1. Home
  2. 広報活動
  3. クローズアップ科学道
  4. クローズアップ科学道 2023

研究最前線 2023年8月10日

「心の病を治したい」根治療法を求めて

脳は、いまだに謎の多い器官です。脳神経科学研究センターでは脳の機能の解明や疾患の診断法・治療法の開発を行っています。中でも林(高木) 朗子 チームリーダーは、神経細胞の接点であるシナプスから精神疾患に迫ろうとしています。シナプスが示す現象の意味の本質を問い続ける研究への思いと、医師から研究者への転身で得た成果について話を聞きました。

林(高木) 朗子の写真

林(高木) 朗子(ハヤシ・タカギ・アキコ)

脳神経科学研究センター 多階層精神疾患研究チーム チームリーダー

根治できない無力感

「好きな作家は太宰 治です。私自身が究極の陰キャなので…。ただ同じ太宰作品でも、その時々の彼の境遇を分かって読むと、心の状態で作風が違っていることに気付きます」。子どもの頃から"人の心"に興味があったと言う林 チームリーダーが、最初に選んだ職業は心の病を治療する精神科医だった。ところが「何でも治せる」と思っていた精神科に飛び込んでみて、それは幻想だと気付いた。「当時、日本の自殺者数は年間約3万人。心の病はそこに大きく関わっています。なのに、根本的な治療法がありませんでした」と、当時のやりきれない思いを話す。

例えば、統合失調症は幻覚や妄想が現れる精神疾患だ。治療薬のクロルプロマジンは、1950年代に偶然その薬効が発見されたが、その後、神経伝達物質であるドーパミンを抑制していることが分かり、同じ作用を持つ薬が次々に開発された。「この発見は薬物療法の大きなブレークスルーとなりました。それから半世紀以上経った今、精神疾患を根本から治せるようにしたいと思ったのです」

精神疾患を解明する鍵の一つ「シナプス」

精神疾患のメカニズムを解明するために精神科医から研究者へ転身。2007年、留学先の米国ジョンズ・ホプキンス大学で、シナプスの研究を始めた。「最初は手探りでしたが、シナプスの研究を続けるうちに、重要だと確信するようになりました」

私たちの心をつくり出す脳は、約1,000億個の神経細胞の巨大なネットワークでできている。神経細胞と神経細胞のつなぎ目であるシナプスでは、神経細胞の軸索が放出した神経伝達物質を、別の神経細胞の樹状突起にあるトゲ状の構造(スパイン)で受け取る(図1)。神経伝達物質には、グルタミン酸やGABA(ギャバ)、ドーパミン、セロトニンなどがあり、どれも精神疾患で重要とされる分子だ。

2000年代に入ると、精神疾患に関係する遺伝子の多くがシナプスで次々に見つかり、精神疾患へのシナプスの関与は疑いようがなくなった。

神経細胞とシナプスの図

図1 神経細胞とシナプス

神経細胞同士のつなぎ目のシナプスでは、情報を渡す神経細胞の軸索から神経伝達物質が放出され、それを別の神経細胞の樹状突起部分にあるシナプス後部で受け取る。興奮性シナプスの多くは、スパインと呼ばれる微小突起構造上に形成される。

シナプスと記憶の関係が明らかに

2010年、日本に戻ると、マウスの脳を生きたまま2光子顕微鏡を使って直接観察する技術を持つ、東京大学の河西 春郎 教授のもとで研究を続けた。そこで「シナプスが記憶の正体だ」とする通説が正しいことを示した。「これまで、シナプスの変化を観察しても、現象の意味が分かりませんでしたが、シナプスをなくしたところ学習・記憶も消えたのです」

これを示すためには、記憶によって新生したシナプスを追跡し、それをなくすと記憶が失われることを示す必要があった。そのために、五つの遺伝子を組み合わせて、光感受性シナプスプローブ「AS-PaRac1」をつくった(図2)。この人工遺伝子からつくられるタンパク質は、スパインに取り込まれることで、好きな時にスパインを縮小させ、シナプスをなくすことができる。「五つとも既に知られていた遺伝子ですが、普通、いろいろな機能を持つ遺伝子を組み合わせても、思うように働かないことのほうが多いのです。それを五つも。周りからはクレイジーと言われました」と笑う。

