「生体内ではこんなにも数多くの化学反応がシステマチックに機能して、生命が維持されているのか」と学生時代の講義で感動した千葉 洋子 上級研究員。その生体内化学反応の触媒である「酵素」の活性はどのように決まるのか。その探究の中で長年研究してきたセリンを合成する酵素で実験を重ね、重要な手掛かりをつかみました。
千葉 洋子(チバ・ヨウコ)
環境資源科学研究センター 生体機能触媒研究チーム 上級研究員
謎多きアミノ酸、セリン
「アミノ酸は、生物にとって重要な有機化合物です。アミノ酸がどのような経路で合成されるかは多くの生物で共通しているので、ゲノムを調べればおおよそ分かります。ただ、セリンは例外で、生物によって異なる合成経路や酵素を使います。しかも、ゲノムを調べてもそれらが分からない生物もたくさんいるんです」。千葉 上級研究員は原始的な生物や高温の極限環境で生きる微生物など、多様な生物を用いてセリンの生合成経路を実験的に特定してきた。
雑談から生まれた研究テーマ
2019年に理研に着任し、同僚の大岡 英史 研究員と雑談していたときのことだった。「セリン生合成酵素(ホスホセリンホスファターゼ、以下PSP)には遺伝的な多様性があるのだけれど、その理由が分からないんです。触媒理論の観点から何か説明できないかな」と疑問を投げかけたところ、触媒について理論的に研究する大岡 研究員は、欧州の研究グループが2018年に発表した論文※1を紹介し、「酵素の活性に着目してみては?」と助言した。その論文は「酵素が反応の原料(基質)と結合しやすいほど活性が高まる」というそれまでの常識に反し、「高すぎず低すぎない、適切な結合の強さが存在する」ことを示すものだった。
その論文を読んだ千葉 上級研究員は、「この結果は全ての酵素に当てはまるのだろうか?」と疑問を持った。というのも、この論文ではセルラーゼという1種類の酵素を解析していた。しかも、セルラーゼを持っている生物は限定的で、ほとんどは真菌類のカビだ。「これだけでは全ての酵素に共通する法則かは分からない」。そこで、「PSPでセルラーゼと同じ結果が得られるかどうか調べよう。酵素を持つ生物種、酵素自体の遺伝的背景など、いろいろな観点でバラエティに富んだPSPを用いたら、セルラーゼとは異なる結果が得られるかもしれないし、そこから何か新しいことが分かるかもしれない」と考えた。
- ※1論文情報:ACS Catalysis DOI:10.1021/acscatal.8b03547
誰もがつかみたかった手掛かり
生物はバクテリア(細菌)、アーキア(古細菌)、真核生物という3グループに大別される。その3グループ全てを含むように10種の生物を選び、それらが持つPSPを用いて図1の反応について酵素活性を調べた。
図1 セリンを合成する酵素反応
酵素(PSP)の活性ポケットに、基質(ホスホセリン:リン酸がついたセリン)が結合して、リン酸が外れる化学反応が進みセリンが生成される。
通常、セルラーゼはどれもカビの生息する常温付近で働いているが、千葉 上級研究員は常温から85℃と幅のある環境で働くPSPを用意した。その意味でも多様性を含んでいた。研究の結果、セルラーゼとは異なる活性の傾向が明らかになった(図2)。
図2 PSPとセルラーゼの基質親和性と酵素最大活性の関係の違い
黒は欧州の研究グループが発表したセルラーゼの実験結果。赤が千葉 上級研究員らが行ったPSPの実験結果。PSPは酵素と基質の親和性を表す値(Km)と酵素最大活性(kcat)の相関関係が弱く、Kmが小さく、かつkcatが大きくなる酵素があった。
セルラーゼでは、ミカエリス・メンテン定数Km(酵素と基質の親和性を表す値)が低いほど、酵素最大活性(kcat)も低かった。「つまり、Kmが決まったらkcatも決まり、この制約を破るのは難しいことを示唆します。ところが、PSPではこの制約(直線)から外れて、Kmが低くkcatが高い酵素がありました。これはKm以外にもkcatを決める要因があることを意味します。その要因を特定できれば、酵素活性を高める工夫ができるかもしれません」。活性の高い酵素とは、このグラフの左上に位置する「Kmが低くても酵素最大活性が高い酵素」を意味する。誰もがつかみたかった手掛かりをつかんだのだ。
酵素活性を高める因子を探す
「酵素と基質の親和性(Km)」以外の何が酵素最大活性に影響しているのか、大岡 研究員が行った理論的な解析から「アレニウスプレ因子」の可能性が浮かび上がってきた。アレニウスプレ因子は、スウェーデンのアレニウスが考案した物理化学的な因子で、反応速度に関する実験結果を解釈する際に役に立つ。
10種類のPSPそれぞれのアレニウスプレ因子の値を実験で求めたところ、酵素ごとに大きくばらついた。「これはPSPにおいてKmだけでなくアレニウスプレ因子の違いが最大活性に重要な影響を与えていることを意味します。ただし、直線からのずれの度合いをアレニウスプレ因子だけでは説明できないので、他にも活性を決める要因があるはずです。それもこれから明らかにしていきたいですね」
生物の触媒である酵素を利用すると、人工的な触媒では難しい化学反応が進む。実際、創薬やエネルギー産業、食品産業などにおいて、人間は酵素の力を活用している。「酵素を改良したり、酵素反応を組み合わせて自然界にない反応経路をつくって人間活動に役立たせたりすることが盛んに行われています。ですが、人間は酵素を生物ほど上手に使いこなせていないと感じています。基礎研究から何かしらの酵素設計指針を示したいのです」
千葉 上級研究員は、生物内では反応全体(代謝)が調和して機能するように個々の酵素反応が調整されているのではないかと考えている。その「調和」の正体を科学的に解明することが目標だ。それにより、生物が酵素反応(代謝経路)を進化させてきた道筋が分かり、人工代謝系を効果的に機能させるための指針も見えてくるに違いない。
「個々の酵素の活性を高めることは生物学的にも工学的にも重要ですが、それだけでは代謝というシステム全体としてはうまく機能しないのでしょう。代謝・酵素の進化を解明することは、酵素同士、またそれらが置かれている場(環境)との調和の過程を知ることです。この調和のメカニズムを明らかにすることは、代謝工学などの生体内のミクロな視点から資源循環など地球環境規模のマクロな視点まで、人間が環境とどう調和し、地球の一構成員としてどう行動するのが好ましいのかを考える上での手掛かりとなるはずです」。その目は未来を見据えている。
(取材・構成:大石 かおり/撮影:相澤 正。/制作協力:サイテック・コミュニケーションズ)
関連リンク
- 2024年2月29日プレスリリース「酵素活性を向上させる因子の発見」
- 2023年8月24日プレスリリース「酵素活性を最大化する理論的な条件の発見」
- 2023年12月12日クローズアップ科学道「100年前の数式を見直し、酵素の働きを最大に」
この記事の評価を5段階でご回答ください