2009年8月11日
独立行政法人 理化学研究所
SLAC国立加速器研究所
ストックホルム大学
均一と考えられていた液体の水に不均一な微細構造を発見
-透明な水に隠された謎を日米の放射光の観察で解明-
ポイント
- 不均一性は水の中の2種類の微細構造混在が原因
- 氷とよく似た不均一な微細構造の大きさは約1nm程度
- 微細構造は温度で変化、生物の中の水、化学反応の水などさまざまな水を解く鍵に
要旨
独立行政法人理化学研究所(野依良治理事長)は、大型放射光施設SPring-8※1、米国のSSRL※1の2つの放射光施設を利用した共同研究で、均一な密度と考えられていた液体の水の分子が、ミクロ観察すると実は不均一な状態であることを発見しました。これは、理研放射光科学総合研究センター(石川哲也センター長)量子秩序研究グループ励起秩序研究チームの辛埴チームリーダー(国立大学法人東京大学物性研究所教授兼任)、国立大学法人広島大学理学部の高橋修助教、米国SLAC国立加速器研究所のA.ニルソン(A.Nilsson)教授らを中心とする研究グループ※2の共同研究による成果です。
水の密度の不均一性は、2008年に発見した水の中の2種類の微細構造によるもので、「氷によく似た微細構造」が「水素結合が歪んだ水分子群」の海の中につかっている水玉模様のような微細構造をしているために現れることが、SPring-8を使った電子状態の観測で分かりました。また、「氷によく似た微細構造」の大きさが約1nm(ナノメートル:1nmは10-9)程度であることも判明しました。
均一な液体だと思われていた水が、微細な構造(不均一性)を持つことや微細構造の温度変化の詳細を明らかにしたことは、生物の中での水の役割、化学反応における水の役割、物が水に溶けるメカニズム、などさまざまな分野における水の理解に大きな影響を及ぼすと考えられます。
本研究成果は、米国の科学雑誌『Proceedings of the National Academy of Sciences』オンライン版に8月10日の週に掲載されます。
背景
人間の体重の70%~80%が水であるといわれるなど、水は、地球上の生命へのかかわりも深く、私たちにもっとも身近な物質の1つです。そのため、水は古くから科学者の興味の対象となり、さまざまな実験、研究が進み、その性質の多くが解き明かされてきました。例えば、よく使われる温度の単位である「℃」は、もともとはアンダース・セルシウス(Anders Celsius)が1742年に考案した温度計で使われていた目盛りで、単位「℃」(セルシウス度)のCはセルシウスの頭文字です。純水が大気圧下では一定の温度(0℃)で凍り、一定の温度(100℃)で沸騰するという性質はこの頃に発見されたと考えられています。1780年頃には、アントワーヌ・ラボアジェ(Antoine Lavoisier)が、水を水素と酸素の燃焼反応によって作ることができることや、逆に水を水素と酸素に分解することができることを示し、水が「元素(エレメント)」ではなく水素2つと酸素1つからできた化合物であることを示しました。20世紀になると、X線を使って物質の構造(原子や分子の並び方)が研究されるようになり、液体の水の構造は、1個の水分子が4個の水分子と結びついている氷の構造から、水分子の位置が少しずつずれている状態で、密度が均一な液体であるという連続体の構造モデルが発表されました。このように、水の物理的、化学的性質はすでに300年近く研究対象となっていますが、それでもいまだに新しい謎が発見されることがあります。
近年、液体の水に関して新しい手法を用いた研究が盛んに行われるようになりました。その1つが、SPring-8を使った液体の軟X線発光分光実験です。理研の励起秩序研究チームは、この実験によって、液体の水の中に少なくとも2種類のはっきりと異なる微細構造が存在することを明らかにしました(2008年6月12日プレス発表)。この微細構造の発見を契機に、詳細な研究がSPring-8、米国SLAC国立加速器研究所のSSRLの2つの放射光施設を利用した共同研究が始まりました。
研究手法