開発した複雑な人工遺伝子はマウスの脳で期待通りに働いた。研究成果は国際的に高く評価され※1、AS-PaRac1もスパインを人為的に操作できる新たなツールとして、世界中で活用され次々と重要な研究成果※2を生み続けている。

  • ※1原論文情報:Nature, 2015 DOI:10.1038/nature15257
  • ※2原論文情報:Science, 2019, DOI: 10.1126/science.aat8078
光感受性シナプスプローブ「AS-PaRac1」の巧みなメカニズムの図

図2 光感受性シナプスプローブ「AS-PaRac1」の巧みなメカニズム

図中❶~❺が、つないだ五つの遺伝子。それぞれ、❶活動する神経細胞で発現する、❷スパインの表面のタンパク質をつくる、❸緑の蛍光を発するタンパク質をつくる、❹光が当たると活性化してスパインを収縮させる、❺情報の入力のあったスパインに集まる、といった働きをもつ(上)。
これらの遺伝子が協調して働くことで、産生したタンパク質は、新しく生じたり成長したりしたスパインの表面に組み込まれて緑に光る。さらに光を照射して❹の遺伝子を働かせることで、好きな時にスパインを収縮させられる。
写真は左から、光感受性シナプスプローブ、神経と光感受性シナプスプローブ、神経、がそれぞれ可視化されている。光を照射すると、光感受性シナプスプローブを持つスパインだけが収縮し、シナプスがなくなる様子が観察される(右)。

シナプス民主主義の破綻か?

研究はいよいよシナプスが関与すると考えられる病態を明らかにする段階に入った。シナプスの変調は精神疾患の原因の一つと考えられる。その具体的なメカニズムを探るため、統合失調症に関与すると考えられる神経伝達物質グルタミン酸に注目し、モデルマウスを使ってシナプス伝達から行動までを多階層に検証した。「その結果、巨大なスパインが現れてシナプスの"民主制"を乱していることが分かったのです」

神経細胞は神経伝達物質を受け取ると、電気信号を発する。この電気信号によって神経細胞間の情報伝達が行われるが、一つのスパインが神経伝達物質を受け取ったからといって、電気信号が生じるわけではない。これを民主的な投票の仕組みになぞらえて、「シナプス民主主義」と呼ぶ人もいる。ところが、林 チームリーダーが見つけた巨大スパインは影響力が他より大きいことが分かった。実験では巨大スパインの数が多いマウスは神経回路が不安定になり、作業記憶が低下した。ヒトの統合失調症患者由来の死後脳でも、巨大スパインの数が多いことが確かめられた※3。「今回の研究で、巨大スパインが統合失調症の病態に関与している可能性が提唱できました。従来とはまったく異なる神経伝達物質で新たな治療戦略の可能性を見いだしたことに、大きな手応えを感じています」

  • ※3原論文情報:Science Advances, 2023 DOI: 10.1126/sciadv.ade5973

若い人に続けてほしい研究者という仕事

2019年、林 チームリーダーは最高の研究環境を求めて理研に移ってきた。「脳を研究する世界レベルの仲間と気軽に話せますし、研究所のスタッフや事務職員から温かいサポートも受けることができるので、研究所一丸となって成果を出そうという雰囲気があります。ここで人生最高の仕事をしたいです。研究を続けるのはものすごく大変です。それでも "やった~"と思える瞬間の喜びが、ほかの何にも代えがたい。それは研究を志す若い人たちにも味わってほしい楽しさです」と話す。最近は、iPS細胞や死後脳を利用した「人の神経細胞研究」にも研究の幅を広げており、精神疾患の根治に向け、ますます研究に力が入る。

(取材・構成:池田 亜希子/撮影:古末 拓也/制作協力:サイテック・コミュニケーションズ)

関連リンク

この記事の評価を5段階でご回答ください

回答ありがとうございました。

Top