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女性初の主任研究員“加藤セチ”

概要

理化学研究所(理研)に主任研究員制度が発足したのは1922年である。主任研究員が裁量権を持って研究室を主宰する制度のもと、研究者は自身が必要と考える研究テーマに専念できた。研究者が集まれば、権威・年齢・分野にこだわらない自由で徹底的な議論が活発に行われ、その中から新たなアイデアの芽が生まれた。朝永振一郎は、このような研究環境を「科学者の自由な楽園」と表現した。その楽園で女性初の主任研究員になったのが“加藤セチ(1893-1989)”である。

山形生まれのセチは、教師をしながら北海道大学農学部で学んだのち、1922年に理研に入所。化学分析の研究室に配属されるが、量子力学に興味を持つようになり、物理系の研究室に出入りし分光学を学んだ。吸収スペクトルが化学分析に応用できることに気づくと、さまざまな物質の吸収スペクトルを精力的に分析し、化学構造や化学反応との関連を次々に明らかにしていった。その成果は国際的にも評価され、1953年、女性初の主任研究員となった。異分野との交流からヒントを得て新たな研究領域を創出した、理研の特長を活かした研究者である。

2018年、女性研究者のための「加藤セチプログラム」が新たに設置された。広い視野をもち国際的に活躍できる女性研究者の出現が期待されている。

ビデオ「女性科学者のパイオニアたち4 吸収スペクトルで物質を探る 加藤セチ」(14分08秒)

過酷な生活の中で教師を目指す

加藤セチは1893年、庄内平野が広がる山形県東田川郡押切村(現三川町)で生まれた。大型酪農経営が父の代で失敗、1894年の庄内地震(M7.0)では母、兄、姉の3人が焼死する。父は後添えにキンを迎えて再起を図るが、1908年に病死。家屋敷・家財一切を失い、巨額の負債だけが残った。

セチは、家計を支えるため、鶴岡高等女学校から山形女子師範学校に再入学して地元の小学校教師となるが、継母キンの勧めで、1914年に東京女子高等師範学校(現:お茶の水女子大学)の理科に入学する。キンはミシンを踏んで内職し、東京での娘達との生活を支えた。

教師をしながら北海道帝国大学で学ぶ

1918年に東京女高師を卒業すると、札幌の北星高等女学校に勤めるも、自身が習得した知識に物足りなさを感じ、同年、北海道帝国大学に願書を提出する。教授会が女子の入学に躊躇すると、セチは総長に直談判し、全科選科生として農学科への入学が女子として初めて認められた。

こうして学生と教師の両方の生活を始めたセチは、「講義に対して異常な感動を覚え、学問とはこのように三次元の厚みをもち、しかも生き生きと躍動して止むことのない姿であることを感得したのである」と語っている。

3年で全選科25科目を修了。修了論文が評価され農芸化学科の副手となり、北星高等女学校を退職した。ほどなく同郷の佐藤得三郎と結婚。夫得三郎は母キンとともに生涯の理解者となる。

理研に入所し“吸収スペクトル”と出会う

1922年、東京女子高等師範学校の湯原元一校長の紹介で、財団法人理化学研究所の研究生となり、化学分析の和田(猪三郎)研究室に配属された。

初めはもともと専攻していた農学に関連して土壌をテーマに研究していたが、物理専攻の福田光治氏の話を聞いて量子力学を勉強し始めた。高嶺(俊夫)研究室に出向き分光学の実験を見ているうちに、吸収スペクトルを化学分析に応用するアイデアが生まれた。分光器を用いてさまざまな薬品の吸収スペクトルを撮影し、吸収スペクトルと化学構造の関連を調べ始めた。

セチは、理研に入所した月に長男を、その2年後に長女を出産している。女性の研究者は結婚さえ困難な時代に、理研には独特の寛容さがあったと言えよう。

吸収スペクトルの概要図 吸収スペクトル 連続スペクトルをもつ光が試料を透過すると、試料中に含まれる物質に特有な波長領域が吸収され、連続スペクトルの一部が欠けて黒くなったり、弱められ薄くなった吸収スペクトルが得られる。分光器で吸収スペクトルを測定すれば、試料中の物質の種類や量を非破壊で調べることができる。

