2013年3月18日
独立行政法人理化学研究所
国立大学法人長崎大学
アルツハイマー病の血管からの投与による遺伝子治療実験に成功
-簡便な方法でアルツハイマー病予防となる潜在力をもつ-
ポイント
- 血管内に投与して脳内の神経細胞だけに遺伝子発現するウイルスベクターを開発
- アルツハイマー病モデルマウスの認知機能が野生型マウスレベルに回復
- 大量に生産する技術の開発や安全性の問題などが解決されれば、臨床応用も
要旨
理化学研究所(野依良治理事長)と長崎大学(片峰茂学長)は共同で、血管内に投与して脳内だけに遺伝子発現させるウイルスベクター[1]を開発し、学習・記憶能力が低下したアルツハイマー病モデルマウス[2]を野生型マウスのレベルにまで回復させる遺伝子治療に成功しました。これは、理研脳科学総合研究センター(利根川進センター長)神経蛋白制御研究チームの西道(サイドウ)隆臣シニア・チームリーダーと、長崎大学薬学部の岩田修永(ノブヒサ)教授ら、自治医科大学 村松慎一教授、放射線医学総合研究所 樋口真人チームリーダーらとの共同研究グループによる成果です。
従来、脳疾患における遺伝子治療では、外科的手術により直接脳内に効果が期待される遺伝子を組み込んだウイルスベクターを注入していました。しかし、この治療法は簡便性に欠け、遺伝子の局所注入という制約条件があるため広範な脳領域への遺伝子導入は困難でした。
共同研究グループは、循環している血管内に投与し脳内の神経細胞だけに遺伝子発現させる「血管内投与型の脳内遺伝子発現ベクター」を開発しました。このウイルスベクターにアルツハイマー病[3]の原因となるアミロイドβぺプチド(Aβ)[4]を分解する酵素「ネプリライシン[5]」の遺伝子を組み込んで、アルツハイマー病モデルマウスに対して遺伝子治療を施したところ、脳内のアミロイドや神経毒性が強いとされるAβオリゴマー(Aβが複数結合したもの)の量を減少させ、障害を受けていた学習・記憶能力を野生型マウスのレベルまで回復させることに成功しました。
今回開発したウイルスベクターは、中枢神経系疾患の遺伝子治療の概念を変える革新的な技術であり、若年発症型のものを含めて全てのアルツハイマー病患者の根本的な予防や治療法となる潜在力があると考えられます。ウイルスベクターを迅速かつ大量に生産する技術の開発や安全性の問題などが解決されれば、臨床応用も期待できます。
本研究成果は、文部科学省科学研究費補助金 新学術領域研究「シナプス・ニューロサーキットパソロジーの創成」(領域代表 岡澤均 東京医科歯科大学教授)および文部科学省委託事業「分子イメージング研究戦略推進プログラム」の助成を受けて行われたもので、英国のオンライン科学雑誌『Scientific Reports』(3月18日付:日本時間3月18日)に掲載されます。
背景
老年期認知症の大部分を占めるアルツハイマー病は、脳内でのアミロイドβペプチド(Aβ)の凝集・蓄積が発症の引き金となるため、根本的な克服のためには脳内Aβの量を低下させることが必要です。Aβは、アミロイド前駆体タンパク質がβやγセクレターゼと呼ばれる酵素により二段階にわけて一部分が切り取られることで産生されます。また、Aβの分解過程にはネプリライシンと呼ばれるタンパク質分解酵素が関与します。脳内ネプリライシンの量は、加齢やアルツハイマー病の病態進行とともに低下することが明らかにされており、脳内ネプリライシン活性を増強すればアルツハイマー病の症状を緩和できると考えられています。脳内ネプリライシン活性を直接増強する方法としては、ウイルスベクターを用いてネプリライシン遺伝子を直接脳内に導入する遺伝子治療が利用できます。既に欧米や日本では、頭蓋骨にピンホールを開け、脳組織にウイルスベクターを注入する方法(定位脳手術)が臨床的に行われていますが、外科的手術を伴うため簡便性に欠け、広範な脳領域への遺伝子導入が難しいという欠点があります。そこで、循環している血管内に投与し脳内の神経細胞だけに遺伝子発現をもたらすウイルスベクターを開発し、これにネプリライシン遺伝子を組み込んでアルツハイマー病モデルマウスへの遺伝子治療の効果を検討しました。
研究手法と成果
(1)新規開発ウイルスベクターによる脳特異的遺伝子発現
