植物の成長を助ける菌根菌などを活用し、環境にも植物にも負荷をかけない農業を研究している市橋 泰範 チームリーダー。ビッグデータを集め、サイバー空間でダイズを"栽培"し、市場取引まで研究を広げることで地球と人類とのよいバランスを探究しています。
市橋 泰範(イチハシ・ヤスノリ)
バイオリソース研究センター 植物-微生物共生研究開発チーム チームリーダー
農業をデータで記述する
「人類は地球からエネルギーをもらって生きています。しかし、今、プラネタリーバウンダリー(地球の限界)を超えずに地球の回復力の範囲内で活動することの重要性が指摘されています。ですから、品質や収量だけでなく、地球とのバランスをとる農業を探究し『地球と人類の健康』を目指したいのです」
これまでは、微生物、土壌など各分野の専門家がそれぞれの立場から、作物の品質や収量を高めるための手法を探究してきた。いわば、"縦割り"の研究だ。「そこに"横串"を通したのがマルチオミクス解析です」
多様な項目で網羅的にデータを集めるのがマルチオミクス解析の特徴だ。全国各地の畑でダイズを育て、そこで起きている現象をデータとして記録する(図1)。栽培条件や気象データなども含め、マルチオミクス解析のために集めたデータは項目数だけで1万以上。ダイズの収量やタンパク質量、遺伝子の発現状況、化学物質(代謝物)の種類と量はもちろん、菌根菌、バクテリアなど土壌や根の周りにいる微生物の種類と量、さらに土壌のpHや窒素、リン、カリウム量などの化学的性質、土の粒子の大きさや保水性などの物理的性質まで独自に測定した。
図1 マルチオミクス解析のための測定項目
作物、微生物、土壌ごとに集めたデータは、それぞれ階層構造になっている。マイクロバイオーム解析(微生物叢)、トランスクリプトーム解析(遺伝子発現)、メタボローム解析(代謝物)、イオノーム解析(元素)など網羅的な解析をいくつも活用してデータを得る。
図2 土壌のサンプル
全国各地の農地から集めた土のサンプルを分析する。
こうして集めたデータから因果関係を明らかにするために機械学習(革新知能統合研究センター 因果推論チームの清水 昌平 チームリーダーが開発したLiNGAMなど)を用いた。そして、収量やダイズのタンパク質量といった作物の特性は、何がどの程度関与した結果なのかを数値で把握。「現時点の解析結果では、ダイズの収量は気象の寄与率が10%で一番高く、次に土壌の物理性が7%と、生産者ではコントロールしにくい要因にかなり左右されていました。以前から生産者や研究者が認識していた通りなのですが、多様なビッグデータによって数値化したのは初めてです」
マルチオミクス解析ならではの発見もあった。従来は「コマツナは収量を上げようとすると糖度などの品質が下がる。品質を上げるなら収量は犠牲にする」というのが常識で、それを裏付けるメカニズムも分かっていた。しかし、コマツナのマルチオミクス解析で「糖度は上げるが、収量を下げない物質」が見つかった。実際に、その物質を与えてコマツナを育てると、収量は変わらず糖度が高くなった。「マルチオミクス解析でトレードオフの関係にある二つの特性のバランスを取る術を見つけたのです。いずれは、人類の活動と地球環境のバランス取りをする術も発見できるようになると期待しています」
デジタルツインで未来予測
ダイズ栽培を数値で記述できるようになると、サイバー空間上で栽培のシミュレーション(デジタルツイン)から未来の生育状況の予測まで可能になる。
予測精度を高めるために2種のモデルを用いる。一つは、従来の研究手法で作物の生育プロセスから理論立てて導き出す「プロセスベースモデル」、もう一つは、マルチオミクスデータなど大量のデータから機械学習で導き出す「機械学習モデル」だ。2種のモデルを統合すれば、例えばCO2排出量や土壌の健康度の変化、環境への負荷など、プロセスベースモデルがない項目も予測できるようになる(図3)。
図3 デジタルツイン農業の仕組み
さまざまな要因が複雑に絡み合った問題の因果関係を解析するのには機械学習モデルが適している。(北隆館『アグリバイオ』2024年1月号より転載)
この研究は、2050年に向け「より大胆な発想に基づく挑戦的な研究開発」をうたう内閣府のムーンショット型研究開発制度の中で進められている。「応募する際に『挑戦的な研究開発』とは何か、議論を重ねました。そして、自動車エンジンの最適化設計では当たり前になっているデジタルツイン実験を、自然界で複雑な要因が絡み合っている農業に導入するという課題を定めました。現実の空間での栽培実験では時間もお金も労力もかかります。しかし、デジタルツインなら世界中の気象条件の下で何万通りもの栽培条件を試せます。食料不足による紛争のない平和な世界づくりにも貢献していきたいです」。数学者、気象学者など分野を横断したチームで、量子コンピュータやスーパーコンピュータという理研の研究資源を活用しながら課題に取り組んでいく。
研究を経済圏まで拡張
「高品質なダイズを大量に収穫しても、儲けが出なければ農家の方々は幸せになれません。流通の段階でどこかに過剰にダイズが運ばれ廃棄されてしまっては、環境にも経済にも負荷をかけます。だからこそ、生産から消費まで含めた経済圏も研究するのです」。ダイズが畑を出てから消費者に届くまでの現象をデータ化してマルチオミクス解析にインプットする。商社や卸売業者などのステークホルダーに、ダイズの価格が決まる仕組みを聞き取り調査するのも研究の一環だ(図4)。
図4 ダイズ取引のステークホルダー
デジタルツインによって、ダイズの作付けや天候などのデータから、収穫量、出荷時期、品質も予測できる。産地や品種とともに、それらの収穫予測情報や前年比などを流通に携わる人に伝え、無駄のない取引を促すシステムも開発している(図5)。「いつ、どこに発送すれば最も収益を得られるかをデータから判断できます」
図5 ステークホルダーに予測データをリアルタイムに伝える画面(試作版)
必要な情報をカスタマイズ表示できる。このシステムは取引に関するデータを収集する役割も兼ねており、データは研究にも活用する。
理研の科学者として社会のための科学を
ダイズ研究の背景には、公的研究機関である理研の科学者としての思いがある。ダイズなど穀類の研究をしても、大幅な利益の増加は見込めない。そのため、民間企業は研究に参入しにくい。「それでも、ダイズの食料自給率を上げておくことは大切です。ダイズはタンパク質も脂肪も食物繊維も豊富ですから」。各ステークホルダーから独立し、利益をとらない理研の科学者だからこそ、経済圏まで研究できる。
「これまでの科学は、理論を踏まえて仮説を立てて実験で検証してきました。私たちは1年に1度しか収穫できないダイズ栽培から大量のデータを集めて解析し新しい仮説を導き出すところから始めますから、時間はかかります。それでも、こういった科学の手法を取り入れ、社会の役に立つ研究をしたいと考えています」
地球と人類にとって大切な研究は何かと問い続け、次はイネを研究すると決めている。
(取材・構成:大石 かおり/撮影:石川 典人/制作協力:サイテック・コミュニケーションズ)
関連リンク
- 2023年4月12日プレスリリース「持続可能な農業のための堆肥-土壌-植物相互作用モデル」
- 2020年6月9日プレスリリース「農業生態系のデジタル化に成功」
この記事の評価を5段階でご回答ください