要旨
理化学研究所(理研)光量子工学研究領域エクストリームフォトニクス研究グループ アト秒科学研究チームの沖野友哉研究員と緑川克美チームリーダーの研究チームは、高強度アト秒パルス列[1]を用いたポンプ・プローブ計測[2]により500アト秒(1アト秒は100京分の1秒=10-18秒)の周期で起きる窒素分子内の電子状態変化を直接観測することに成功しました。
アト秒のシャッタースピードを有する極短パルスは、分子内の電子の動きを可視化する光源として期待されています。しかし、これまでは強度の高いアト秒パルスが得られず、また、アト秒パルスのみで得られる情報を取得するための分光法も開発されていなかったため、アト秒パルス単体で物質内の電子の動きを観測することは困難でした。
研究チームは、高強度のアト秒パルス列発生法の開発と並行して、アト秒非線形フーリエ分光法[3]の開発を行いました。今回、理研独自の高強度アト秒パルス列発生法に、高安定・高精度のアト秒領域の空間分割型干渉計と高い信号雑音比が得られる速度投影型運動量画像計測装置[4]を組み合わせることで、アト秒時間領域での分子内の電子状態変化を観測することに成功しました。
開発した手法を用いることで、化学反応を電子レベルで理解することや、アト秒領域の電子運動の制御によって化学反応を制御することなど、未知の研究領域の開拓が可能になると期待できます。
本研究は、文部科学省最先端の光の創成を目指したネットワーク研究拠点プログラム受託事業先端光量子科学アライアンス(APSA)の一環として行われました。成果は、米国のオンライン科学雑誌『Science Advances』(9月25日付け)に掲載されます。
背景
全ての物質は原子核と電子でできています。原子核と電子では質量の差が大きく、速度が大きく異なります。このため、電子が、ある原子核から隣り合う原子核に移動する間、原子核の位置は全く動いていないかのように見えます。しかし、あらゆる化学反応は電子の移動が原子核の位置の変化を引き起こすことで始まります。したがって、分子内の電子の動きを詳細かつリアルタイムで観測することは、化学反応を理解する上で極めて重要です。また、電子の動きを自由自在に操作できれば、化学反応を自在に制御できることから、これまでにない性質を持つ物質の作製も可能になります。
分子内の電子の動きをリアルタイムで観測するには、アト秒のシャッタースピードを有するカメラが必要です。極めて高い時間分解能を有するアト秒パルスは、不確定性原理[5]に従いエネルギーの不確定性を伴います。アト秒パルスを物質に照射すると、多くの場合物質中の複数の電子状態が同時に励起され、電子波束[6]が生成されます。電子波束の生成は、電子の運動に由来する電荷の移動である電荷マイグレーション[7]を引き起こします。これは、物質内を電荷がアト秒の時間幅で動くことを意味します。
しかし、電子波束を生成すること自体は比較的容易であっても、どのような電子波束が生成されているかを確認することは容易ではありません。これまで提唱されていた光電子に着目して電子波束を観測する方法(図1(a))では、高強度のアト秒パルスを必要とするため実現が困難でした。そこで、物質内の電子波束を観測できる新しい手法の開発が望まれていました。
研究手法と成果
分子の電子波束を生成し観測するためには、アト秒パルスを用いたポンプ・プローブ計測が最も直接的です。研究チームは独自の方法で、ポンプ・プローブ計測が可能な高い強度を持つアト秒パルスを発生させてきました。また、従来提案されていた光電子(図1(a))よりも、フラグメントイオン(図1(b))に着目して電子波束を観測する方が、信号雑音比(S/N比)を1桁以上高くできることや、光源を選ばないことから計測の実現が容易であることに着眼し、電子波束の観測を行いました。
研究チームはまず、アト秒パルス列(図2)をポンプ光として用いて窒素分子を励起し、複数の束縛性電子状態を励起することによって電子波束を生成しました。次に、電子波束の時間変化を観測するためにアト秒パルス列をプローブ光として照射しました。この時、窒素分子の一価イオンの電子励起状態が生成されます。電子励起状態はエネルギー的に不安定であるため、フラグメント過程[8]が引き起こされ、窒素原子イオンと窒素原子に解離します。ポンプ光を照射してからプローブ光を照射するまでの時間を変化させたとき、特定の運動エネルギーを持つ窒素原子イオンの量がどのように変化するかを測定し、電子波束の時間変化(図3(a))を観測しました。フーリエ変換スペクトル(図3(b))から、信号量の変化が4つの周期的な信号変調から構成されていることが分かりました。一番速い周期の信号量変調が500アト秒、一番遅い周期の信号量変調が3500アト秒となりました。