新しいウイルスベクターの開発では、まず、数十種類存在するアデノ随伴ウイルス(AAV)ベクター[6]の血清型の中から血清型9を選択しました。今までマウスの神経細胞へ遺伝子導入することは困難と考えられていましたが、最近の研究で血清型9によって新生仔マウスの神経細胞に遺伝子導入できることが報告されました。さらに、AAVベクターは国内外の遺伝子治療の臨床研究に使用されており、いったん組織・細胞に導入されれば最低でも5年間以上組み込んだ遺伝子を安定的に発現できることが知られています。そこで、神経細胞にだけ目的遺伝子が発現するように工夫したAAV9にネプリライシン遺伝子を組み込んだ新規ウイルスベクターを作製しました。このウイルスベクターをネプリライシン遺伝子欠損マウスの左心室から循環血へ投与し、2週間後に脳と末梢組織について解析したところ、海馬・大脳皮質を含む脳の広範囲でネプリライシンが発現していることを確認しました(図1)。一方、このマウスの心臓、肺、腎臓および肝臓などの末梢組織ではネプリライシンの発現は観察されませんでした(図2)。このことから、循環血に注入しても末梢組織では発現せずに脳の神経細胞だけで発現する血管内投与型の脳内発現ベクターの開発に成功し、アルツハイマー病などの神経変性疾患へ応用が可能であることが明らかとなりました。
(2)アルツハイマー病モデルマウスへの遺伝子治療効果の解析
次に、アルツハイマー病モデルマウスに活性型と不活性型のネプリライシン遺伝子を組み込んだウイルスベクターを投与することで遺伝子治療の効果を検討しました(図3)。加齢に伴って認知機能障害が現れたアルツハイマー病モデルマウスを(1)未処置群、(2)不活性型ネプリライシン遺伝子導入群、(3)活性型ネプリライシン遺伝子導入群の3つに分け、(2)(3)群に対してウイルスベクターを左心室内から循環血に投与しました。5カ月後に、(1)(2)(3)群と(4)野生型マウス群の4群に対して空間学習・記憶能力を評価するモーリス水迷路試験[7]を行ったところ、(2)群(対照群)と比較し、(3)群(遺伝子治療群)では、野生型マウスのレベルまで認知機能が回復していることが分かりました(図4)。また、小動物に用いる小型のPET[8]によるアミロイドイメージング[9]で非浸襲的にアルツハイマー病モデルマウス脳内のアミロイド斑[10]の蓄積を解析したところ、対照群に比較し遺伝子治療群では50%近くアミロイドの蓄積が減少していることが明らかとなりました(図5)。
次に、これらのマウスから脳を摘出し、ネプリライシン活性の測定、アミロイドの免疫染色、複数のAβが結合しているAβオリゴマー(重合体)量の変化をウエスタンブロット法[11]を用いて解析しました。活性型ネプリライシン遺伝子を脳内に導入する遺伝子治療によって、海馬や大脳皮質のネプリライシン活性は対照群に比較し1.5倍に上昇し(図6)、アミロイドの蓄積レベルも35%減少しました(図7)。また、神経毒性が強いとされるAβオリゴマーの量も20%近く減少していることが明らかとなりました。これらの解析結果は、行動実験による認知機能の改善とアミロイドイメージングでのアミロイド蓄積の減少を十分に裏付ける結果となりました。
今後の期待
これまで中枢神経系疾患の遺伝子治療では、定位脳手術による遺伝子注入が行われてきましたが、本研究では、AAV9ベクターに組織特異的に遺伝子発現するよう工夫することで、血管内投与により脳の神経細胞だけに治療遺伝子(ネプリライシン遺伝子)を発現させるという汎用性の高い遺伝子治療法を実現しました。その結果、脳の広範囲でAβが分解され、アルツハイマー病モデルマウス脳内のアミロイド沈着や神経毒性の高いAβオリゴマーを減少させるとともに、障害を受けた認知機能を改善することができました。
また本研究では、アルツハイマー病の治療標的としてのネプリライシン遺伝子治療導入の有用性も明らかになり、若年発症型のものを含めて全てのアルツハイマー病患者の根本的な予防や治療法となる潜在力があると考えられます。今回開発したウイルスベクターを用いれば脳の広範囲に治療遺伝子の導入することができるので、中枢神経系疾患に対してより簡便な遺伝子治療の可能性を示しています。今後、ウイルスベクターを迅速かつ大量に生産する技術の開発や安全性の問題などが解決されれば、臨床応用も期待できます。
一方、これまで脳科学分野の研究には、トランスジェニックマウスやノックアウトマウスなどの遺伝子改変マウスの作製が研究者の努力と共に時間をかけて行われてきましたが、このウイルスベクターを用いれば、簡便に遺伝子発現の制御が可能となり、遺伝子の機能を調べる有用な実験ツールを提供することにもなります。
原論文情報
Nobuhisa Iwata, Misaki Sekiguchi, Yoshino Hattori, Akane Takahashi, Masashi Asai, Bin Ji, Makoto Higuchi, Matthias Staufenbiel, Shin-ichi Muramatsu & Takaomi C. Saido. "Global brain delivery of neprilysin gene by intravascular administration of AAV vector in mice". Scientific Reports 2013 DOI:10.1038/srep01472 .