研究グループは、X線発光分光実験で明らかになった微細構造の詳細について、広いエネルギー範囲にわたる放射光X線※3を用い、以下の3種類の手法を組み合わせて、それぞれ研究を行いました。
(1)X線小角散乱(SAXS:Small Angle X-ray Scattering)SAXSは、物質にX線を照射した際に散乱されるX線のうち、照射X線からの散乱角度が小さい(数度以下)散乱X線の散乱パターンを分析して、そこから物質の1~100nmの構造の様子を観測する手法です。散乱角度の大きさと構造の物理的な大きさの関係は、構造が大きければ散乱角度は小さく、構造が小さければ散乱角度は大きくなる関係にあります。高輝度で指向性の高い放射光X線が利用可能になったことで、散乱角度が小さい(つまり大きな構造に対応する)領域までX線の散乱パターンをより正確に計測できるようになったことが、今回の成果につながりました。SAXSの実験はSSRLで行いました。
(2)軟X線発光分光(SXES:Soft X-ray Emission SpectroscopyまたはXES:X-ray Emission Spectroscopy)物質の電子状態を観測するSXES法(原理に関しては図1を参照)を活用し、物質の性質に直接関係する価電子を観測しました。今回の研究では、水の酸素分子からの情報を得るのに適したエネルギー550eV(波長2.25nm)の軟X線を観測に用いています。軟X線は、物質中での透過性が低いため、液体の軟X線発光実験ができる装置そのものの開発や運用が難しく、世界中でも実働しているのは数例しかありません。そのうちの1台が、SPring-8の理研物理科学ビームライン BL17SUで開発した装置です。2008年に、液体の水の中に少なくとも2種類の微細構造が存在することを明らかにしたのも、この手法によるものです。今回は、2種類の微細構造の詳細な温度変化を測定するために、以前の測定より広い温度範囲で測定しました。
(3)X線ラマン散乱(XRS:X-ray Raman Scattering)物質の性質に関係する非占有分子軌道※4を観測するX線ラマン散乱法を活用し、以前に研究された液体の水の非占有分子軌道の観測結果との比較を行いました。今回の研究では利用されていませんが、軟X線発光分光法で利用されている軟X線より、エネルギーが高く透過性の良いX線を使うため圧力をかけた状態でも測定できます。XRSの実験はSSRLで行いました。
研究成果
物質の構造を見ることができるX線小角散乱の測定結果を見ると、純水(H2O)では散乱角の小さい領域(Qの小さい領域)にQ=0に向かって増加する散乱曲線が得られます(図2左)。これは、水の中に比較的大きな物質の密度の不均一性(濃淡)が存在することを示しています。例えば、水との比較のために、分子間の相互作用が弱く、密度の不均一性を持たないと考えられる四塩化炭素(CCl4)を測定したところ、散乱曲線は散乱角の小さい領域でも増加しません(図2右)。また、散乱曲線の温度変化にも水と四塩化炭素の間で面白い違いが見られました。四塩化炭素では、散乱曲線の温度変化はほとんど見られないのに対して、水の場合は、温度を低くするとQ=0に向かって散乱曲線が増加する傾向が強くなり、曲線のへこみ(極小)が大きくはっきりとし、温度を高くするとQ=0に向かって散乱曲線が増加する傾向は小さくなって、へこみが目立たなくなることが分かりました。これは、水のミクロな密度の不均一性が温度を上げると目立たなくなり、温度を下げるとよりはっきりとすることを意味しています。
この不均一性と、軟X線発光の観測によって明らかにした液体の水の中の2種類の微細構造との関係を調べるために、軟X線発光法、X線ラマン散乱法を用いて水の温度によるスペクトル変化の測定を行いました(図3)。測定には、普通の水(H2O)よりも、2種類の微細構造の比率の観測が容易な重水(D2O)を使っています。軟X線発光法とX線ラマン散乱法はともに、「氷によく似た微細構造」に対応するピークAの強度が温度によって変化しますが、エネルギー軸上での位置は変化しません。一方、「水素結合が歪んだ水分子群」に対応するピークBは、温度を変えるとピークの位置が変化します。つまり、温度を上げることによって、ピークBに対応する「水素結合が歪んだ水分子群」は、熱振動によって構造が変化することを示しています。