しかし、この計測だけでは、どの電子状態が励起されて電子波束を構成しているかが分かりません。そこで、電子波束の生成に関与している電子状態を特定するために、振動波束[9]の時間発展(図4)を観測しました。安定な窒素原子と窒素原子の間の距離である平衡核間距離が存在する場合、電子状態のポテンシャルは束縛型であり分子は振り子運動を行います。この振り子運動、すなわち振動波束の周期および振動の減衰の仕方は、電子状態に固有であることから、振動波束の時間発展を観測することは電子状態の固有の指紋を観測することに対応します。
振動波束の時間発展の観測を行った結果、5種類の異なった特徴を持つ振り子運動が観測され、窒素分子の少なくとも5つの電子状態が電子波束の生成に関与していることが明らかとなりました。高い時間分解能と複数の振動波束の同時観測が可能なスペクトル分解能を兼ね備えた独自の高強度アト秒パルス列光源を用いたことによって、電子波束の起源と時間発展の観測の両方を実現することが可能となりました。電荷マイグレーションを介して化学反応を制御する新しい研究分野である「アト秒化学」の幕開けとなる研究成果といえます。
今後の期待
今回開発した分子におけるアト秒領域の電子波束の観測手法は、アト秒の時間分解能を必要とする物質中の電子のダイナミクスを解明する研究につなげることが可能です。将来的には、①紫外線照射時のDNA損傷メカニズムの解明、②触媒反応の基礎反応過程の解明、③光合成反応初期過程の解明、などの実現につながる研究成果です。今回は、2原子分子である窒素分子における原理実証実験でしたが、アト秒パルスを発生する波長を変化させることや、さらなる高強度化・高繰り返し化を実現することで、多原子分子や生体分子を構成するアミノ酸やタンパク質を対象としたアト秒電子波束の生成と観測を行うことが可能になると考えています。
今後は、研究チームで並行して開発を行っている高強度孤立アト秒パルス[10]発生技術を用いることにより、物質内の電子の動きをさらに高精度・リアルタイムに観測することが可能になると期待しています。
原論文情報
- Tomoya Okino, Yusuke Furukawa, Yasuo Nabekawa, Shungo Miyabe, A. Amani Eilanlou, Eiji J. Takahashi, Kaoru Yamanouchi, Katsumi Midorikawa, "Direct observation of an attosecond electron wavepacket in a nitrogen molecule", Science Advances, doi: 10.1126/sciadv.1500356
発表者
理化学研究所
光量子工学研究領域 エクストリームフォトニクス研究グループ アト秒科学研究チーム
研究員 沖野 友哉(おきの ともや)
チームリーダー 緑川 克美(みどりかわ かつみ)
報道担当
理化学研究所 広報室 報道担当
Tel: 048-467-9272 / Fax: 048-462-4715
補足説明
- 1.アト秒パルス列
高強度の可視および近赤外波長領域のフェムト秒レーザー光(基本波)を貴ガスに集光照射することによって、基本波の奇数分の1の波長を有する真空紫外から軟X線領域の波長の短い光が発生する。基本波の電場周期(波長800nmの場合で、2.66フェムト秒)の半周期でアト秒の時間幅を有するアト秒パルスが連なるため、アト秒パルス列と呼ばれる。連なるアト秒パルスの数は、基本波の時間幅で決まる。
参考:2006年10月17日プレスリリース
「 世界最短の物理現象:320アト秒のパルス光の構造解明に成功」 - 2.ポンプ・プローブ計測
化学反応を追跡するための計測手法の一つであり、ポンプ光で物質の反応をスタートさせ、プローブ光で反応状況を観測する。ポンプ光とプローブ光の照射時間差を変化させて繰り返し観測することによって、分子構造の変化や化学結合の組み換えや解離等の化学反応を極めて高い時間分解能で観測することが可能な手法である。時間分解能すなわち反応を捉えるためのカメラとしてのシャッタースピードは、ポンプ光およびプローブ光の時間幅で決まってくる。 - 3.アト秒非線形フーリエ分光法
アト秒パルスのみを用いた非線形光学現象を利用した分光手法の1つ。アト秒パルスの電場波形の測定と分子の非線形応答の両方が同時に得られる手法。 - 4.速度投影型運動量画像計測装置