発表者
理化学研究所
脳科学総合研究センター 神経蛋白制御研究チーム
シニア・チームリーダー 西道 隆臣(さいどう たかおみ)
国立大学法人長崎大学
薬学部 薬品生物工学研究室
教授 岩田 修永(いわた のぶひさ)
お問い合わせ先
脳科学研究推進部 企画課
入江 真理子(いりえ まりこ)
TEL:048-467-9757 FAX:048-462-4914
報道担当
独立行政法人理化学研究所 広報室 報道担当
Tel:048-467-9272 / Fax:048-462-4715
国立大学法人長崎大学広報戦略本部
Tel: 095-819-2007 / Fax: 095-819-2156
kouhou [at] ml.nagasaki-u.ac.jp
※[at]は@に置き換えてください。
補足説明
- 1.ウイルスベクター
ウイルスのゲノムを利用して任意の遺伝子を発現させる担体(ベクター)の総称で、通常は感染性の無いものを用いる。「[6]アデノ随伴ウイルス(AAV)ベクター」を参照のこと。 - 2.アルツハイマー病モデルマウス
アミロイド前駆体タンパク質(APP)遺伝子を染色体上の不特定部位に挿入させ、マウス脳内でAPPを過剰に発現させることで、結果的にAβを蓄積するようになった遺伝子改変マウス。加齢と共に学習・記憶能力などの認知機能に障害を示すようになる。アルツハイマー病モデルマウスとして世界中で使用されている。 - 3.アルツハイマー病
ドイツの精神科医アルツハイマー博士により1905年に報告された進行性の記憶障害を伴う認知症。中高年で発病し、徐々に進行して生活に支障をきたすようになり、最終的には意思疎通ができなくなる。その病理特徴としては、脳内に老人斑と呼ばれるタンパク質の沈着が見られ、この老人斑の主成分がAβであることから、Aβの過剰な蓄積がアルツハイマー病の発症に深く関わっていると考えられてきた。日本を含む先進国では、認知症のうちで最も多いタイプの疾患となっている。 - 4.アミロイドβペプチド(Aβ)
40~43個のアミノ酸が連なってできたペプチド(タンパク質断片)で、アミロイド前駆体タンパク質(APP)が、βセクレターゼやγセクレターゼと呼ばれる酵素によって切断されることで生まれる。アルツハイマー病では、脳内のAβが凝集して線維状になり、脳に沈着することが良く知られている。 - 5.ネプリライシン
疎水性アミノ酸残基のアミノ末端側でタンパク質のペプチド結合を切断する細胞膜結合型のタンパク質分解酵素で、エンケファリナ−ゼ、中性エンドペプチダーゼ24.11とも呼ばれている。理研では脳内でアミロイドβペプチド(Aβ)を分解する主要酵素がこのネプリライシンであることを発見し、2000年、2001年にプレス発表している。 - 6.アデノ随伴ウイルス(AAV)ベクター
アデノ随伴ウイルス(adeno-associated virus)は、AAVと略称される病原性を持たない線状一本鎖DNAウイルス。DNA組換え技術により、目的(治療)遺伝子をAAVゲノムの両端に存在するヘアピン構造の間に挿入して、特定の細胞や組織で目的タンパク質を発現させるベクターとして利用されている。国内外の遺伝子治療の臨床研究に使用され、いったん組織・細胞に導入されれば、最低でも5年間以上安定的に発現する。ウイルスベクターの物理的安定も高い。ベクターは組換えDNA実験おいて目的の遺伝子の保持・運搬の役割を果たす。 - 7.モーリス水迷路試験
空間記憶学習能力の代表的な評価方法の1つ。マウスは周囲の風景を記憶し、それを頼りにゴール(プラットフォーム)を探して水を張ったプール内を泳ぎ回る。記憶学習能力が正常なマウスは、このトライアルを繰り返すとだんだんとゴールに到着するまでの時間が短くなるが、記憶学習能力に障害のあるマウスは、周囲の風景とゴールの場所との相対的位置関係を記憶できずに、このトライアルを数回繰り返してもなかなかゴールできない。 - 8.PET(Positron emission tomography)