X線小角散乱の温度変化では、温度を上げると、水に特徴的な密度の不均一性による散乱曲線がQ=0に向かって増加する傾向が小さくなって目立たなくなる様子が見られています。軟X線発光分光法の結果では、「水素結合が歪んだ水分子群」と「氷によく似た微細構造」に対応するピークは、双方とも温度を上げるとその比率は変わりますが、ピーク構造がなくなることはありません。したがって、単純に物質の密度の不均一性が温度を上げるとなくなるわけではなく、温度上昇によって高密度成分である「水素結合が歪んだ水分子群」の密度が減少し、低密度成分である「氷によく似た微細構造」との密度の差が小さくなると推測することができます。X線小角散乱の測定結果から、水の不均一性の原因である「氷によく似た微細構造」を球形と仮定し、その物理的な大きさを解析すると、直径が約1nm程度であることが判明しました。
X線小角散乱、軟X線発光分光法、X線ラマン散乱のいずれの手法も、1~2ピコ秒(1ピコ秒は10-12秒)で組み替わる水素結合による水の構造の動的変化よりも速いフェムト秒(1フェムト秒は10-15秒)以下の情報を観測できる手法です。従って、動的に変化している水の液体構造を瞬間的に捉えると「氷によく似た微細構造」が、「水素結合が歪んだ水分子群」の海のなかにつかっているような、水玉模様のような微細構造(図4)をしていると考えられます。
今後の期待
今回の研究で、均一な液体だと思われていた水がミクロに見ると実は不均一で、その不均一性の原因が水の中の2種類の微細構造であることを明らかにすることができました。これは、研究者が長年挑戦し続けてきた裾野の広い基礎的な分野の成果で、物が水に溶けるメカニズム、生物の中での水の役割、化学反応における水の役割など、さまざまな領域に影響を及ぼすと考えられます。
発表者
理化学研究所
放射光科学総合研究センター 利用技術開拓研究部門 量子秩序研究グループ 励起秩序研究チーム
チームリーダー 辛 埴
Tel: 0791-58-2933 (内線3370)
研究員 徳島 高(とくしま たかし)
Tel: 0791-58-2933 (内線3777)
客員研究員 原田 慈久(はらだ よしひさ)
Tel: 0791-58-2933 (内線3966)
(国立大学法人東京大学大学院工学系研究科特任准教授兼任)
お問い合わせ先
播磨研究所 研究推進部 企画課Tel: 0791-58-0900 / Fax: 0791-58-0800
(ビームラインに関すること)
放射光科学総合研究センター 石川X線干渉光学研究室
専任研究員 大浦 正樹(おおうら まさき)
Tel: 0791-58-2933 (内線3812)
(SPring-8に関すること)
財団法人高輝度光科学研究センター 広報室
Tel: 0791-58-2785 / Fax: 0791-58-2786
報道担当
理化学研究所 広報室 報道担当Tel: 048-467-9272 / Fax: 048-462-4715
補足説明
- 1.大型放射光施設SPring-8と放射光施設SSRL
SPring-8は兵庫県の播磨科学公園都市にある世界最高輝度の放射光を生み出す理研の施設。SPring-8の名前はSuper Photon ring-8 GeVに由来。放射光とは、電子を光とほぼ等しい速度まで加速し、電磁石によって進行方向を曲げた時に発生する、細く強力な電磁波のこと。SPring-8では、この放射光を用いて、ナノテクノロジー、バイオテクノロジーや産業利用まで幅広い研究が行われている。一方、SSRL(Stanford Synchrotron Radiation Lightsource)は、米国SLAC国立加速器研究所(SLAC National Accelerator Laboratory)に設立されている放射光施設の名称。 - 2.研究グループ