吸収スペクトル研究で理学博士に

1927年、ネオヂム塩の吸収スペクトルを撮影・解析し、「ネオヂム鹽の吸收スペクトル」と題した論文を発表。研究対象は無機化合物だけでなく有機化合物にも及び、吸収スペクトルと化学構造の関連を次々に解明していった。

1931年、アセチレンのベンゼンへの重合反応に着目。アセチレンの紫外部の吸収スペクトルをもとに、従来の高温高圧でなく、常温常圧で適当な波長の光を照射してベンゼンを得る研究で、博士の学位を取得した。保井コノ(植物学)、黒田チカ(化学)に続き、日本で3人目の女性理学博士である。

アセチレンの吸収スペクトルの写真 アセチレンの吸収スペクトル。理研彙報(1931年)に発表した論文「アセチレンの重合」の図

理研初の女性主任研究員に

大戦下の1944~1945年には、薮田貞次郎、坂口謹一郎、住木諭介らとともに、肺炎などの感染症治療薬として発見された抗生物質「ペニシリン」の研究に携わった。また、1935~1945年にかけて(財)日本学術振興会などから航空燃料の研究を委嘱されている。

戦後は、山本喜代子と外村シヅとともに光合成の解明や、結核の治療薬に用いられた抗生物質「ストレプトマイシン」の研究に力を注いだ。そして1953年、吸収スペクトルによる化学分析を切り拓いた研究が認められ、女性初の主任研究員となった。

左:加藤セチ/右:加藤セチ(手前)と山本喜代子の写真 左:加藤セチ/右:加藤セチ(手前)と山本喜代子

“理科ゼミ”を主催し高校教諭を支援

セチは、退職した1960年から15年間、現役の物理・化学・生物の高校教師を対象とした「理科ゼミ」を無料で主催した。

斎正子氏(高校教諭)の感想文抜粋

「教育や研究の話が真剣に語り合われる有意義な会であったが、何にも増して加藤先生の深い知識と洞察力、すばらしい着想力と実行力、物の見方と考え方、加えて、生涯を学び続けられる先生の学問への激しい情熱は、参加者の心を魅了し、深い感動を与えずにはおかなかった。…(略)…時に出る稚拙な質問にも軽んじられる風は一度もなかった。常に人を教えるという態度でなく、共に学ぶという謙虚な姿勢で対応された。頭のよしあしで人々を差別された事がなく、本当に学びたいという心の人に限りない声援を送られた。…(略)…理科ゼミに参加した人はみんな云っている。大学や研究室では学べないものを学んだと」

セチの生誕地である押切村は1959年、三川町と改正されたのを機に、セチを名誉町民第一号とした。1989年、セチは東京の自宅書斎で脳梗塞となり永眠した。享年95歳の大往生であった。

加藤セチからのメッセージ

「いたづらに背景を持たぬことをかこち、社会制度の不備に不満を抱き、与へられる時の来るを空しく待つべきではない。叩けば裏木戸は開く、割り込んでゆかうと努力すれば小さな机は与へられる。その与へられたことに感謝し全精神を捧げて学ぶならば次第に光つてゆくであらう」

「天才でも何でもない凡人には、どうせ、あるものしか見えないとあきらめるのは間違いである。どんな芸術でも、どんな科学でも生まれるときは、全くの偶然に霊感が現れるという場合はなく、心を不断に配り、観察を微に入り細に亘って怠らないとき、そこに霊感が降りて、発見が生まれる」

「ふかく科学に憧れてゐる心は、正しい詩の浴槽に浸つてゐるやうな和かなもので、そこには怨みもなければ憎しみもない。また飾り気もなければ、傲りたかぶる心もない。静中に動を観じ、動中に静を観じる哲学的思索に似たものを汲み得るのである。従つて、科学は新らしい天地を啓示してくれる霊魂の窓である。かうしたものを一枚づつ重ねてゆくことができるならば、女性にとつて何物にも優る美服であるといへるであらう」

加藤セチプログラム

理研では、女性研究者の更なる活躍を目指し、優れた女性研究者を惹きつけるための取り組みとして、2018年に女性研究者のための「加藤セチプログラム」を設置した。並外れた能力を持つ女性研究者に、研究室主宰者として独立して研究を推進する機会を提供し、広い視野をもち国際的に活躍できる女性研究者の出現を期待するものである。

詳細は「科学の創造性と可能性を拡げる 若手女性研究リーダーの育成」をご覧ください。

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