レーザー光を分子に照射した場合に生成する荷電粒子(イオンおよび電子)の運動量を観測する方法の1つ。集光点の大きさによらず運動量が同じ同一質量の荷電粒子は同じ場所で検出可能な画像法。質量が異なると、検出器への到達時間が異なるため、検出器にパルス状の電圧を加えることで、特定の質量を有する荷電粒子の運動量画像を選択的に取得することができる。 - 5.不確定性原理
時間とエネルギーの両方を同時に正確に計るとはできないという原理。どちらかを正確に測ろうとした場合、もう片方は不確かさが増加する。すなわち、アト秒パルスのように時間幅が極めて短い光を用いた計測の場合、エネルギーの不確定性すなわちエネルギー幅が大きくなる。 - 6.電子波束
励起光の時間幅が短い場合には、時間幅とエネルギー幅の間の不確定性原理からエネルギー幅が広くなるため、物質の複数の電子状態が同時に励起される。この時、位相がそろって励起されると、電子状態の合わせ状態が生成される。この量子状態のことを電子波束と呼ぶ。 - 7.電荷マイグレーション
分子内の核の運動を伴わない電子の運動由来の電荷移動を意味する。分子内の核の運動を伴った結果として引き起こされる電荷移動は電荷トランスファーと呼び区別する。 - 8.フラグメント過程
分子を構成する化学結合の少なくとも1つが切れて複数種の原子および分子に分かれる反応過程である。 - 9.振動波束
分子は複数の原子の集合体であり、原子と原子の間は共有結合で結ばれている。原子と原子の間は、バネで結ばれているものとみなすことができ、周期的な運動をする。このとき、原子の種類と結合の種類で固有の振動周期が存在する。励起光のエネルギー幅が大きい場合には、励起光のエネルギー幅の中にある全ての振動準位の重ね合わせ状態が生成する。複数の振動準位が重ね合わされた状態のことを振動波束と呼ぶ。 - 10.孤立アト秒パルス
孤立アト秒パルスは、アト秒パルス列でアト秒パルスの数を1つに制限したもの。ポンプ・プローブ計測に最適な光源。
参考:2013年10月25日プレスリリース
「 世界最高出力の孤立アト秒パルスレーザーを開発」
図1 分子における電子波束の観測手法
2つの電子波束の観測手法を示した。(a)は従来提案されていた光電子に着目する手法、(b)は今回用いたフラグメントイオンに着目する手法。
電子状態Xからポンプ光を用いて電子状態Aおよび電子状態Bに同時励起する(電子状態Aと電子状態Bの間で電子波束が生成する)。また、電子状態Aと電子状態Bは束縛性のポテンシャルであるため、各電子状態で振動波束が生成する。
方法(a)では、プローブ光で電子状態Aおよび電子状態Bをさらにイオン化し、電子状態Cの連続状態に遷移させたときに生成する光電子の運動エネルギー分布の時間変化を記録することによって電子波束を観測する。
方法(b)では、プローブ光を用いて電子状態Aと電子状態Bを解離性の電子状態に遷移させることによって誘起されるフラグメント生成過程で生じるフラグメントイオンの運動エネルギーの時間変化を記録することによって電子波束を観測する。
図2 アト秒パルス列の時間幅の計測
(a)は自己相関波形、(b)はアト秒パルスのスペクトルより計算された電場波形。
1ユニットは基本波の電場周期2.7フェムト秒に対応し、その半周期でアト秒パルスが発生していることを表している。自己相関波形は、少なくとも2光子以上の光子が吸収されることによって生成する信号量の変化を観測することによって計測できるものであり、2光子吸収が実際に起こっていることを直接的に示す結果である。この計測結果は、アト秒パルスの強度がポンプ・プローブ計測を行うに十分であることを示している。
図3 アト秒電子波束の直接観測
(a)はポンプ光とプローブ光の遅延時間の走査で得られた窒素原子イオンの信号量変化、(b)はフーリエ変換スペクトル。
フーリエ変換後のスペクトルから一番速い周期の信号量変調が500アト秒、一番遅い周期の信号量変調が3500アト秒であることがわかる。
図4 振動波束の時間発展の観測
(a)は窒素原子イオンの運動エネルギーのポンプ光とプローブ光の遅延時間依存性を示した図。カラースケールはフラグメントイオンの量。
(b)は(a)をフーリエ変換することによって得られる振動周期の運動エネルギー依存性(振り子運動)を示した図。カラースケールは得られる信号の時間変調量。70~50フェムト秒の間に1つ、20~14フェムト秒の間に4つ、合計5つの異なる特徴を持つ振り子運動が観測された。なお、同じ周期の間の複数の分布は1つの電子状態に由来するため、70~50フェムト秒の間の分布は1つとカウントする。