理研放射光科学総合研究センター量子秩序研究グループ励起秩序研究チームの辛埴チームリーダー、徳島高研究員、堀川裕加ジュニアリサーチアソシエイト、原田慈久客員研究員(東京大学大学院工学系研究科特任准教授兼任)、国立大学法人広島大学理学部の高橋修助教、米国SLAC国立加速器研究所のA.ニルソン教授およびスウェーデンストックホルム大学のL.G.M.ペターソン(L.G.M.Pettersson)教授を中心とする研究グループ。 - 3.広いエネルギー範囲にわたる放射光X線
放射光施設では、原理的には赤外線、可視光、軟X線、X線、硬X線とあらゆるエネルギー範囲の光を連続的に発生させることができる。今回の研究ではそれぞれの手法に合わせてX線小角散乱ではエネルギーが11keVのX線、X線ラマン散乱では約6keVのエネルギーのX線、軟X線発光分光法では水の酸素からの情報を得るのに適したエネルギーである500eV付近のエネルギーの軟X線を観測に用いた。 - 4.非占有分子軌道
分子は複数の原子核と電子で構成されていて、電子は原子核が作り出す分子軌道とよばれる状態に捕らえられている。分子軌道のうち電子が入っている軌道は、軌道が電子によって占有されているということで占有分子軌道と呼ばれ、電子が入っていない軌道を非占有分子軌道と呼ぶ。例えば、下図に示したのは水の分子軌道の形状とそのエネルギー準位で、分子に所属している電子は分子軌道のエネルギー準位の低いほうから詰まっていくため、エネルギーの低い側に占有分子軌道が、エネルギー準位の高い側に非占有分子軌道が分布する。占有分子軌道のうち、エネルギー準位が高い側にある軌道の一群に入っている電子が価電子で、それ以外のエネルギー準位が低い側の軌道の電子が内殻電子となる。
図1 軟X線発光分光の模式図
図で、塗りつぶした丸は電子を、点線で表した丸は正孔を表す。左の図のように内殻の電子が軟X線によって叩きだされる(軟X線吸収)と、内殻に正孔(電子軌道に電子がない状態)が作られる。この正孔は不安定なため、右の図のように水素結合に関与する価電子が正孔に遷移してより安定な状態になる。その際に放出される光を分光するのが軟X線発光分光である。この軟X線の光エネルギーの強度分布を調べることで電子の状態が分かる。
図2 X線小角散乱の測定結果
(左図)純水の測定結果。深緑線から黄緑線に向かって、それぞれ7, 11, 16, 20, 25, 29, 38, 47, 56 ,74℃での測定結果。
(右図)液体の四塩化炭素(CCl4)での測定結果。深緑線から赤線に向かって6, 11, 16, 21, 25, 30℃での測定結果。
縦軸のS(Q)は構造因子といい、散乱の強度に対応する量。横軸のQは散乱ベクトルといい、散乱角の大きさ、つまり構造の大きさに対応する量。散乱角が大きいほど構造は小さく、散乱角が小さいほど構造は大きいものに対応する。
図3 重水(D2O)の軟X線発光スペクトルとX線ラマン散乱スペクトル
これまでの研究結果によるとピークAは「氷のような微細構造」、ピークBは「水素結合が歪んだ水分子群」に対応する。軟X線発光スペクトルの左上には、AとBのピーク間隔の温度変化を示した。X線ラマン散乱スペクトルの左上は、温度によるピークBのエネルギー位置の変化を拡大して示した。このスペクトルから、「氷のような微細構造」は温度によらず構造が不変であるのに対し、「水素結合が歪んだ水分子群」の成分は温度上昇によって構造が変化することが分かる。
図4 これまでの軟X線発光、X線ラマン散乱、X線小角散乱の実験データーを元に作成した想像図
(上図)以前に行った室温の水(H2O)の発光スペクトルの解析によって得た2成分と、今回発見した「水素結合が歪んだ水分子群」と「氷によく似た微細構造」の関係を示した。
(下図)水の構造の違いを色で表している。実際には3次元の構造であるが平面図に単純化してある。水の温度が上昇すると、高密度成分の密度が小さくなり低密度成分に近づくことで、水玉状の密度の濃淡が小さくなるため、X線小角散乱による観測では2成分の差が見えにくくなる。この構造は1~2ピコ秒で組み替わる水素結合によって常に変化しているが、この研究で用いた軟X線発光、X線ラマン散乱、X線小角散乱のような、水素結合の変化よりも速いフェムト秒以下の情報を観測できる方法を使うと、常にこのような構造の違いが検出されると考えられる。