軟X線のエネルギーを合わせると、酢酸を選択的に励起することができる。

純酢酸と酢酸水溶液の軟X線発光スペクトル図

図3 純酢酸と酢酸水溶液の軟X線発光スペクトル

(左側)強酸性の水溶液中(pH 0.29)での電離していない酢酸と、液体の純酢酸の軟X線発光スペクトル。液体の純酢酸では、酢酸はほとんど電離していないため、酸性水溶液中での電離していない酢酸のスペクトルとよく似ている。

(右側)強塩基性の水溶液中(pH 11.44)での電離した酢酸(酢酸イオン)のスペクトル。塩基性水溶液中での電離した酢酸(酢酸イオン)は、スペクトルの形状が純酢酸とははっきりと異なる。

酢酸水溶液の発光スペクトル図

図4 酢酸水溶液の発光スペクトル

溶液のpHを徐々に変化させていくとスペクトルの形状も徐々に変化するが、スペクトル中にpHが変わっても強度が変化しない、等発光点と呼ばれる点が観測される(黒矢印でその場所を示している)。等発光点は、スペクトルが2成分から成り立ち、その2成分の比率だけが条件の変化によって変化するときに現れる。

酢酸水溶液の発光スペクトル図

図5 酢酸水溶液の発光スペクトル

(左側)pH=4.73でのスペクトルの比率の解析結果。pH=4.73の軟X線発光スペクトル(緑の点)を、電離していない酢酸に対応する強酸性(pH=0.29)でのスペクトル(赤線:図4のスペクトルIと同じ)と、電離した酢酸イオンに対応する強塩基性(pH=11.44)でのスペクトル(青線:図4のスペクトルAと同じ)を足し合わせて、中間のpHのスペクトルを再現した結果を黒の実線で示した。比率は、電離していない酢酸のスペクトルが48%、酢酸イオンのスペクトルが52%になっていた。

(右側)pHとスペクトルの比率の解析結果の関係。丸点で示したのが、軟X線発光測定の解析結果から求めた酢酸と酢酸イオンの比率の解析結果。実線は理論式(Henderson-Hasselbalch 式)による酢酸と酢酸イオンの比率。理論式と実験結果が一致している。

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