画像診断装置の一種でポジトロン(陽電子)を検出することにより、さまざまな病態や生体内物質の挙動をコンピューター処理によって画像化する。 - 9.アミロイドイメージング
アルツハイマー病の原因物質とされるアミロイド斑が脳にたまっているかどうかをPETを用いて対象に大きな負担をかけることなく非浸襲的に調べる方法。静脈注射で「PIB」という放射性医薬品(放射性同位元素で標識された薬剤)を体内に入れ、PETで脳を撮影する。実験動物だけでなく、実際に国内外で臨床的にも行われている。 - 10.アミロイド斑
アルツハイマー病の脳内で早期から見られる特徴的な病理変化。Aβが凝集して線維状になり、脳内で斑点状に沈着する。老人斑とも呼ばれる。 - 11.ウエスタンブロット法
電気泳動により分離したタンパク質を特殊な膜に転写した後、ある特定の抗体を利用することで目的タンパク質の存在を検出もしくは定量する方法。生化学的解析で一般的に用いられる手法。
図1 新規に開発したウイルスベクターをマウスの血管内に投与した後、脳内でのネプリライシの発現を観察した様子
野生型マウス(a)脳内のネプリライシンの発現(緑色のシグナル)はネプリライシンを欠損したマウス(b)では消失しているが、このマウスに新規開発ベクターを血管から投与して遺伝子導入すると脳内の広範囲に渡ってネプリライシンが発現した。
図2 新規開発ベクター血管内投与後の末梢組織でのネプリライシンの発現
上段は野生型マウスの末梢組織でのネプリライシンの発現(緑色)。
下段はネプリライシン欠損マウスに新規開発ベクターを血管内投与した後のネプリライシンの発現(図1cと同一のマウス)。新規開発ベクターでネプリライシン遺伝子を導入しても、末梢組織では発現せず、脳内だけで発現する(図1)することが分かる。
図3 アルツハイマー病遺伝子治療実験の概要
今回の実験では、(1)アルツハイマー病モデルマウス群(未処置)、(2)アルツハイマー病モデルマウス不活性型ネプリライシン遺伝子導入群、(3)アルツハイマー病モデルマウス活性型ネプリライシン遺伝子導入群、(4)野生型(正常)マウス群の4つのグループに分けて、空間学習・記憶能力を評価するモーリス水迷路試験とアミロイド蓄積を評価するPETによる観察を行った。ただし、(1)群についてはすでに過去の研究によりアミロイドが蓄積することが分かっているので、モーリス水迷路試験のみ行った。
その結果、(2)群は、(1)群と同様にアミロイドの蓄積が起こり、学習・記憶障害の改善は見られなかった。一方(3)群は、アミロイド蓄積が(1)(2)群に比べて減少し、学習・記憶障害も(4)群と同じレベルまで回復することが分かった。
図4 空間学習・記憶能力に対する遺伝子治療効果
学習・記憶能力が障害を受けたアルツハイマー病(AD)モデルマウスに新規開発ウイルスベクターを血管内に投与し、モーリス水迷路試験で認知機能を解析したところ、活性型のネプリライシン遺伝子を導入したADモデルマウスの認知機能が野生型マウスのレベルまで回復した。プラットフォームへの到達時間が短いほど、学習・記憶能力が高いことを示す。
図5 遺伝子治療を行ったアルツハイマー病モデルマウス脳内の脳内アミロイド蓄積のアミロイドイメージングを用いた評価
左図:イメージング画像 右図:左図の画像シグナルを定量化したグラフ
活性型ネプリライシン遺伝子を導入したマウス(遺伝子治療群)では、アミロイドの集積が50%まで減少しているのが分かる。
図6 遺伝子治療を行ったアルツハイマー病モデルマウスの脳内のネプリライシン活性の増強とアミロイド蓄積抑制
マウスから脳を摘出し生化学的および病理組織学的解析を行ったところ、活性型ネプリライシン遺伝子を導入したマウス(遺伝子治療群)では、脳内(海馬および大脳皮質)のネプリライシン活性は1.5倍に上昇し、アミロイドの集積も35%減少しているのが分かる。
図7 遺伝子治療を行ったアルツハイマー病モデルマウス脳内のAβオリゴマーの減少
ウエスタンブロット法を用いて摘出したマウスの脳を解析したところ、神経毒性の強いAβオリゴマー(重合体)の量が対照群に比較して遺伝子治療群で20%は減少しているのが明らかになった。